text:takamura:s_takamura1-11
1-11 夜明けにければ曹司に帰りて・・・
校訂本文
夜明けにければ、曹司(ざうし)に帰りて、この女食ひつべきやうに、物を返りて持て行かんとするに、心まどひして、足もえ踏み立てず。もの覚えざりければ、睦まじう使ふ雑色(ざふしき)を使にて、「ただ今、心地悪しうてえ参り来ず。そのほどこれすき給へ。ためらひて参らん」。
女、穴のもとにて待つに、かく言ひたれば、
誰(た)がためと思ふ命のあらばこそ消(け)ねぬべき身をも惜しみとどめめ1)
とり入れず。返りて、「かくなん」と言ひければ、かしこうして、またまた行きて見れば、三・四日ものも食はで、ものを思ひければ、いと口惜しう息もせず。「いかがおはします」と言ひければ、
消え果てて身こそはるかになり果てめ夢の魂君にあひ添へ
返し、
魂は身をもかすめずほのかにて君まじりなば何にかはせん
とて、よろづのことを言ひて泣けども、いらへせすなりにければ、「死ぬ」とて泣き騒げば、声を聞きて、解き開けて見れば、絶え入る気色を見て、惑ひ出でて、ほかの家にいにけり。親出でて後(のち)に、出でゐて、入りて見れば、死にて臥せり。泣き呼べどかひなし。
翻刻
といひてなきあへりけりよあけに/s17l
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100002868/viewer/17
けれはさうしに帰りてこのをんな くひつへきやうに物を返てもて いかんとするに心まとひしてあしも ゑふみたてすものおほへさりけれは むつましうつかふさうしきを つかひにてたたいま心地あしうて ゑまいりこすそのほとこれすきた まへためらひてまいらん女あなの もとにてまつにかくいひたれは 誰ためとおもふ命のあらはこそ/s18r
けねぬへき身をもおしめととめめ
とり入す返てかくなんといひけれは かしかうしてまたまた行てみれは 三四日物もくはて物をおもひけれ はいとくちおしういきもせすいかか おはしますといひけれは 消はてて身こそはるかになりはてめ ゆめのたましゐ君にあひそへ 返し 玉しゐは身をもかすめすほのかにて/s18l
君ましりなはなににかはせん とてよろつの事をいひてなけとも いらへせすなりにけれはしぬとてなき さはけはこゑをききてときあけ てみれはたえいるけしきをみて まとひいててほかの家にゐにけり おやいててのちにいてゐていりて みれはしにてふせりなきよへと かひなしその日のよさり火をほのかに/s19r
1)
「惜しみとどめめ」は底本「おしめととめめ」。諸本により訂正。
text/takamura/s_takamura1-11.txt · 最終更新: 2022/08/29 02:00 by Satoshi Nakagawa