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text:yomeiuji:uji087 [2015/03/16 20:52] – [第87話(巻6・第5話)観音経、蛇に化し、人を輔け給ふ事] Satoshi Nakagawatext:yomeiuji:uji087 [2018/06/23 21:00] (現在) Satoshi Nakagawa
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 **観音経、蛇に化し、人を輔け給ふ事** **観音経、蛇に化し、人を輔け給ふ事**
  
-いまはむかし、鷹をやくにて過る物有けり。「鷹の放れたるをとらん」とて、飛にしたがひて行ける程に、はるかなる山の奥の谷のかた岸に、高き木のあるに、鷹の巣くひたるを見付て、「いみじき事みをきたる」とうれしく思て、帰てのち、「いまはよき程に成ぬらん」とおぼゆる程に、「子をおろさん」とて、又行てみるに、えもいはぬ深山のふかき谷のそこゐもしらぬうへに、いみじくたかき榎の木の、枝は谷にさしおほひたるがかみに、巣を食て子をうみたり。+===== 校訂本文 =====
  
-巣のめぐりあり((底本「」を欠く))くえもいはずめでたきにて、「あれ子もかるらん」と思づもしらずのぼるに、やうやうま巣もとにんとする程に、ふまへたる枝おれて、谷におち入ぬ+今は昔鷹を役(やく)て過ぐる者ありり。「鷹の放れたを捕らん」とて飛ぶにしがひて行けるほど、遥かなる山の奥の谷の片岸に、高き木のあるに、鷹の巣食ひたるを見付けて、「いみじきこと見置きたる」と嬉しく思ひて、帰りてのち、「今はよきほどになりぬらん」と思ゆるほどに「子を下(お)さん」とて、また、行きて見るに、えもはぬ深山深き谷、そこひも知ぬうへに、いみじく高き榎の木の、枝は谷にさし覆ひたるが上(かみ)に、巣を食ひて、子を生みたり
  
-片岸いでたる木の枝に落かかて、その木の枝をとらへてありければ、生る心ちもせず。すべき方なし。見おろせばそこゐしら谷也。みれば、はるかに高き岸なり。かきぼるべき方なし+鷹、巣めぐりにしく((「しありく」は底本「しあく」まは「あしあ」。諸本により訂正。))。見るにいはめでた鷹にてあれば、「子もよるらん」と思ひて、よろづも知らず登る、やうやう、いま巣のもとに登らんとするほどに、踏まへたる枝折れて、谷に落ち入りぬ
  
-従者どもは、「谷に落入ぬれば、うがひなく死ぬらん」とおもふ。「さるにても、いがあるとみん」と思て、岸のはたへよりて、わりなくつまだてて、おろしけれどわづかにみおろせば、そこゐもしらぬ谷底に、木の葉しげくたる下なれば、さらにみゆべやうなし目くるめなしければ、しばしえみ。すべれば、さりとてあきならねば、みな家に帰て、「うかう」といへば、妻子どもなまどへどかひなし。+の片岸さし出でたる木の枝落ちかかりて、その木の枝をとらへてありければ、たる心地せずすべなし。見下せば、そこひ知らり。見上ぐれば、かに高なりかき登るべき方もなし。
  
-ぬまでも見ゆかまほしけ、「さおぼえず。又たりとも、そこらぬ谷底にて、さばかりのぞきよろづかど給はざり」といへば、「まことにあるら」と人々もいへば、りぬ+従者ども、「谷落ち入りぬ疑ひなく死ぬらん」と思ふ。「さも、いかがあると見ん」と思ひて、岸のはたへ寄て、わりなく爪立(つまだ)てて、怖しけれど、わづかに見下ろせば、そこらぬ谷底に、木の葉しげく隔たる下なれば、さ見ゆべきやうもなし。目くるめき、悲しければ、しばしもえ見ず。すべ方なければ、さりとて、あるべきなねば、みな家に帰りて、「かうかう」とへば、妻子ども、泣きまどへども
  
-さて、谷にすべきたなくて石のそばの折敷のひろさにるかたそばに尻をかけて、木の枝をらへてみじろぐべきかたなし。いささかもはたかば、谷に落入ぬべし。いかにもいかにも、せん方なく鷹飼をやくにて、世をすぐせ、おさなくより観音経を読たてまつり、たち奉りたりければ「助」と思入て憑たてまつりて此経をよひるいくらともなくよみたてまつる+ぬまでも見に行まほしけれど道も覚えず。またおはしたて、さばり覗き、よろづしかども、見えはざりき」と言へば「まことに、さぞあるらん」人々言へば、行かずりぬ
  
-「弘誓深如海」とあるわたりをよむ程に、のかたより、物のよそよとくる心ちのすれ、「何にかあらん」と思て、をらみればいはず大きなる蛇なりけり「長二丈斗あるん」とみゆるが、さしにさしてはひくれば、「我は此蛇くはれなんずるなめ。かなしきわざかな。『観音助給へ』とこそおひつれ、こはいかにしつる事ぞ」と思てじ入てある程に、だきにきて、我ひざのもとをすぐれど、我をのまんとさらにせず+さて、谷すべき方なくて、石そば、折敷のひろさにて、さし出でたるかたそばに尻をて、木の枝へて少し身じろぐべさかはたば、落ち入ぬべしもいかになし
  
-ただよりうへざまへのぼらんとする気色なれば「いかがせん。だこに取付たらば、のぼりなんかし」とおもふ心つきて、腰の刀をやはらぬきて、此蛇のせなかつきて、それにすがりて蛇行ままにかれてゆけば谷より岸のうへざまに、こそこそのぼりぬ+かく鷹飼を役(やく)にて世を過ぐせど、幼くより観音経((『法華経』巻八 観世音菩薩普門品))を読み奉り、たもち奉りたりければ、「助け給へ」と思ひ入りて、ひとへ憑(の)み奉りて、経を夜昼(よるる)いくらもなく読み奉る
  
-そのおり、此男はなれてくに刀をとらんとすれつよくつきたてれば、えぬかぬ程に、ひきはて背さしながら、蛇はこそわたりてむかひの谷りぬ+「弘誓深如海」とあるわたを読むほどに底の方(かた)より物のそよそよ来る心地のすれ「何かあらん」と思ひて、やをら見れば、えもいはず大なる蛇(くちな)なりけり。長さ二丈ばかりもあるらんと見ゆるが、さしにさして這ひ来れば「われはこのに食れなんずるなめり」と、「悲しきわざかな。『観音助け給へ』とこそ思ひつれ、こは、いかにしつるこぞ」と思ひて、念じ入りてあるほどだ来(き)に来て、わが膝のもとを過ぐれど、われを呑まんとさらにせず
  
-此男「うれし」と思ひて家いそぎてゆかんとすれど、此二三日、いささ身をもはらかさず物もくはずすごしたれば、かのやうにやせさぼひつつかつがつとやうやうに行つきぬ。+ただ、谷より上ざま登らんとする気色ないかがせん。に取り付きたらば、登りなんし」と思ふ心付きて、腰刀を抜きてこの蛇の背中突き立て、それすがりて、蛇のくままに引かれて行けば、谷より岸の上ざまに、こそこそと登りぬ。
  
-、家は「いまはいかがせん」とて跡とぶふべき経仏のいなみなしけるにおもひがずよろぼひ来たれば、おどろき泣さはぐことぎりなし。かうかうのこともかたりて「観音の御たすけとて、かくいたるぞ」とあさまがりつる事ども泣泣かたりて、物などくひてその夜はやすみて、つとめてとくおきて、手あらひて、「いつもよみたてまつる経を読ん」とて引あけたれば、あの谷にて蛇の背につきたてし、此御経に「弘誓深如海」の所に立たり。みるに、いとあさましなどはおろかなり。「こは此経のに変じて我をたすけおしましけり」おもふに、あはれにたうとくかなし。いみじとおもふ事かぎなし。そのあたりの人々、これをききて、見あさみけり。+その折、この男、離れ退(の)くに、刀を取すれど、突き立てにければ、え抜ぬほして、背に刀しながら、蛇はこそろりて、向ひの谷に渡
  
-今さら申すべきならねど、観音をたのみ奉んにそのしるしなしといふ事はあるまき事也+この男、「嬉し」と思ひて、家へ急ぎて行かんとすれど、この二・三日、いささか身をもはたらかさず、物も食はず過したれば、影のやうに痩せさらぼひつつ、かつがつとやうやうにして家に行き着きぬ。 
 + 
 +さて、家には、「今はいかがせん」とて、あと弔(あととぶら)ふべき経・仏の営みなどしけるに、かく思ひがけず、よろぼひ来たれば、驚き泣き騒ぐことかぎりなし。 
 + 
 +かうかうのことども語りて、「観音の御助けとて、かく生きたるぞ」と、あさましかりつることども、泣く泣く語りて、ものなど食ひて、その夜は休みて、つとめてとく起きて、手洗ひて、「いつも読み奉る経を読まん」とて、引き開けたれば、あの谷にて、蛇の背に突き立てし刀、この御経に「弘誓深如海」の所に立ちたる見るに、いとあさましなどはおろかなり。 
 + 
 +「こは、この経の、蛇に変じて、われを助けおはしましけり」と思ふに、あはれに、貴くかなし。「いみじ」と思ふことかぎりなし。そのあたりの人々、これを聞きて、見あさみけり。 
 + 
 +今さら申すべきことならねど、観音を頼み奉らんに、その験(しるし)なしといふことは、あるまじきことなり。 
 + 
 +===== 翻刻 ===== 
 + 
 +  いまはむかし鷹をやくにて過る物有けり鷹の放れるを 
 +  とらんとて飛にしたかひて行ける程にはるかなる山奥の 
 +  谷のかた岸に高き木のあるに鷹の巣くひたるを見付 
 +  ていしき事みをきたるとうれしく思て帰てのちいまはよき程に/90オy183 
 + 
 +  成ぬらんとおほゆる程に子をおろさんとて又行てみるにえも 
 +  いはぬ深山のふかき谷のそこゐもしらぬうへにいみしくたかき 
 +  榎の木の枝は谷にさしおほひたるかかみに巣を食て子 
 +  をうみたり鷹巣のめくりにしあくみるにえもいはすめて 
 +  たき鷹にてあれは子もよかるらんと思てよろつもしらすのほるに 
 +  やうやういま巣のもとにのほらんとする程にふまへたる枝おれて谷 
 +  におち入ぬ谷の片岸にさしいてたる木の枝に落かかりて 
 +  その木の枝をとらへてありけれは生たる心ちもせすすへき方 
 +  なし見おろせはそこゐもしらす深き谷也みあくれははる 
 +  かに高き岸なりかきのほるへき方もなし従者ともは谷に 
 +  落入ぬれはうたかひなく死ぬらんとおもふさるにてもいかか 
 +  あるとみんと思て岸のはたへよりてわりなくつまたてておそろ 
 +  しけれとわつかにみおろせはそこゐもしらぬ谷の底に木の葉/90ウy184 
 + 
 +  しけくへたてたる下なれはさらにみゆへきやうもなし目くるめき 
 +  かなしけれはしはしもえみすすへき方なけれはさりとてあるへき 
 +  ならねはみな家に帰りてかうかうといへは妻子ともなきまとへ 
 +  ともかひなしあはぬまても見にゆかまほしけれとさらに 
 +  道もおほえす又おはしたりともそこゐもしらぬ谷底にて 
 +  さはかりのそきよろつにみしかとも見え給はさりきといへは 
 +  まことにさそあるらんと人々もいへはいかすなりぬさて谷には 
 +  すへきかたなくて石のそはの折敷のひろさにてさし出たる 
 +  かたそはに尻をかけて木の枝をとらへてすこしもみしろくへき 
 +  かたなしいささかもはたらかは谷に落入ぬへしいかにもいかにもせん 
 +  方なしかく鷹飼をやくにて世をすくせとおさなくより観 
 +  音経を読たてまつりたもちりたりけれは助給へと思入 
 +  てひとへに憑たてまつりて此経をよるひるいくらともなく/91オy185 
 + 
 +  よみたてまつる弘誓深如海とあるわたりをよむ程に谷の底 
 +  のかたより物のそよそよとくる心ちのすれは何にかあらと思て 
 +  やをらみれはえもいはす大きなる蛇なりけり長さ二丈斗もある 
 +  らんとみゆるかさしさしてはひくれは我は此蛇にくはれなん 
 +  するなめりとかなしきわさかな観音助給へとこおもひつれ 
 +  こはいかにしつる事そと思てねんし入てある程にたたきにきて 
 +  我ひさもとをすくれと我をのまんとさらにせすたた谷より 
 +  うへさまへのほらんとする気色なれはいかかせんたたこれに取付 
 +  たらはのほりなんかしとおもふ心つきて腰の刀をやはらぬきて 
 +  此蛇のせなかにつきたててそれにすかりて蛇の行ままにひか 
 +  れてゆけは谷より岸のうへさまにこそこそとのほりぬその 
 +  おり此男はなれてのくに刀をとらんとすれとつよくつきたてに 
 +  けれはえぬかぬ程にひきはつして背に刀さしなから蛇はこそ/91ウy186 
 + 
 +  ろとわたりてむかひの谷にわたりぬ此男うれしと思ひて 
 +  家へいそきてゆかんとすれと此二三日いささか身をもはたらか 
 +  さす物もくはすすこしたれはかけのやうにやせさらほひつつ 
 +  かつかつとやうやうにして家に行つきぬさて家にはいまはいか 
 +  かせんとて跡とふらふへき経仏のいとなみなとしけるにかくおもひ 
 +  かけすよろほひ来たれはおとろき泣さはくことかきりなし 
 +  かうかうのことともかたりて観音の御たすけとてかくいきたる 
 +  そとあさましかりつる事とも泣泣かたりて物なとくひて 
 +  その夜はやすみてつとめてとくおきて手あらひていつもよみ 
 +  たてまつる経を読んとて引あけたれはあの谷にて蛇の背に 
 +  つきたてし刀此御経に弘誓深如海の所に立たるみるに 
 +  いとあさましなとはおろかなりこは此経の蛇に変して我を 
 +  たすけおはしましけりとおもふにあはれにたうとくかなしいみしと/92オy187 
 + 
 +  おもふ事かきりなしそのあたりの人々これをききて見あさ 
 +  みけり今さら申へき事ならねと観音をたのみ奉んにその 
 +  しるしなしといふ事はあるまき事也/92ウy188
  
text/yomeiuji/uji087.txt · 最終更新: 2018/06/23 21:00 by Satoshi Nakagawa