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沙石集
巻10第2話(120) 臨終目出たき僧の事
校訂本文
中古の諸宗の先徳のことは、和漢みな伝に載せたり。面々に智行・徳たけて、臨終みな禅定に入るがごとく、別の奇特なく、安然として化すと言へり。
その間に、奇異のことも侍り。およそは、仏道に身を入れ、解脱に心をかけて、いづれの宗をも学し行ぜん人は、一筋に臨終の行儀なるべきに、修学の道義すたれて、わづかに教門を学すれども、菩提を期する志は浅く、世間を営む思ひは深し。さるままには、顕密の学人の、仏法をもて世を渡る橋とし、聖教をもて身を養ふ媒(なかだち)とす。これゆゑに、平生の稽古、しかしながら名利のかはりごとなり。
慧心僧都1)、発心の後、名利の二字を拝まれけるは、名利の心にて学問するほどに、教門を見明らめて、道心を発(おこ)したるゆゑなり。維摩経に、「欲の釣(つりばり)をもつて引きて、仏道に入る」と言へり。かつて出離の心あらざる名利のためのは、学問の智慧もなく、道心無からんは悲しかるべし。
仏教の本意は、ただ菩提心を宗とす。三密の教法は、自証明らかにして、利他の徳用をほどこすべし。菩薩の行願、利益を宗とす。国を祈り、民を安くし、災をはらひ、福を招くこと、上 代より、密宗をすぐれたりとす。先徳の口伝に、「真言教のあらんほどは、余の仏法もあるべし」と言へり。この国は、金剛一乗有縁の国なり。地力自然と言ひて、相応の地あるべし。日本は独鈷形のゆゑに、一乗にかたどる。五方の鈴(れい)を立つ時、独鈷は西方なり。これ、一乗弥陀観音に司(つかさど)る。上宮太子2)、観音の垂迹として、始めて仏法を弘(ひろ)め、最初に老身の所持経、法華3)を取りてより給へるも、よしあるべし。
天竺の摩竭提国の主(あるじ)、出家して沙門となり、善無畏三蔵これなり。龍智菩薩の弟子として、密教を唐土に渡し給へり。唐の儀、わづかに三代盛りなりといへども、悪王、仏法を滅ぼしける時、みな失せぬ。その真言書、あまりに秘蔵して、内裏に納めて流布せざるゆゑに失せにき。余の聖教は、国に多く流布のゆゑに、失せ果てず。
真言教をば、伝教4)・弘法5)・慈覚6)・智証7)等の大師、わが国へ渡し給へり。これも有縁のゆゑなるべし。唐の青龍寺の慧果大師8)の、弘法大師に語り給へる言葉にも、「人の貴きは国王、法の貴きは密教。冒地の得がたきにはあらず。この法に会ふことのかたきなり」と。されば、善無畏も国王としてこの法を渡し給へるにや。かの言葉思ひ合はせられ侍り。
この国は、真言・天台・念仏、有縁の国なり。法相・三論・華厳等は、南都東大寺・興福寺のみ学して9)、諸国に流通せず。律儀・禅門は近ごろ興行せり。上古より、人ことにも習ひ行せず。これ宗のおろかなるにあらず。機縁・時いたらず、すでに時いたれるにや。
律儀も禅門も、当世流布せり。この時縁結び、戒行を守り、座禅を修すべし。法相・天台の学者は多けれども、末代は座禅修練して、唯識の観念、円頓の妙行する人もまれなるにや。ただ、論談決択をこととし、宗の権実を争ひ、教の浅深を論ず。一期の学は今生のためなれば、臨終には何事をかすべきとて、あるいは念仏、あるいは真言、時に臨みて、思ひわづらふ。まことに、渇に臨みて井を掘るがごとし。さしも一大事の生死を出づへきはかりごとを、平生に、よくよく思ひしたため、功を積むべきに、名利のためにのみ学して、最期に臨みて忙然たること、悲しむべし悲しむべし。
上野国山上といふ所に、行仙房とて、もとは浄道僧都の弟子、真言師なりけり。近ごろは念仏の行者にて、貴(たと)き上人と聞こえき。去んぬる弘安元年秋のころ、入滅前の年より、明年臨終すべき月日、病のことども記して、箱の中に置く。弟子、これを知らず、没後に開きてこれを知る。常の念仏者のごとく、数返なんどはなくして、観念を宗として、万事世間のこと執心なき上人なりけり。説法の作法も、人のしひて請ずれば、時にのぞみて、不可思議の小衣、脛高(はぎだか)に着て、木切る刀腰にさしなから説法しなんどす。布施は、ひけば制しもせず、取りもせず。ただ欲しき物、思ふさまに取り用ゐける。世良田の明寅長老と得意にて、常には仏法物語なんどして、禅門の風情も心にかけたる人と見えたり。
ある人、念仏申すに、「妄念の起こるを、いかが対治すべき」と問ひける返事には、
あともなき雲にあらそふ心こそなかなか月のさはりなりけれ
一返房10)の歌にもあり。
臨終の体(てい)、端座し禅定に入るがごとくにて、紫雲、庵の前の竹にかかる。紫の衣(きぬ)をうち覆へるがごとし。音楽、空に聞こえ、異香、室に薫ず。見聞の道俗、市をなす。葬送の後、灰紫の色にて、香りなつかし。灰の中に舎利を得。仏舎利のごとし。かの弟子、まのあたり語りき。かつは灰も舎利も見侍りき。世間の風聞、これ同じかりき。末代には、まことにめでたくこそ。
うちある念仏門の人は、心地の法門をうとく思ひあへり。これは、智慧の浅きゆゑにや。弥陀思惟経11)には、「平等の心をもて、一弾指の間坐禅して、一切衆生のために阿弥陀仏を念ぜよ」と言へり。およそ一切の行、禅と見れば、みな禅なり。一心の極まる所に、その分々の証あり。ゆゑにまた、一切念仏と見れば、みな念仏なり。一念不生の心地、阿字本不生の字義、これ大乗修行の大体、真言密教の通行なり。これらの観門は、みな弥陀の法身、すべては一切仏菩薩の法身を念ずる念仏なり。また衆生の心地なり。
まことには、凡聖不二の一実境界なり。名号を念じ、相好を観ずるは、妙用に付きて、まづ有相をもつて方便として、応身の益を蒙る。応身の念仏なり。一念不生は、法身の体に親しき念仏なり。能念所念なき、不二の念仏なり。まづ弥陀の法身を得て、用の往生する人もあり、まづ相用に付きて往生して後、無生を得て法身を悟るもあり。体用不二なれば、隔つべからず。諸仏の法身、自心の実体、霊覚不二なり。
始めよりこの理を信ぜば、用の往生も安くこそ。されば、念仏門の人も、心地の修行をうとくすべからず。禅門・真言の人も、念仏の行を軽(かろ)むべからず。法身の体、応身の用、互ひに軽めうとくすべからず。その機縁・意楽に従ひて、修行を懇ろにし、生死を離れ、解脱を得べきなり。
智覚禅師12)、座禅の外の行、法華を誦し、念仏を行じ、上品上生の往生せる人なりし。往生伝にこれあり。ある僧、智覚禅師の没後に、永明寺に来たりて、かの禅師の真影を礼す。そのゆゑを語りけるは、「病によりて死して、閻魔王宮へ行く。炎王、僧の影を図して、礼拝し給ふ。冥官に問ふに、答へていはく、『かれは唐の永明寺延寿禅師の影なり。人死して必ず中有を経(ふ)。炎王、これを知り生所を判ず。しかるに、中有を経ず、炎王に知られずして、直に上品上生の往生をとげ給へり。これによりて、王、深くこれを敬ふ』と言へり。よて、蘇生して来たりて影を礼す」と語りき。
寿福寺のある老僧、名も承し忘れ侍り。年ごろは阿字観をしけるが、観心成就したりけり。後には大覚禅師の下にして多年座禅しけるが、ある時、長老に対面して、暇(いとま)申して、「まかり候ふ」とて出でけり。「この僧、少し風気ありとて、延寿堂にありときくに、いかにいたはりの中にいづくへ行くやらん」と不審に思はれけり。さて帰りて、倚座に座して、定印結びて、眠るがごとくして終りぬ。「生死は、二十年よりこのかた、すでに不審はれて侍る」とぞ、隔てなき同法に語りける。めでたかりけることにこそ。
翻刻
沙石集巻十 下 臨終目出僧事 中古の諸宗の先徳の事は和漢みな伝に載たり面々に智行 徳たけて臨終みな禅定に入かことく別の奇特なく安然として 化すといへり其間に奇異の事も侍り凡は仏道に身を入れ解 脱に心をかけていつれの宗をも学し行せん人は一筋に臨終の 行儀なるへきに修学の道義すたれて纔に教門を学すれとも 菩提を期する志はあさく世間をいとなむ思ひはふかしさるまま には顕密の学人の仏法をもて世を渡る橋とし聖教をもて身 を養ふ媒とす是故に平生の稽古しかしなから名利の計事 也慧心僧都発心の後名利の二字をおかまれけるは名利の 心にて学問するほとに教門を見あきらめて道心を発したる故/k10-376l
也維摩経に欲の釣を以引て仏道に入といへりかつて出離の 心あらさる名利のためのは学問の智慧もなく道心なからんは かなしかるへし仏教の本意は只菩提心を宗とす三密の教法 は自証あきらかにして利他の徳用をほとこすへし菩薩の行願 利益を宗とす国を祈り民を安くし災をはらひ福をまねく事上 代より密宗をすくれたりとす先徳の口伝に真言教のあらんほ とは餘の仏法も有へしといへり此国は金剛一乗有縁の国 なり地力自然と云て相応の地有へし日本は独古形の故に 一乗にかたとる五方の鈴を立時独古は西方なり是一乗弥 陀観音につかさとる上宮太子観音の垂跡として始て仏法を 弘め最初に老身の所持経法花をとりより給へるも由有へし 天竺の摩竭提国の主出家して沙門となり善無畏三蔵是/k10-377r
也龍智菩薩の弟子として密教を唐土にわたし給へり唐の儀 わつかに三代さかりなりといへとも悪王仏法をほろほしける時 皆うせぬその真言書あまりに秘蔵して内裏におさめて流布せさ る故にうせにき餘の聖教は国におほく流布のゆへにうせはてす 真言教をは伝教弘法慈覚智証等の大師我国へわたし給 へり是も有縁のゆへなるへし唐の青龍寺の慧果大師の弘法 大師にかたり給へることはにも人の貴は国王法の貴は密教 冒地の得かたきにはあらす此法にあふ事のかたきなりとされは 善無畏も国王として此法をわたし給へるにや彼詞思あはせら れ侍りこの国は真言天台念仏有縁の国也法相三論華 厳等は南都東大寺興福寺の三学して諸国に流通せす律儀 禅門は近比興行せり上古より人ことにもならひ行せすこれ宗/k10-377l
のをろかなるにあらす機縁時いたらす既に時いたれるにや律儀 も禅門も当世流布せりこの時縁むすひ戒行を守り坐禅を 修すへし法相天台の学者は多けれとも末代は坐禅修練して 唯識の観念円頓の妙行する人もまれなるにや只論談決択 をこととし宗の権実を諍ひ教の浅深を論す一期の学は今生 のためなれは臨終には何事をかすへきとて或は念仏或は真言 時にのそみて思わつらふ誠に渇にのそみてゐをほるか如しさしも 一大事の生死をいつへき計を平生に能々思したため功をつ むへきに名利の為にのみ学して最期に臨て忙然たる事可悲々 々上野国山上といふ所に行仙房とて本は浄道僧都の弟 子真言師なりけり近比は念仏の行者にてたとき上人と聞 ゑき去弘安元年秋の比入滅前の年より明年臨終すへき/k10-378r
月日病の事共記して箱の中に置弟子是をしらす没後に開て 知之常の念仏者のことく数返なんとはなくして観念を宗として 万事世間之事執心なき上人なりけり説法の作法も人のし ゐて請すれは時にのそみて不可思議の小衣はきたかにきて木 切刀腰にさしなから説法しなんとす布施はひけは制しもせすと りもせすたたほしきもの思ふさまにとり用ひける世良田の明寅 長老と得意にて常には仏法物語なんとして禅門の風情も心 にかけたる人と見へたり或人念仏申に妄念のおこるをいかか 対治すへきと問ける返事には あともなき雲にあらそふ心こそ中々月のさはり成けれ一 返房の歌にも有臨終の体端坐し禅定に入かことくにて紫 雲庵の前の竹にかかるむらさきのきぬをうちおほへるかことし音/k10-378l
楽空にきこゑ異香室に薫す見聞の道俗市をなす葬送の後 灰紫の色にてかほりなつかし灰の中に舎利を得仏舎利の如 し彼弟子まのあたりかたりきかつははいも舎利も見侍き世間 の風聞是同かりき末代には誠に目出度こそうちある念仏 門の人は心地の法門をうとく思あへり此は智慧のあさき故 にや弥陀思惟経には平等の心をもて一弾指之間坐禅して一 切衆生のために阿弥陀仏を念せよといへり凡そ一切の行 禅と見れはみな禅也一心のきはまる所にその分々の証有故 に又一切念仏と見れはみな念仏也一念不生之心地阿 字本不生之字義是大乗修行の大体真言密教之通行 也是等の観門はみな弥陀の法身すへては一切仏菩薩の 法身を念する念仏也又衆生の心地なり実には凡聖不二/k10-379r
之一実境界也名号を念じ相好を観するは妙用に付て先つ 有相を以方便として応身の益を蒙る応身之念仏也一念不 生は法身の体にしたしき念仏なり能念所念なき不二の念 仏也先弥陀の法身を得て用の往生する人も有先相用に つきて往生して後無生を得て法身を悟も有り体用不二なれ は隔つへからす諸仏の法身自心の実体霊覚不二なりはし めより此理を信せは用の往生も安くこそされは念仏門の人 も心地の修行をうとくすへからす禅門真言の人も念仏の行 をかろむへからす法身の体応身の用たかひにかろめうとくすへか らす其機縁意楽にしたかひて修行を懇ろにし生死をはなれ解 脱を得へきなり智覚禅師坐禅の外の行法華を誦し念仏を 行し上品上生の往生せる人なりし往生伝に是あり或僧智/k10-379l
覚禅師の没後に永明寺に来てかの禅師の真影を礼すその ゆへをかたりけるは病によりて死して閻魔王宮へゆく炎王僧の 影を図して礼拝し給冥官に問に答云かれは唐の永明寺延 寿禅師の影なり人死して必中有を経炎王是をしり生所を 判すしかるに中有をへす炎王にしられすして直に上品上生の往 生をとけ給へり是によりて王ふかく是をうやまふといへりよて蘇 生して来てかけを礼すとかたりき寿福寺のある老僧名も承し忘 れ侍り年来は阿字観をしけるか観心成就したりけり後には 大覚禅師の下にして多年坐禅しけるか或時長老に対面してい とま申てまかり候とていてけり此僧少し風気有とて延寿堂に ありときくにいかにいたはりの中に何くへゆくやらんと不審に思 はれけりさて帰て倚座に坐して定印むすひて眠るか如くして終ぬ生/k10-380r
死は二十年よりこのかた既に不審はれて侍とそへたてなき同 法に語ける目出かりける事にこそ/k10-380l