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宇治拾遺物語
第89話(巻6・第7話)信濃国筑摩の湯に観音、沐浴の事
信濃国筑广湯ニ観音沐浴事
信濃国筑摩の湯に観音、沐浴の事
今はむかし、信濃国につくまの湯といふ所に、よろづの人のあみける薬湯あり。
そのわたりなる人の夢にみるやう、「あすの午の時に観音湯あみ給ふべし」といふ。「いかやうにてかおはしまさんずる」ととふに、いらふるやう、「とし卅ばかりの男のひげくろきが、あやい笠きて、ふしぐろなるやなぐひ、皮まきたる弓持て、こんのあをきたるが、夏毛のむかばきはきて、葦毛の馬に乗てなんくべき。それを観音としりたてまつるべし」といふとみて夢さめぬ。
おどろきて夜あけて、人々につげまはしければ、人々ききつきて、その湯にあつまる事かぎりなし。湯をかへ、めぐりを掃ぢし、しめを引、花、香をたてまつりて、ゐあつまりて、待たてまつる。
やうやう午時すぎ、未になる程に、ただ此夢にみえつるに露たがはずみゆる男の、かほよりはじめ、きたる物、馬、なにかにいたるまで、夢にみしにたがはず。
よろづの人、にはかに立て、ぬかをつく。此男、大に驚て心もえざりければ、よろづの人にとへども、ただおがみにおがみて、その事といふ人なし。
僧の有けるが、手をすりて、ひたひにあてておがみ入たるがもとへよりて、「こはいかなる事ぞ。おのれをみて、かやうにおがみ給ふは」とこなまりたるこゑにてとふ。この僧、人の夢にみえけるやうをかたる時、この男いふやう、「をのれは、さいつころ、狩をして馬より落て、右のかいなをうちおりたれば、それをゆでんとてまうできたる也」といひて、とゆきかう行する程に、人々、しりにたちておがみののしる。
男しわびて、「我身は、さは、観音にこそありけれ。ここは法師に成なん」と思て、弓、やなぐひ、太刀、刀切すてて、法師に成ぬ。かくなるをみて、よろづの人なきあはれがる。さて、みしりたる人いできていふやう、「あはれ、かれはかんつけの国におはする、ばとうぬしにこそいましけれ」といふをききて、これが名をば馬頭観音とぞいひける。
法師に成て後、横川にのぼりて、かてう僧都の弟子に成て、横川にすみけり。其後は土佐国にいにけりとなん。