ユーザ用ツール

サイト用ツール


text:turezure:k_tsurezure188.txt
no way to compare when less than two revisions

差分

このページの2つのバージョン間の差分を表示します。


text:turezure:k_tsurezure188.txt [2018/10/16 22:41] (現在) – 作成 Satoshi Nakagawa
行 1: 行 1:
 +徒然草
 +====== 第188段 ある者子を法師になして・・・ ======
 +
 +===== 校訂本文 =====
 +
 +ある者、子を法師になして、「学問して因果の理(ことわり)をも知り、説経などして、世渡るたつきともせよ」と言ひければ、教へのままに、説経師にならんために、まづ馬に乗り習ひけり。「輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは心憂かるべし」と思ひけり。
 +
 +次に、「仏事ののち、酒など勧むることあらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべし」とて、早歌(さうか)といふことを習ひけり。このわざ、やうやう境(さかひ)に入りければ、いよいよよくしたく思えて嗜(たしな)みけるほどに、説経習ふべきひまなくて、年寄りにけり。
 +
 +この法師のみにもあらず、世間の人、なべてこのことあり。若きほどは、諸事につけて、身を立て、大なる道をも成(じやう)じ、能をもつき、学問をもせんと、行末久しくあらますことども心にはかけながら、世をのどかに思ひて、うち怠りつつ、まづさしあたりたる目の前のことにのみまぎれて月日を送れば、ことごとなすことなくして、身は老いぬ。つひに物の上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれども取り返さるる齢(よはひ)ならねば、走りて坂を下る輪のごとくに衰へゆく。
 +
 +されば、一生のうち、「むねとあらまほしからんことの中に、いづれかまさる」と、よく思ひ比べて、第一のことを案じ定めて、そのほかは思ひ捨てて、一事を励むべし。一日の中(うち)、一時の中にも、あまたのことの来たらんなかに、少しも益のまさらんことを営みみて、そのほかをばうち捨てて、大事を急ぐべきなり。「何方(いづかた)をも捨てじ」と心にとり持ちては、一事もなるべからず。
 +
 +たとへば、碁を打つ人、一手もいたづらにせず、人に先立ちて、小を捨て大につくがごとし。それにとりて、三つの石を捨てて、十の石につくことはやすし。十を捨て、十一につくことはかたし。一つなりとも、まさらん方へこそつくべきを、十までなりぬれば、惜しく思えて、多くまさらぬ石にはかへにくし。「これをも捨てず、かれをも取らん」と思ふ心に、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。
 +
 +京に住む人、急ぎて東山に用ありて、すでに行き着きたりとも、西山に行てその益まさるべきことを思ひ得たらば、門(かど)より帰りて、西山へ行くべきなり。ここまで来着きぬれば、「このことをば、まづ言ひてん。日をささぬことなれば、西山のことは帰りてまたこそ思ひたため」と思ふゆゑに、一事の懈怠(けだい)、すなはち一生の懈怠となる。これを恐るべし。
 +
 +一事を必ずなさんと思はば、他のことの破るるをもいたむべからず。人の嘲りをも恥づべからず。万事にかへずしては、一の大事成るべからず。
 +
 +人のあまたありける中にて、ある者、「ますほのすすき、まそほのすすきなど言ふことあり。渡辺(わたのべ)の聖、このことを伝へ知りたり」と語りけるを。登蓮法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑笠やある。貸し給へ。かの薄(すすき)のこと習ひに、渡辺の聖のがり尋ねまからん」と言ひけるを、「あまりに物騒がし。雨やみてこそ」と、人の言ひければ、「無下(むげ)のことをも仰せらるるものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。われも死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつつ、習ひ侍りにけり(([[ :text:mumyosho:u_mumyosho016 |『無名抄』16「ますほのすすき」]]参照))と申し伝へたるこそ、ゆゆしくありがたう思ゆれ。
 +
 +「敏(と)きときは、則ち功あり」とぞ、論語といふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。
 +
 +===== 翻刻 =====
 +
 +  或者。子を法師になして。学問して/k2-38l
 +
 +http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he10/he10_00934/he10_00934_0002/he10_00934_0002_p0038.jpg
 +
 +  因果の理をもしり。説経などして世わ
 +  たるたつきともせよといひければ。教の
 +  ままに。説経師にならんために。先馬に
 +  乗ならひけり。輿車はもたぬ身の。導
 +  師に請ぜられん時。馬などむかへにをこ
 +  せたらんに。ももじりにて落なんは。心
 +  うかるべしと思ひけり。次に仏事ののち
 +  酒などすすむる事あらんに。法師の无
 +  下に能なきは。檀那すさまじく思ふ
 +  べしとて早歌と云ことを習ひけり。/k2-39r
 +
 +  このわざ。やうやうさかひに入ければ。いよ
 +  いよよくしたく覚えて。嗜みけるほど
 +  に。説経習ふべき隙なくて。年よりに
 +  けり。此法師のみにもあらず。世間の人
 +  なべて此事あり。若き程は諸事につけ
 +  て身をたて。大なる道をも成じ。能
 +  をもつき。学問をもせんと行末久しく。
 +  あらます事ども心にはかけながら。世を
 +  長閑に思ひて。打をこたりつつ。まづさし
 +  あたりたる。目の前の事にのみまぎ/k2-39l
 +
 +http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he10/he10_00934/he10_00934_0002/he10_00934_0002_p0039.jpg
 +
 +  れて。月日を送れば。ことごとなす事
 +  なくして。身は老ぬ。終に物の上手にも
 +  ならず。思ひしやうに身をももたず。悔
 +  れども取かへさるる齢ならねば。走り
 +  て坂をくだる輪のごとくに。衰へゆく。さ
 +  れば。一生のうちむねとあらまほしからん
 +  事の中に。いづれかまさるとよくおもひ
 +  くらべて。第一の事を案じ定て。其
 +  外は思ひすてて。一事をはげむべし。一日の中
 +  一時の中にも。あまたのことのきたらん/k2-40r
 +
 +  なかに。少しも益のまさらん事を
 +  いとなみて。其外をばうちすてて。大事
 +  をいそぐべき也。何方をもすてじと心
 +  にとりもちては。一事もなるべからずたとへ
 +  ば碁をうつ人。一手もいたづらにせず。人
 +  にさきだちて小を捨大につくが如し。
 +  それにとりて。三の石をすてて十の石に
 +  つくことはやすし。十を捨て。十一につ
 +  く事はかたし。ひとつなりともまさらん
 +  かたへこそつくべきを。十まで成ぬればお/k2-40l
 +
 +http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he10/he10_00934/he10_00934_0002/he10_00934_0002_p0040.jpg
 +
 +  しくおほえて。おほくまさらぬ石には
 +  かへにくし。是をも捨ずかれをも
 +  とらんとおもふ心に。かれをもえず是を
 +  もうしなふべき道也。京にすむ人い
 +  そぎて東山に用ありて。既にゆきつきたり
 +  とも。西山に行て。其益まさるべき事
 +  を思ひえたらば。門より帰りて西山へゆく
 +  べき也。ここまできつきぬれば。此ことをば
 +  先いひてん。日をささぬ事なれば。西山の
 +  事は。かへりて又こそ思ひたため。とおもふ/k2-41r
 +
 +  故に。一事の懈怠。すなはち一生の懈怠
 +  となる。是ををそるべし。一事を必な
 +  さんと思はば。他の事の破るるをもいたむ
 +  べからず。人の嘲をも恥べからず。万事
 +  にかへずしては。一の大事成べからず。人の
 +  あまた有ける中にて。あるものます
 +  ほのすすき。まそほのすすきなどいふ事
 +  あり。わたのべの聖此事を伝知たり。と
 +  語りけるを。登蓮法師。其座に侍り
 +  けるが聞て。雨のふりけるに。蓑かさや/k2-41l
 +
 +http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he10/he10_00934/he10_00934_0002/he10_00934_0002_p0041.jpg
 +
 +  あるかし給へ彼薄の事ならひに。わた
 +  のべの聖のがり尋まからん。といひけるを。
 +  あまりに物さはがし。雨やみてこそと。人
 +  のいひければ。無下の事をもおほせら
 +  るる物哉。人の命は。雨のはれまをもまつ
 +  ものかは。我も死に。ひじりもうせなば尋
 +  ききてんやとて。走り出て行つつ。習ひ
 +  侍りにけりと申伝たるこそ。ゆゆしく
 +  有がたう覚ゆれ。敏とときは則功あり
 +  とぞ。論語と云文にも侍るなる。此薄/k2-42r
 +
 +  をいぶかしく思ひけるやうに。一大事
 +  因縁をぞおもふべかりける/k2-42l
 +
 +http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he10/he10_00934/he10_00934_0002/he10_00934_0002_p0042.jpg
  
text/turezure/k_tsurezure188.txt.txt · 最終更新: 2018/10/16 22:41 by Satoshi Nakagawa