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text:towazu:towazu2-26 [2019/06/30 15:15] – [翻刻] Satoshi Nakagawatext:towazu:towazu2-26 [2019/07/06 16:47] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa
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 卯月の末つかたのことなるに、なべて青みわたる梢(こずゑ)の中に、遅き桜の、ことさらけぢめ見えて、白く残りたるに、月いと明かくさし出でたるものから、木陰は暗き中に、鹿のたたずみ歩(あり)きたるなど、絵に描きとめまほしきに、寺々の初夜の鐘、ただ今打ち続きたるに、ここは三昧堂続きたる廊(らう)なれば、これにも初夜の念仏近きほどに聞こゆ。廻向して果てぬれば、尼どもの麻の衣(ころも)の姿、いとあはれげなるを見出だして、大納言((四条隆顕))も、さしも思ふことなく誇りたる人の、ことさらうちしめりて、長絹(ちやうけん)の狩衣の袂(たもと)もしぼりぬ。「今は恩愛の家を出でて、真実(しんじち)の道に思ひ立つに、故大納言((作者父、久我雅忠))の心苦しく申し置きしこと、われさへまたと思ふこそ、思ひの絆(ほだし)なれ」など申せば、「われもげに、いとど何をか」と、名残惜しさも悲しきに、薄き単(ひとへ)の袂は、乾く所なくぞ侍りける。 卯月の末つかたのことなるに、なべて青みわたる梢(こずゑ)の中に、遅き桜の、ことさらけぢめ見えて、白く残りたるに、月いと明かくさし出でたるものから、木陰は暗き中に、鹿のたたずみ歩(あり)きたるなど、絵に描きとめまほしきに、寺々の初夜の鐘、ただ今打ち続きたるに、ここは三昧堂続きたる廊(らう)なれば、これにも初夜の念仏近きほどに聞こゆ。廻向して果てぬれば、尼どもの麻の衣(ころも)の姿、いとあはれげなるを見出だして、大納言((四条隆顕))も、さしも思ふことなく誇りたる人の、ことさらうちしめりて、長絹(ちやうけん)の狩衣の袂(たもと)もしぼりぬ。「今は恩愛の家を出でて、真実(しんじち)の道に思ひ立つに、故大納言((作者父、久我雅忠))の心苦しく申し置きしこと、われさへまたと思ふこそ、思ひの絆(ほだし)なれ」など申せば、「われもげに、いとど何をか」と、名残惜しさも悲しきに、薄き単(ひとへ)の袂は、乾く所なくぞ侍りける。
  
-「かかるほどを過ぐして、山深く思ひ立つべければ、同じ御姿にや」など申しつつ、かたみにあはれなること言ひ尽し侍りし中に、「さても、いつぞや、恐しかりし文((有明の月からの手紙。[[towazu2-17|2-17]]参照。))を見し。われ過ごさぬことながら、いかなるべきことにてかと、身の毛もよだちしが、いつしか、御身といひ、身といひ、かかることの出で来ぬるも、まめやかに報ひにやと思ゆる。さても、『いづくにもおはしまさず』とて、あちこち尋ね申されし折節、御参り((主語は有明の月))ありて、御帰りありし御道にて、『まことにや、かくと聞くは』と御尋ねありしに、『行方なく、今日までは承る』と申したりしに、いかか思しけん、中門のほどに立ちやすらひつつ、とばかりものも仰せられで、御涙のこぼれしを、檜扇にまぎらはしつつ、『三界無安(さんがいむあん)猶如火宅(ゆによくわたく)』と口ずさみて出で給ひし気色こそ、常ならん人の、恋し・悲し・あさまし・あはれと申し続けんあはれにも、なほまさりて見え侍りしかば、本尊に向ひ給ふらん念誦も推し量られて」など語るを聞けば、「悲しさ残る((有明の月の歌。[[towazu2-10|2-10]]参照。))」とありし月影も、今さら思ひ出でられて、「などあながちに、かうしも情けなく申しけむ」と悔しき心地さへして、わが袂さへ露けくなり侍りしにや。+「かかるほどを過ぐして、山深く思ひ立つべければ、同じ御姿にや」など申しつつ、かたみにあはれなること言ひ尽し侍りし中に、「さても、いつぞや、恐しかりし文((有明の月からの手紙。[[towazu2-17|2-17]]参照。))を見し。われ過ごさぬことながら、いかなるべきことにてかと、身の毛もよだちしが、いつしか、御身といひ、身といひ、かかることの出で来ぬるも、まめやかに報ひにやと思ゆる。さても、『いづくにもおはしまさず』とて、あちこち尋ね申されし折節、御参り((主語は有明の月))ありて、御帰りありし御道にて、『まことにや、かくと聞くは』と御尋ねありしに、『行方なく、今日までは承る』と申したりしに、いかか思しけん、中門のほどに立ちやすらひつつ、とばかりものも仰せられで、御涙のこぼれしを、檜扇にまぎらはしつつ、『三界無安、猶如火宅(さんがいむあん、ゆによくわたく)』と口ずさみて出で給ひし気色こそ、常ならん人の、恋し・悲し・あさまし・あはれと申し続けんあはれにも、なほまさりて見え侍りしかば、本尊に向ひ給ふらん念誦も推し量られて」など語るを聞けば、「悲しさ残る((有明の月の歌。[[towazu2-10|2-10]]参照。))」とありし月影も、今さら思ひ出でられて、「などあながちに、かうしも情けなく申しけむ」と悔しき心地さへして、わが袂さへ露けくなり侍りしにや。
  
 「夜明けぬれば、世の中も、かたがたつつまし」とて帰らるるも、「ことあり顔なる朝帰りめきて」など言ひて、いつしか、「今宵のあはれ、今朝の名残、まことの道には捨て給ふな」などあり。 「夜明けぬれば、世の中も、かたがたつつまし」とて帰らるるも、「ことあり顔なる朝帰りめきて」など言ひて、いつしか、「今宵のあはれ、今朝の名残、まことの道には捨て給ふな」などあり。
text/towazu/towazu2-26.1561875359.txt.gz · 最終更新: 2019/06/30 15:15 by Satoshi Nakagawa