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text:yomeiuji:uji096 [2015/03/30 16:43] – [第96話(巻7・第5話)長谷寺参籠の男、利生に預る事] Satoshi Nakagawatext:yomeiuji:uji096 [2018/08/17 21:04] (現在) Satoshi Nakagawa
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 **長谷寺参籠の男、利生に預る事** **長谷寺参籠の男、利生に預る事**
  
-いまはむかし、父母、しうもなく、妻も子もなくて、只一人ある青侍ありけり。すべき方もなかりければ、「観音たすけ給へ」とて、長谷にまいりて、御前にうつぶし伏て申けるやう、「此世にかくてあるべくは、やがて此御前にてひしにに死なん。もし又、をのづからなる便もあるべくは、そのよしの夢をみざらんかぎりは出まじ」とて、うつぶしふしたりけるを、寺の僧みて「こは、いかなるもののかくては候ぞ。物食所もみえず。かくうつぶしうつぶしたれば、寺のため、けがらひいできて、大事に成なん。誰を師にはしたるぞ。いづくにてか物はくふ」などとひければ、「かくたよりなき物は、師もいかで侍らん。物たぶる所もなくあはれと申人もなければ、仏の給はん物をたべて、仏を師とたのみ奉て候也」とこたへければ、寺の僧どもあつまりて、「此事いとど不便の事也。寺のためにあしかりなん。観音をかこち申人にこそあんなれ。是あつまりて、やしなひさぶらはせん」とて、かはるがはる物をくはせければ、もてくる物をくひつつ、御前を立さらず候ける程に、三七日に成にけり。+===== 校訂本文 =====
  
-三七日はてて明んとするに、御帳より人いでて、「此おの前世むくひばし観音かこち申て、かくて候事、いとあやしき事也さはあれども、申事のいとおれば、いささか事はからひ先、すみやかかりいでよ。まり出に、ににしあれ、手にあたらん物をて、捨ずしてもたれ。とくとく、出よ」とはるると見てはいおき、やそくの僧のがりゆきて、うちてまかり出けるに、大門てけつまづきて、うつぶしにたをれにけり。+昔、父母(ぶも)、主(しう)もなく、妻も子もなく、ただ一人ある青侍ありけり。べきかたもなかりければ、「観音助け給へ」とて長谷((長谷寺))に参りて、御前にうつぶし伏して申しけやう、「こかくてあるべくはやがて、こ御前に干死(ひじ)にに死なん。もしまた、おのづからなる便りもあるべくはよし見ざんかぎりは出づまじ」とてうつぶし伏したりける、寺の僧見、「こは、いかなる者の、かくてふぞ。もの食ふ所も見えずかくうつぶ伏したれば、ため、けがらひ出で来て、大事にななん誰(たれ)を師はしたるぞ。いづくにて、ものは食ふ」など問ひければ、「かく頼なき者は、師もいかで侍ら。もの賜ぶる所もく、『』と申す人もなければ仏の給はん物を食べて、仏を師と頼み奉り候ふなり」と答へければ、寺の僧ど集まりて、「このこと、いとど不便(ふびん)のことなり。寺のめに悪しかりなん。観音をかこち申す人にこそあんなれ。これ集まりて、養ひ候(さぶら)はせん」とて、かはるがは物を食はせければてくひつつ、御前を立ち去らず候ひけるほどに、三七日なりにけり。
  
-おきあがりたるにるにもあらず手ににぎられたる物をれば、わらすべといふ物をただ一筋にぎられた。「仏たぶ物に有にやあらん」といとはかなく思へども、「はからはせ給やうあらん」と思て、れを手まさぐりにしつつ行程に、虻((原本は虫偏に育))ぶめきてかほめぐりに有、うるさければ、木の枝おり払すつれども猶ただおなじやうにうるさぶめきければ、とらへて腰をこのわらすぢにてひくくさきにつけてもたりければ、腰をくくられてほえいで、ぶめき飛いりけるを長谷にまける女車の、前の簾をうちかつぎてゐたるちごの、いとうつくしげなるが、「あの男のもちたる物はなにぞ。かれこひて我たべ」と乗てとるさぶらひにいひけその侍「その持たる物、若公のめすにまいらせよ」いひければ、「仏のたびたる物に候へど、か仰事候へば、まいらせ候はん」とて、とらせたりければ、「此男、いとあれな男也。若公のめす物をやすくまいらせた事」ひて、大柑子を、「これどかはくらん。たべよ」とて、三、いとかばしきみのく紙に包とらせたりければ、侍とりたへとらす+三七日果てて明けんとす夜の夢に、御帳(ちやう)よ出でて、「この男(おのこ)、前世の罪報ひをば知らで観音かこち申して、て候ふことあやしことな。さはあれども申すこといとほしければ、いささのこと、はからひ給はりぬ。すみやかにま出でより出でんに、にもあれ、手に当らん物を取りて捨てずしてれ。とくとく、まかり出でよ」とはるると見て、這起きて、約束僧のがり行きて、うち食ひまか出でるほどに大門にてけまづき、うつぶしに倒れにけり
  
-「藁一筋大柑子三にな事」と思て木の枝付てたにうちてかけて行ほ、「ゆへある人忍てまいるよ」とみえて、侍など、あぐしてかちよまい女房のあゆみこじて、ただたりにたりゐたが、「喉のかはけば、ませよ」とて、きえ入やうにれば、ともの人々手まどひ、「ちか水やある」と走さはぎもとむれど水もなし。「こはいかがせんずる。御はご馬にやもしある」ととへど「はるかにをくれたり」とず。ほとほとしさまみゆればまことにさはまどひて、しあつかふをみて、「のどかさはぐ人よ」とみければやはらあゆみよるに、「ここなる男こ、水あり所はしりたるらめ。此辺ち水のきき所やある」とければ、「此四五町がうちには、きよき水候はじ。いかなの候とひければ、「あゆみこうぜさ給て、御喉のかかせ給て、水ほしがらせ給にのなきが大事れば、たづぬ」と「不便に候御事な。水の所遠て、汲てまいば程へ候なん。これはいかが」とて、つたる柑子を三ならとらせたりければ、悦さはぎてくはせたればそれを食てやうやう目を見あげて、「こはいかなりつる事ぞ」といふ+起き上がりあるもあらず、手に握られたる物を見れば、藁すべとふ物を、ただ一筋握られたり。「仏の賜ぶ物にてあるにやあらん」と、いとはなく思へ、「はからはせ給ふやうあらん」と思ひて、これを手りにつつ行くほどに、虻((底本異体字。虫偏に育))一つ、ぶめき顔のめぐにあ、うるば、枝を折り払ひ捨つれどもただ同じやうに、うるさくぶめきければ、捕へてこの藁筋(わらすぢ)に引きくりて枝の先に付けて持りければをくくられて、ほかへは行かで、ぶめ飛び回りけるを、長谷参りける女車の前の簾をうちかつぎてゐたる児(ちご)のいと美げなるが、「あの男の持ちたるものは何ぞ。かれ乞ひ、我に賜べ」と、馬に乗て、ともにあ言ひければ、その侍、「そのたるもの、若公(わぎみ)の召すに参らせよ」と言ひければ、「仏の賜びたへど、く仰せご候へば、参らん」とて、らせたりければ「こ男、いとあはれる男り。若公の召すものをやすく参らせたること」とて、大柑子を、「これ、喉渇(のどかは)くらん。食べよ」とて、、いと香ばしき陸奥紙(ちのくにみ)に包みて取らせたりければ、取り伝へて、取らす
  
-はかせ給『水のませよ』とおせられつるままに、のごもりいらせ給つれば水もとめつれ清き水も候はざに、ここに候男の、思がけぬに、その心をみて、この柑子を三てまつりたりつれば、まいらせたるなり」といふに此女房我は、さは、どかはきて絶入たりけるにこそ有けれ。『ませよいひつる斗はおぼゆれど其後の事は露おぼえず。此柑子えざらましかば、此野中にてきえ入なまし。うれしかりける男かな。此おとこ、いまだあるか」ととへば、「かしこに候」と申。「そ、しばしいへ。いみじからん事あ、たえ入はてば、かひなくてこそやみなまし。男のうれしとおもふばかりの事は、かかる旅にてはいかがせんずるぞ。くひ物はもちてきたるか。くはせてやれ」といへば、「あの男、しばし候へ。御はたご馬などいりたらんに、物など食てまかれ」と、「うけ給ぬ」とてゐたほど、はたご馬、かはご馬などきつきたり。+藁一筋が、大柑子三つになりぬること」と思ひて、木枝に結ひ付けて、肩にうちて行くに、「ゆゑある人の忍びて参るよ」見えて侍など、あまた具して徒歩(かち)よ女房の、困(こう)じて、ただたたりたる、「渇けば、水ませよえ入るやにすれば、人々手惑ひをて、「近く水やる」騒ぎ求むれど、水もなし。「こは、いかがせんずる。御旅籠馬(はたご)もしある」と、「遅れたり」とて見えず
  
-「など、かくはるかにくれはまいるぞ。御はたご馬などはつねにさだつこそよけれ。との事などもあるに、かくをくるるはよ事かはなどいてまんびきたたみなどして、「なれこうぜさせ給たれば、めし物はここにてまいらすべき也」とて、夫どもやりなどして、水くませ食物いだしたれば、此男にきよげにして、くはたり。物をくふくふ、「ありつる柑子、なににかならんずらん。観音はからせ給事なれば、よもむなしくはやまじ」と思ゐたる程にしろくよき布を三むら、とりいでて「これあの男にらせよ此柑子は、つくすべき方もども、かかる旅の道にては、うれしとおもふ斗の事はいかがせん。これは、ただ心ざしのはじめをみす也。京のおはしましし所はそこそこになん。かならずまいれ。此柑子の喜ばせんずるぞ」といひてらせたれば、悦てとりて、「わらすぢ一筋が布三むらになり」と思て、腋にはさみてまかる程に、其日は暮にけり+ほとほとしきさまに見ゆればまことに騒ぎ惑ひて、しあつ、「喉渇て騒ぐ人」と見ければ、やはら歩寄りたるに、「ここな男こそ、水のあり所は知りたらめ。このあたり近く、水の清所やあると問ければ「この四・五町うちにはき水候はじ。いかなることの候ふにか」と問ひけ「歩み困ぜさせ給て、御喉の渇かせ給ひて、水がら水の無きが大事なれば、尋ぬるぞ」と言ひければ、「不便に候ふ御ことかな遠くて汲みて参らばほど経(へ)候ひなん。これはいかが」とて包みたる柑子を、三つながらせたりければ、悦び騒ぎ食はせたれば、それ食ひて、やうやう目を見上げて、「こは、いかなりことぞ」と言ふ
  
-道づ人の家にとどまて明ぬれば、鳥と友におて行く程に、日さしありて、りに、えもいずよ馬にのりたる人、此馬を愛しつつ、道もきやらず、ふるはするほどに「まにえみいはぬ馬かな。これをぞ千貫がけなどはふにやらん」とみるほどに此馬、にはかにたうれてただににしぬれ、主、我にもあらぬけしきにてりて立ゐたりてまど、従者どもも鞍おろしして、いかがせんずる」といへども、かなくしにはてれば、手をうちさまがり泣ぬに思ひれどすべき方て、あやしの馬のあるに乗ぬ+「御喉渇かせ給ひて、『水飲ませよ』と仰せれつまま、御殿籠(おほのごも)入らせ給ひつれば、水求め候ひつれども、清水も候はざりつるに、ここに候ふ男の、思ひがけぬに、その心を得て、柑子を三つ奉りたりつれ、参らせたるな」と言ふに、この女房、「われ、さは、喉渇て、絶え入りたりけにこそありけれ。『水飲ませよ』と言ひるばかりは覚ゆれどその後のことは、つ覚え。この柑子得ざらしかば、この野中て、消入りまし嬉しかりる男か。この男(おとこ)、まだるか」と問へばしこ候ふ」と申す。「その男しばれ』と言へ。いみじかんことありとも絶え入なば、かなくこそやみ。男の嬉しと思ふばかりのことは、かかる旅に、いかがせんずるぞ。食持ち来たるか。食はせてや」と言へば、の男、しばし候へ。御旅籠馬など参りたらんにど食ひまかれ」と言へば「承りぬ」とて居たほど、旅籠馬、皮籠馬(かはごうま)など、来着きたり
  
-かくてここにありともすべきやうもし。我等はいなん。これともかくもして、ひきくせ」とて、下すおとこを一人とどめていぬば、此男み「此『わが馬にらん』とて死ぬるにこそあんめれ。藁一すぢが、柑子三になりぬ。柑子三が、布三むらになりたり。此ぬの馬になるべきなめり」と思て、あゆみよりて、此下す男いふやう「こかなりつる馬ぞ」ととければ「みちのくよりえさせ給へる馬なり。よろづの人のほし、『あたいもかぎらず買』と申つるをもおしみてち給はずして、けふくしぬそのあたい、少分をもとらせ給はずなりぬ。おのも『皮をだにはがや』と思へど『旅にてはいかがすべき』と思て、まもり立て侍なり」といひければ「その事也。いみじき御馬かなと見侍つるに、はかくかくぬる事命ある物はあさしき事也。まことに旅にては皮をはぎ給たりとも、えほし給はじ。おのれは此辺に侍れば、皮はぎてつか侍らん。えさせておはね」とて、此布を一むらとらせたれば、男、「思はずなる所得たり」と思て、「おもひもぞかへす」とやおもふらん、布をとるままに、見だにもかへらず、いぬ+「な、かくはるに遅れては参るぞ。御旅籠馬などは先立つこそよけれ。とみことどもあるに、かく遅るるよき事は」ど言がて幔引(まひ)きど敷きて、「水遠んな困ぜさせ給ひたれば、召し物は、ここにて参らすべきなり」と夫(ぶ)どもやりな水汲物し出だしたれば、この清げにして、せたり。
  
-よくやはてて後きあひて、はせの御方にむひて、「此馬、いけて給はらん」と念じゐたるに、この馬目を見くるまま、頭をもたげておんとしけれやはら手をおこれしき事限なし。「をくてくる人もぞある又、ありつ男もくるなどあやうくおぼえければ、やうやうかくれのかたに引入、時うつるまでやすめて、もとのやう心ちもなりにければ、人のもに引もて、その布一むらして、轡や、あやしの鞍かへて、馬に乗ぬ+物を食ふ食ふ「あつる柑子何にんずらん。観音、はからせふことなれば、よもむなしくやまじ」と思ひ居たるほどに、白く良き布を三疋(みむら)、取り出でて、「、あの男取らせよ。この柑子の喜びは言ひつくすべかたもなけれども、かかる旅の道には、嬉と思ふばかりのことはいかがせんはただ、心ざの始めを見するり。京のおはまし所は、そこそこになん必ず参れ。この柑子の喜びをばせんずるぞ」と言ひて布三疋取らせたれば、悦び布を取りて、「藁筋一筋が布三疋になりぬるこ」と思ひ、腋(わき)に挟みまかるほどに、その日は暮れけり
  
-京ざまにのぼ、宇治わたて、日くれにければ、その夜は人のもまりて、今一むらの布して、草・わが食物などかへて其の夜とま、つとめて、いととく京ざまにのぼりければ、九条わたりなる人の家に物へいかんずるやうにて、はぐ所あり。+道づらな人の家とどまりて、れば、とともに起き行くほどに日さあがりて、時ばかりに、えもいず良き馬に乗たる人この馬を愛しつ、道も行きやらず、ふるまはするほどに、「まこえもはぬ馬かな。これをぞ『千貫がけ』などは言ふにやあらん」見るほど、こ馬、にはかに倒(たう)れて、ただ死にに死ぬれば、主、れにもあらぬ気色(けしき)にて、下りて立ち居たり。手まどひして、従者どもも、鞍下(おろ)しどしていかがせんずる」と言へども、かひなく死ぬれば手を打ち、あましがり、泣きぬばかりに思ひたれど、すべき方なくて、やしの馬のあるに乗
  
-此馬いて行たらんに、見しりたる人あり『ぬみたるか』などいはれんよしなし。ら、これを売てばや」と思て「かやうの所に馬など用なる物ぞかし」とて、おり立てよりて、「もし馬などや買せ給ふ」ととひければ、「馬がな思けほど此馬を「いかがせん」とさはぎて、只今かはぎぬなどはなきを、この鳥羽の田や米などにはかへてんや」とひければ、「中々きぬよりは第一の事也」と思て、「きぬや銭どこそ用には侍れれは旅なれば田なば何にかずる御用あるべくは、こそしたはめ」此馬のり心み、はせなどして、「ただ、思つるさま也」とひて、此鳥羽のちかき田三町、稲すこし、米などらせてやりて、此家をあづけて「おのれし命ありて帰のぼたらば、その時返しえさせ給へのぼらざらん、かくてゐ給つれ。もし又、命たえてなくもなりなばやがてわが家へ。子も侍らねば、とかく申人もよも侍ら」といひて、あづけて、やがてくだりければその家入居てみたける+かくてここにありとも、すべきやうもなし。われら去なん。これ、ともくもて、引き隠せ」とて、下種男(げすおとこ)を一人どめて去ぬれば、この男、見て、「この、『わ馬にらん』て、死ぬるにこそあんめれ。藁一筋が柑子三つになりぬ。柑子三つが、布三疋(むら)になりたり。この布の馬になるべきなめり」と思ひて、歩み寄、この下種男言ふやう、「こ、いなりつる馬ぞ」とひければ、「陸奥国(みちのくに)より得させ給へる馬よろづ人のほしがりて『値(あたひ)も限ず買はん申しつるをも惜しみて、放ちはずして、今日かく死ぬ値、少分をも取らせ給ずなりぬ。おのれも『皮をだにばや』『旅にて、いかがすべ思ひて、もり立ち侍るな」と言ひければ、そのことなり『いみじき御馬な』と見侍つるにかく死ぬること、命あるのは、あさましきことなり。まことににては、皮はぎひたりと、え干し給はじ。おのれは、このあたりにば、皮剥ぎて使ひ侍らん。得させておはしね」とて、この布を一疋取らせたれば、男、「思はずなる所得したり」と思ひて、「思ひもぞかへす」と思ふらん、布を取るままに、見だも返らず去ぬ
  
-稲など取をきて、ただとりなりど、食物ありければ、かたはらそのへんなり下すなどいできて、つかはれして、ただあり居つきり。+よくやりはてて後手か洗ひて、長谷の御方に向て、「この馬、生て給はらん」と念じ居たるほこの馬、目を見開くるままに、頭をもたげて、起きんとしければ、はら手をかけて起こしぬ。嬉しきことかぎりし。「遅れて来る人もぞある。また、あ男もぞ来る」など、あやふく思えければ、やうやう隠れの方に引入れて、時移るまで休めて、もとのやうに心地もりにければ、人のもとに引き持て行きて、その布一疋して、轡(くわ)や、あやしの鞍かへて、馬
  
-二月斗の事なりければ、そのえたりける田をなからは人に作らせ、今なからは我れうつくらせたりけるが、人のたのもよけれども、そよのつねにて、おのれがぶんとて作たるはのほかおほくいできたりければ、稲おほく刈をきて、それようちはじめ吹つくるやうに徳つきて、いみじきとく人にてぞありける+京ざまに上るほどに、宇治わたにて、日暮れにければ、その夜は、人のもと泊りて、今一疋の布して、馬の草・わが食ひ物にかへて、その夜泊りて、て、とく京ざまりければ、九条わたなる人の家にへ行かんずるやうにて、立ち騒ぐ所あり。
  
-そのあるもをとせずなりにければ、其家も我物にして子孫なきてことのほかにさかへたりけるとか+「この馬、京に率(い)て行きたらんに、見知りたる人ありて、『盗みたるか』など言はれんもよしなし。やはら、これを売りてばや」と思ひて、「かやうの所に、馬など用なるものぞかし」とて、下り立ちて、寄りて、「もし、馬などや買はせ給ふ」と問ひければ、「馬がな」と思ひけるほどにて、この馬を見て、「いかがせん」と騒ぎて、「ただ今、かはり絹(ぎぬ)などは無きを、この鳥羽の田や米などにはかへてんや」と言ひければ、「なかなか、絹よりは第一のことなり」と思ひて、「絹や銭などこ、用には侍れ。おれは旅なれば、田ならば何にかはせんずると思ひ給ふれど、馬の御用あるべくは、ただ仰せにこそしたがはめ」と言へば、この馬に乗り試み、馳せなどして、「ただ、思ひつるさまなり」と言ひて、この鳥羽の近き田三町、稲少し、米など取らせて、やがてこの家をあづけて、「おのれ、し命ありて帰り上りたらば、その時、返し得させ給へ。上らざらんかぎりは、かくて居給へれ。もしまた、命絶えて、なくもなりなば、やがてわが家にして居給へ。子も侍らねば、とかく申す人もよも侍らじ」と言ひて、あづけて、やがて下りにければ、その家に入り居て、みたりける。 
 + 
 +米・稲など、取り置きて、ただ一人なりけれど、食物ありければ、かたはら、その辺(へん)なりける下種など出で来て、使はれなどして、ただありつきに、居付きにけり。 
 + 
 +二月ばかりのことなりければ、その得たりける田、半(なか)らは人に作らせ、今半らは、わが料(れう)に作らせたりけるが、人の方(かた)のも良けれども、それは世の常にて、おのれが分(ぶん)て作りたるは、ことのほかに多く出で来たりければ、稲多く刈り置きて、それよりうちはじめ、風の吹きつくるやうに徳付きて、いみじき徳人(とくにん)にてぞありける。 
 + 
 +その家主(いへあるじ)も、音せずなりにければ、その家もわがものにして、子孫など出で来て、ことのほかに栄えたりけるとか。 
 + 
 +===== 翻刻 ===== 
 + 
 +  いまはむかし父母しうもなく妻も子もなくて只一人ある青侍 
 +  ありけりすへき方もなかりけれは観音たすけ給へとて長谷 
 +  にまいりて御前にうつふし伏て申けるやう此世にかくてあるへく 
 +  はやかて此御前にてひしにに死なんもし又をのつからなる便も 
 +  あるへくはそのよしの夢をみさらんかきりは出ましとてうつふし 
 +  ふしたりけるを寺の僧みてこはいかなるもののかくては候そ物 
 +  食所もみえすかくうつふしふしたれは寺のためけからひいてきて 
 +  大事に成なん誰を師にはしたるそいつくにてか物はくふなと 
 +  とひけれはかくたよりなき物は師もいかて侍らん物たふる所もなく 
 +  あはれと申人もなけれは仏の給はん物をたへて仏を師とたのみ奉て 
 +  候也とこたへけれは寺の僧ともあつまりて此事いとと不便の事也 
 +  寺のためにあしかりなん観音をかこち申人にこそあんなれ是 
 +  あつまりてやしなひさふらはせんとてかはるかはる物をくはせけれは/105オy213 
 + 
 +  もてくる物をくひつつ御前を立さらす候ける程に三七日に成 
 +  にけり三七日はてて明んとする夜の夢に御帳より人のいてて 
 +  此おのこ前世の罪のむくひをはしらて観音をかこち申 
 +  てかくて候事いとあやしき事也さはあれとも申事のいとおし 
 +  けれはいささかの事はからひ給りぬ先すみやかにまかりいてよ 
 +  まかり出んになににもあれ手にあたらん物を取て捨すしてもち 
 +  たれとくとくまかり出よとをはるると見てはいおきてやくそくの僧の 
 +  かりゆきて物うち食てまかり出ける程に大門にてけつまつきてうつ 
 +  ふしにたをれにけりおきあかりたるにあるにもあらす手ににきら 
 +  れたる物をみれはわらすへといふ物をたた一筋にきられたり 
 +  仏のたふ物にて有にやあらんといとはかなく思へとも仏のはからはせ 
 +  給やうあらんと思てこれを手まさくりにしつつ行程に蜟一ふめきて 
 +  かほのめくりに有をうるさけれは木の枝をおりて払すつれとも/105ウy214 
 + 
 +  猶たたおなしやうにうるさくふめきけれはとらへて腰をこの 
 +  わらすちにてひきくくりて枝のさきにつけてもたりけれは 
 +  腰をくくられてほかへはえいかてふめき飛まはりけるを長谷に 
 +  まいりける女車の前の簾をうちかつきてゐたるちこのいとうつくし 
 +  けなるかあの男のもちたる物はなにそかれこひて我にたへと馬に乗て 
 +  ともにあるさふらひにいひけれはその侍その持たる物若公のめす 
 +  にまいらせよといひけれは仏のたひたる物に候へとかく仰事 
 +  候へはまいらせ候はんとてとらせたりけれは此男いとあはれなる男 
 +  也若公のめす物をやすくまいらせたる事といひて大柑子を 
 +  これのとかはくらんたへよとて三いとかうはしきみちのくに紙に包 
 +  てとらせたりけれは侍とりつたへてとらす藁一筋か大柑子三に 
 +  なりぬる事と思て木の枝にゆい付てかたにうちてかけて行 
 +  ほとにゆへある人の忍てまいるよとみえて侍なとあまたくして/106オy215 
 + 
 +  かちよりまいる女房のあゆみこうしてたたたりにたりゐたるか 
 +  喉のかはけは水のませよとてきえ入やうにすれはともの人々手 
 +  まとひをしてちかく水やあると走さはきもとむれと水もなし 
 +  こはいかかせんする御はたこ馬にやもしあるととへとはるかにをくれ 
 +  たりとてみえすほとほとしきさまにみゆれはまことにさはきまとひて 
 +  しあつかふをみてのとかはきてさはく人よとみけれはやはらあゆみ 
 +  よりたるにここなる男こそ水のあり所はしりたるらめ此辺ちかく 
 +  水のきよき所やあると問けれは此四五町かうちにはきよき水 
 +  候はしいかなる事の候にかととひけれはあゆみこうせさせ給て 
 +  御喉のかはかせ給て水ほしからせ給に水のなきか大事なれは 
 +  たつぬるそといひけれは不便に候御事かな水の所は遠て汲て 
 +  まいらは程へ候なんこれはいかかとてつつみたる柑子を三なからとらせ 
 +  たりけれは悦さはきてくはせたれはそれを食てやうやう目を/106ウy216 
 + 
 +  見あけてこはいかなりつる事そといふ御のとかはかせ給て水の 
 +  ませよとおほせられつるままに御とのこもりいらせ給つれは水もと 
 +  め候つれとも清き水も候はさりつるにここに候男の思かけぬに 
 +  その心をえてこの柑子を三たてまつりたりつれはまいらせたるなり 
 +  といふに此女房我はさはのとかはきて絶入たりけるにこそ有 
 +  けれ水のませよといひつる斗はおほゆれと其後の事は露 
 +  おほえす此柑子えさらましかは此野中にてきえ入なまし 
 +  うれしかりける男かな此おとこいまたあるかととへはかしこに候と 
 +  申その男しはしあれといへいみしからん事ありともたえ入はてなは 
 +  かひなくてこそやみなまし男のうれしとおもふはかりの事は 
 +  かかる旅にてはいかかせんするそくひ物はもちてきたるかくはせてや 
 +  れといへはあの男しはし候へ御はたこ馬なとまいりたらんに物なと食 
 +  てまかれといへはうけ給ぬとてゐたるほとにはたこ馬かはこ馬/107オy217 
 + 
 +  なときつきたりなとかくはるかにをくれてはまいるそ御はたこ馬なと 
 +  はつねにさきたつこそよけれとみの事なともあるにかくをくるるは 
 +  よき事かはなといひてやかてまんひきたたみなとしきて水遠 
 +  かんなれとこうせさせ給たれはめし物はここにてまいらすへき也 
 +  とて夫ともやりなとして水くませ食物しいたしたれは此男に 
 +  きよけにしてくはせたり物をくふくふありつる柑子なににかならん 
 +  すらん観音はからせ給事なれはよもむなしくはやましと思 
 +  ゐたる程にしろくよき布を三むらとりいててこれあの男に 
 +  とらせよ此柑子の喜はいひつくすへき方もなけれともかかる 
 +  旅の道にてはうれしとおもふ斗の事はいかかせんこれはたた心さし 
 +  のはしめをみする也京のおはしまし所はそこそこになんかならすまいれ 
 +  此柑子の喜をはせんするそといひて布三むらとらせたれは悦て 
 +  布をとりてわらすち一筋か布三むらになりぬる事と/107ウy218 
 + 
 +  思て腋にはさみてまかる程に其日は暮にけり道つらなる人 
 +  の家にととまりて明ぬれは鳥と友におきて行く程に日さし 
 +  あかりて辰の時はかりにえもいはすよき馬にのりたる人此 
 +  馬を愛しつつ道もゆきやらすふるまはするほとにま 
 +  ことにえもいはぬ馬かなこれをそ千貫かけなとはいふにや 
 +  あらんとみるほとに此馬にはかにたうれてたたしににしぬれ 
 +  は主我にもあらぬけしきにておりて立ゐたりてまとひして 
 +  従者ともも鞍おろしなとしていかかせんするといへともかひ 
 +  なくしにはてぬれは手をうちあさましかり泣ぬはかりに思ひ 
 +  たれとすへき方なくてあやしの馬のあるに乗ぬかくてここに 
 +  ありともすへきやうもなし我等はいなんこれともかくもしてひ 
 +  きかくせとて下すおとこを一人ととめていぬれは此男みて 
 +  此馬わか馬にならんとて死ぬるにこそあんめれ藁一すちか/108オy219 
 + 
 +  柑子三になりぬ柑子三か布三むらになりたり此ぬのの馬に 
 +  なるへきなめりと思てあゆみよりて此下す男にいふやうこはいか 
 +  なりつる馬そととひけれはみちのくによりえさせ給へる馬 
 +  なりよろつの人のほしかりてあたいもかきらす買んと申つるをも 
 +  おしみてはなち給はすしてけふかくしぬれはそのあたい少分 
 +  をもとらせ給はすなりぬおのれも皮をたにはかはやと思へと 
 +  旅にてはいかかすへきと思てまもり立て侍なりといひけれはその 
 +  事也いみしき御馬かなと見侍りつるにはかなくかくしぬる事 
 +  命ある物はあさましき事也まことに旅にては皮はき給たり 
 +  ともえほし給はしおのれは此辺に侍れは皮はきてつかひ侍らん 
 +  えさせておはしねとて此布を一むらとらせたれは男思はすなる 
 +  所得したりと思ておもひもそかへすとやおもふらん布を 
 +  とるままに見たにもかへらすはしりいぬ男よくやりはてて/108ウy220 
 + 
 +  後手かきあらひてはせの御方にむかひて此馬いけて 
 +  給はらんと念しゐたる程にこの馬目を見あくるままに頭を 
 +  もたけておきんとしけれはやはら手をかけておこしぬうれしき 
 +  事限なしをくれてくる人もそある又ありつる男もそくる 
 +  なとあやうくおほえけれはやうやうかくれのかたに引入て時うつるまて 
 +  やすめてもとのやうに心ちもなりにけれは人のもとに引もて行て 
 +  その布一むらして轡やあやしの鞍にかへて馬に乗ぬ京さま 
 +  にのほる程に宇治わたりにて日くれにけれはその夜は人のもと 
 +  にとまりて今一むらの布して馬の草わか食物なとにかへ 
 +  て其の夜はとまりてつとめていととく京さまにのほりけれは九条 
 +  わたりなる人の家に物へいかんするやうにて立さはく所あり 
 +  此馬京にいて行たらんに見しりたる人ありてぬすみたるかなと 
 +  いはれんもよしなしやはらこれを売てはやと思てかやうの所に/109オy221 
 + 
 +  馬なと用なる物そかしとており立てよりてもし馬なとや買 
 +  せ給ふととひけれは馬かなと思けるほとにて此馬をみていかか 
 +  せんとさはきて只今かはりきぬなとはなきをこの鳥羽の田や米 
 +  なとにはかへてんやといひけれは中々きぬよりは第一の事也と思 
 +  てきぬや銭なとこそ用には侍れおのれは旅なれは田ならは 
 +  何にかはせんすると思給ふれと馬の御用あるへくはたた仰にこそ 
 +  したかはめといへは此馬にのり心みはせなとしてたた思つるさま也 
 +  といひて此鳥羽のちかき田三町稲すこし米なととらせて 
 +  やかて此家をあつけておのれもし命ありて帰のほりたらはその 
 +  時返しえさせ給へのほらさらんかきりはかくてゐ給へれもし 
 +  又命たえてなくもなりなはやかてわか家にして居給へ子も侍ら 
 +  ねはとかく申人もよも侍らしといひてあつけてやかてくたりにけれは 
 +  その家に入居てみたりける米稲なと取をきてたたひとりなり/109ウy222 
 + 
 +  けれと食物ありけれはかたはらそのへんなりける下すなといてき 
 +  てつかはれなとしてたたありつきに居つきにけり二月斗の 
 +  事なりけれはそのえたりける田をなからは人に作らせ今なからは 
 +  我れうにつくらせたりけるか人のかたのもよけれともそれはよのつね 
 +  にておのれかふんとて作たるはことのほかにおほくいてきたり 
 +  けれは稲おほく刈をきてそれよりうちはしめ風の吹つくる 
 +  やうに徳つきていみしきとく人にてそありけるその家あるしも 
 +  をとせすなりにけれは其家も我物にして子孫なきて 
 +  ことのほかにさかへたりけるとか/110オy223
  
text/yomeiuji/uji096.txt · 最終更新: 2018/08/17 21:04 by Satoshi Nakagawa