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宇治拾遺物語

第87話(巻6・第5話)観音経、蛇に化し、人を輔け給ふ事

観音経化蛇輔人給事

観音経、蛇に化し、人を輔け給ふ事

いまはむかし、鷹をやくにて過る物有けり。「鷹の放れたるをとらん」とて、飛にしたがひて行ける程に、はるかなる山の奥の谷のかた岸に、高き木のあるに、鷹の巣くひたるを見付て、「いみじき事みをきたる」とうれしく思て、帰てのち、「いまはよき程に成ぬらん」とおぼゆる程に、「子をおろさん」とて、又行てみるに、えもいはぬ深山のふかき谷のそこゐもしらぬうへに、いみじくたかき榎の木の、枝は谷にさしおほひたるがかみに、巣を食て子をうみたり。

鷹、巣のめぐりにしあり1)く。みるに、えもいはずめでたき鷹にて、「あれは子もよかるらん」と思て、よろづもしらずのぼるに、やうやういま巣のもとにのぼらんとする程に、ふまへたる枝おれて、谷におち入ぬ。

谷の片岸にさしいでたる木の枝に落かかりて、その木の枝をとらへてありければ、生たる心ちもせず。すべき方なし。見おろせば、そこゐもしらず深き谷也。みあぐれば、はるかに高き岸なり。かきのぼるべき方もなし。

従者どもは、「谷に落入ぬれば、うたがひなく死ぬらん」とおもふ。「さるにても、いかがあるとみん」と思て、岸のはたへよりて、わりなくつまだてて、おそろしけれどわづかにみおろせば、そこゐもしらぬ谷の底に、木の葉しげくへだてたる下なれば、さらにみゆべきやうもなし。目くるめきかなしければ、しばしもえみず。すべき方なければ、さりとてあるべきならねば、みな家に帰りて、「かうかう」といへば、妻子どもなきまどへどもかひなし。

あはぬまでも見にゆかまほしけれど、「さらに道もおぼえず。又、おはしたりとも、そこゐもしらぬ谷底にて、さばかりのぞきよろづにみしかども見え給はざりき」といへば、「まことにさぞあるらん」と人々もいへば、いかずなりぬ。

さて、谷にはすべきかたなくて、石のそばの折敷のひろさにて、さし出たるかたそばに尻をかけて、木の枝をとらへて、すこしもみじろぐべきかたなし。いささかもはたらかば、谷に落入ぬべし。いかにもいかにも、せん方なし。かく鷹飼をやくにて、世をすぐせど、おさなくより観音経を読たてまつり、たもち奉りたりければ、「助給へ」と思入て、ひとへに憑たてまつりて、此経をよるひるいくらともなくよみたてまつる。

「弘誓深如海」とあるわたりをよむ程に、谷の底のかたより、物のそよそよとくる心ちのすれば、「何にかあらん」と思て、やをらみれば、えもいはず大きなる蛇なりけり。「長さ二丈斗もあるらん」とみゆるが、さしにさしてはひくれば、「我は此蛇にくはれなんずるなめりと。かなしきわざかな。『観音助給へ』とこそおもひつれ、こはいかにしつる事ぞ」と思て、ねんじ入てある程に、ただきにきて、我ひざのもとをすぐれど、我をのまんとさらにせず。

ただ、谷よりうへざまへのぼらんとする気色なれば、「いかがせん。ただこれに取付たらば、のぼりなんかし」とおもふ心つきて、腰の刀をやはらぬきて、此蛇のせなかにつきたてて、それにすがりて蛇の行ままにひかれてゆけば、谷より岸のうへざまに、こそこそとのぼりぬ。

そのおり、此男はなれてのくに、刀をとらんとすれど、つよくつきたてにければ、えぬかぬ程に、ひきはづして背に刀さしながら、蛇はこそろとわたりてむかひの谷にわたりぬ。

此男「うれし」と思ひて家へいそぎてゆかんとすれど、此二三日、いささか身をもはたらかさず、物もくはずすごしたれば、かげのやうにやせさらぼひつつ、かつがつとやうやうにして家に行つきぬ。

さて、家には「いまはいかがせん」とて、跡とぶらふべき経仏のいとなみなどしけるに、かくおもひがけずよろぼひ来たれば、おどろき泣さはぐことかぎりなし。かうかうのことどもかたりて、「観音の御たすけとて、かくいきたるぞ」とあさましがりつる事ども泣泣かたりて、物などくひてその夜はやすみて、つとめてとくおきて、手あらひて、「いつもよみたてまつる経を読ん」とて引あけたれば、あの谷にて蛇の背につきたてし刀、此御経に「弘誓深如海」の所に立たり。みるに、いとあさましなどはおろかなり。「こは、此経の蛇に変じて我をたすけおはしましけり」とおもふに、あはれにたうとくかなし。いみじとおもふ事かぎりなし。そのあたりの人々、これをききて、見あさみけり。

今さら申すべき事ならねど、観音をたのみ奉んに、そのしるしなしといふ事はあるまじき事也。

1)
底本「り」を欠く
text/yomeiuji/uji087.txt · 最終更新: 2015/03/16 20:52 by Satoshi Nakagawa
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