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打聞集

第9話 玄奘三蔵、心経の事

校訂本文

昔、玄奘三蔵、「伝ふべき仏法あり」とて、天竺に渡り、所々に往(ゆ)きて、仏法を学び往く。

広き野の、玄(はる)かに遠きを往く。道遠くして、日暮れぬ。留るべき所無ければ、たどるたどる足に任せて往く間、多くの火灯したる物、四・五百人会ひぬ。

「人に会ひぬ」と思ひて、悦びをなして、寄りて見れば、えもいはず怖しげなる鬼どもの行くなりけり。すへきやうもなうて、心経1)を音をささげて読むほどに、この音を聞きて、鬼、十方に逃げ散り失せにけり。この心経は、三蔵の、天竺より渡る間、道にて伝へ奉る所の経なり。

この伝へ奉れる様は、山ふところを過ぎ往く間(あひだ)、人、はるかに絶えたる所あり。そこを過ぎ往くほどに、えもいはず嗅(くさ)き香す。やうやう寄りて見れば、草枯れ例ならぬ所あり。鳥獣(とりけだもの)だに見ず。嗅さの耐へがたければ、鼻をふたぎて、あやしさに、あながちに寄りて見れば、一人の死人あり。

「これが香なりけり」と見るほどに、みじろく様にす。「生きたる者なりけり」とみなして、ことのありさまを問ふ。「なんぢは何人(なにびと)、いかなることありて、かうは臥したるぞ」。病人(やまひびと)、答へていはく、「われは女なり。しみさうといふ瘡(かさ)の、首(かうべ)より足裏(あなうら)に至るまで、出でたるなり。嗅さのかくえもいはぬに耐へで、父母もしわびて、かく深き山に捨てて、去(い)にたるなり。かかれども、寿(いのち)は限りありければ、かかるいみじき病をすれども、死にもやらずあるなり」。

三蔵、このことを聞きて、悲しびて、「さても、いかにしてか、この病はやむべき。薬を言ふ人はなかりしか」。病人、答へていはく、「医師(くすし)の申ししは、『首(かうべ)より足裏(あなうら)まで、膿汁(うみしる)を吸ひ舐(ねぶ)れば、すみやかに、平癒なむ』と申ししかども、嗅さに耐へて寄る人もなければ、かくてあるなり」と言ふを聞きて、三蔵、目より涙を流していはく、「なんぢが身は不浄に成れたり。わが身もまた不浄の身なり。同身をもつて、他を汚ながるべきにあらず。われ、なんぢが身を吸ひ舐りて、なんぢが病を秡(すく)はむ」と言ふを聞きて、病人(やまひびと)、手を摩(す)り拝みて、身を任す。

聖、寄りて、胸のほどをまづ舐る。身のさま、泥のごとし。嗅きこと譬(たと)ふべき方なし。あたりの木草さへ、みな枯れにたり。吸ふ間、腹わた返りて逆(さか)ふれども、悲しびの心深きままに、嗅さも思えぬまで2)、悲しかりければ、舐る舌のあと、例の膚(はだ)になりて、乾きもていく。汁づき膿みたる所は、その膿汁(うみしる)を吸ひて3)吐き捨つ。かくのごとくするほどに、頸下(くびした)より腰もとまで、舐り下すほどに、ただ癒えに癒えもていく。

そのほどに、えもいはぬ香ばしき香、4)出で来ぬ。また、見れば、朝日のさしたるかごとくなる光、出で来ぬ。驚きて、怪しびて見れば、この病人5)、えもいはず貴き観世菩薩6)となりぬ。

驚き悲びて、のきて、跪典叉手侍7)、この菩薩、起き居給ひてのたまはく8)、「なんぢは真の潔き聖なりけり。その心を顕(あら)はさんがために、病人の形を見せつるなり。なんぢ、きはめて貴し。しかあれば、わが持ちたる心経、なんぢに伝ふべし。たしかにこれを受けて、はるかに世に伝へて、衆生を導け」とて、伝へ得奉れる所の心経これなり。

この経を説きやみ給ひて後、えもいはず嗅香と思ひつるは、かへりて香ばしき香9)となり、木草も満ちたりと見ゆ10)。金色の光になりて、菩薩、かい消つやうに失せ給ひぬ。

さて、この経を貴びて、鬼に会ひて読みかけ給ふなりけり。経、験(しるし)あらたなり。

かくのごとく、法文11)「法文」により訂正。以下すべて同じ。))どもを学び集めて、唐に帰り給ふ。天竺の王。種々の宝を聖に賜ふ。この中に一の鑊(かなへ)あり。入りたる物どもし尽せず。その鍋なる物食ふ人、すみやかに病癒えぬ。世の伝のおほやけの宝にてありけるを、聖の貴きに、賜ふなりけり。

聖人、賜はりて、「心毒12)では「信度河」」といふ川を渡るに、船、半ばばかりにて、ただ傾(かたぶ)きに傾きて13)、多くの法文・仏、沈みぬべし。

聖、大願を立てて、祈り給へど、その験(しるし)なし。三蔵ののたまはく、「この船のかう傾(かたぶ)く、あるやうあらむ。もし、竜王の用する物あらば、その験を見せ給へ」と祈り給ふほどに、川半より、翁、指し出でて、この鍋を乞ふ。聖、「多くの法文の沈むよりは、この鍋を出ださむ」と思ひて、鍋、入れつ。船、直りて、平らかに渡りぬ。

さて、多くの法文ども、唐にもて渡りて、それより法相(ほうさう)の大乗(だいぞう)の法文、今に絶えず。

翻刻

昔玄奘三蔵伝ヘキ仏法アリトテ天竺ニ渡所々ニ往テ仏法ヲ学ヒ往ク広野ノノ
玄カニ遠ヲ往道トホクシテ日クレヌ留ルヘキ所ナケレハタトルタトル足ニマカセテ往間ヲホクノ火
トモシタル物四五百人アヒヌ人ニアヒヌト思テ悦ヲナシテヨリテ見ハエモイハス怖ケナル鬼トモ
ノイクナリケリスヘキ様モナウテ心経ヲ音ヲササケテ読程ニ此音ヲ聞テ鬼十方ニニケチリ/d21

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192812/21

ウセニケリ此心経ハ三蔵ノ天竺ヨリ渡ル間道ニテ伝タテマツル所経也此伝ヘタテマツレル
様ハ山フトコロヲスキ往間(アヒタ)人ハルカニタエタル所アリソコヲスキ往程ニエモイハス嗅(クサキ)香ス漸々
ヨリテ見レハ草カレレイナラヌ所アリ鳥獣ノタニ見ス嗅ノタヘカタケレハ鼻ヲフタキテ
アヤシサニ強(アナカチニ)ヨリテミレハ一人死人アリコレカ香ナリケリト見程ニミシロク様ニス生タル物
ナリケリトミナシテ事ノアリサマヲ問汝ハ何(ナニ)人イカナル事アリテカウハ臥タルソ病人ト答テ
云我ハ女ナリシミサウトイフカサノカフヘヨリアナウラニ至マテ出タル也嗅サノカクエモイハヌニ
タヘテ父母モシワヒテカクフカキ山ニ捨テテ去ニタルナリカカレトモ寿ハ限アリケレハカカルイミ
シキ病ヲスレトモ死モヤラスアルナリ三蔵此事ヲ聞テ悲テサテモイカニシテカ此病ハヤム
ヘキ薬云人ハナカリシカヤマヒ人答云医師ノ申シシハ首(カウヘ)ヨリ足ウラマテウミシルヲスヒネフレ
ハ速ニ平𡀍ナムト申シシカトモ嗅ニタヘテヨル人モナケレハカクテ有ナリトイフヲ聞テ三蔵
目ヨリナミタヲナカシテ云汝カ身ハ不浄ニ成レタリ我カ身モ又不浄身ナリ同身ヲ
以テ他ヲキタナカルヘキニアラス我汝カ身ヲスヒネフリテ汝カ病ヲ秡(スクハム)ト云ヲキキテ病
人ト手ヲ摩ヲカミテ身ヲ任ス聖ヨリテ胸ノ程ヲ先ネフル身ノサマ泥ノ如シ嗅コト
辟ヘキ方ナシアタリノ木草サヘ皆カレニタリスフ間腹ワタ返テ逆(サカフ)レトモ悲ノ心深キママニ嗅モヲホエヌ
□テカナシカリケレハネフル舌ノアト例ノ膚(ハタ)ニ成テカハキモテイクシルツキウミタル所ハ其ウミシルヲ
□ヒテハキ捨如是スル程ニ𩒐下シタヨリ腰モトマテ咶リ下程ニ只𡀍ニ々以イクソノ程ニエモイハ
□□ウハシキ香出キヌ又見レハ朝日ノサシタルカ如クナル光出キヌ驚テアヤシヒテ見ハ此病/d22

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192812/22

□エモイハス貴キ観世菩薩成ヌ驚悲テノキテ跪典叉手侍此菩薩起居給テ
□タマハク汝ハ真ノ潔聖ナリケリ其心ヲ顕カタメニ病人形ヲ見ツルナリ汝極貴シ
シカアレハ我持心経汝ニ伝ヘシ慥ニ此ヲウケテハルカニ世ニ伝テ衆生ヲ導ヒケトテ伝ヘ得タテ
マツレル所ノ心経是也此経ヲ説已給テ後エモイハス嗅香ト思ツルハ返テウウハシキ香ト成
木草モミチタリト見□金色ノ光ニ成テ菩薩カイケツ様ニ失給ヌサテ此経ヲ貴テ鬼相テ
読カケ給ナリケリ経シルシ新也如是法門共ヲ学集メテ唐帰給フ天竺ノ王種々宝
ヲ聖ニ賜フ此中ニ一ノ鑊(カナヘ)アリ入タル物共シ尽セス其鍋ナル物食人速ニ病𡀍ヌ世ノ
伝ノヲホヤケノ宝ニテ有ケルヲ聖ノ貴ニ賜ナリケリ聖人賜テ心毒ト云川ヲ渡ニ船半許ニテ
タタ方フキニ方フテ多ノ法門仏沈ヌヘシ聖大願ヲ立テ祈給ヘト其ノ験ナシ三蔵ノノ
給ク此ノ船ノカウカタフク有様有ラム若シ龍王用スル物有ハ其験ヲ見給ヘト祈給程ニ
川半ヨリ翁指出テ此鍋ヲ乞聖多法門ノ沈ヨリハ此鍋ヲ出ト思テ鍋入ツ船ナホリテ
平ニ渡ヌサテ多ノ法門トモ唐ニ以渡テ其ヨリホウサウノ大ソウノ法門于今絶ス/d23

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192812/23

1)
般若心経
2)
「まで」は底本「□テ」。一字破損。文脈により補入。
3)
「吸ひて」は底本「□ひて」。一字破損。文脈により補う。
4)
「えもいはぬ香ばしき香」は、底本「エモイハ□□ウハシキ香」。二字程度破損。文脈により補う。
5)
「病人」は底本「病□」。一字破損。文脈により補う。
6)
観世音菩薩
7)
訓読不祥。中島悦次『打聞集』(白帝社・昭和36年9月)は「典」を「曲」の誤写とみて、「ヒザマヅキカガミ手ヲアハセ侍レバ」と試読する。
8)
「のたまはく」は底本「□タマハク」。一字破損。文脈により補う。
9)
「香ばしき香」は底本「ウウハシキ香」。誤写とみて訂正。
10)
「見ゆ」は底本「見□」。一字虫損。文脈により補う
11)
底本「法門」。『今昔物語集』6-6
13)
「傾きに傾きて」は、底本「方フキニ方フテ」。文脈により訂正・補入。
text/uchigiki/uchigiki09.txt · 最終更新: 2018/05/04 15:24 by Satoshi Nakagawa
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