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沙石集

巻9第9話(118) 霊の仏法物語を託する事

校訂本文

洛陽にある女房、霊病ありければ、種々に祈りけれども、有験の者をもあざむき笑ひければ、力及ばで、果てはうち捨ててけり。

「東山観勝寺の上人1)の符を懸けさすれば、物狂ひの者も験(しるし)あり」と聞こえければ、かの符を懸けさせんとするに、うち笑ひて、「かの符もわれ知る。彼は法成就の人なり。道心ある人なれは貴し。高く置け」とて置かす。また、ある上人の符とて、懸けさせんとすれば、「あら、かたはらいた」とて、笑ひけり。「これもわれ知れり。ただし、秘事なれば言はじ」と言ふ。またある名僧の符を見て、唾(つばき)をかけて、足にて踏みにじりて捨つ。「いかに。これも仏法にてこそあるらめ」と言へば、「名利の心あて、仏法を売る方の汚なきを踏むなり。仏法の方をば踏まず」と言ひけり。

かくのごとく言ふを聞きて、「これほど仏法の道理も知り給へるに、よしなく人を悩まし、霊となり給ふこといかに」と問へば、「まことに不審する所言はれたり。ただし、仏法は真実の道心ありてこそ、生死を離れ悟りを開くことなれ。いかに学し行ずれども、名利・執着の心ありて、まことの菩提心なければ、魔道を出でず。われは一代の聖教、一つも不審なく知れり。しかるに、道心なくして、今に出離せず。わづかに紙一重隔たりて覚ゆるなり。われは天台山の立ち始まりし時の者なり」と語る。

さて、当世の智者と聞こゆる人のことを問へば、みないふかひなく言へり。東福寺の上人2)、開山のことを問へば、「それは末代にありがたき智者なり。それもいまだ三昧は発せず」と言ふ。

かかる霊と聞きて、ある遁世者、「仏法問はん」とて来けるを、その家へいまだ行き着かで、道を来るを知りて、「かの僧が、われにもの問はんとて来たる。かたはらいたし」と言ひけるを伝へ聞きて、道より帰りにけり。また、かの夫、ゆかりある僧の真言師なるを、「祈祷のために、高野へ請じに人をやらん」とて、内にて状を書くを知りて、「何しにつかはす。人苦しめにかの僧来てもよしなし」と言ひければ、止(とど)めてけり。

ある時、北野に参籠したりけるに、持経者の経読むを聞きて、簾中より走り出でて、「この僧が頭をはりて、「あら、聞きたからずの声ざしの恐しさや。これ体(てい)に読むは、経読むと言ふか」と言ふ。見れば若き女房の尋常なるなり。「さて、いかに読み候ふぞ」と言へば、「いで、読みて聞かせん」とて、経の文をさらさらと読みて、一段づつその意(こころ)を、えもいはず釈しければ、まことに法門の道理明らかに申し立てて、貴(たと)く聞こえけり。聞く人みな随喜しけり。持経者も信心をいたし、奇特の思ひをなしけり。

このことは、十年ばかりがうちのことなり。丹後の国の人とやらん承りき。

この霊の申しけること、聖教の道理にかなへり。まことに多聞と智慧とは別のものなり。世の常は多聞の人を智者と思ひあへり。しかるに、七種の聖財とて、信と戒と慚と愧と多聞と智慧と捨離といへり。多聞といふは、広く内外の典籍を習ひ、あまねく権実の教門をわきまへたるがごとし。かかる人も、名聞・利養・我相・憍慢ありて、真実の戒も智慧も道心もなければ、みな魔道に落ち、邪路に入るなり。ゆゑに経にいはく、「雖有色族及多聞、若無戒智猶禽獣。雖処卑賤小聞見、有戒智恵名勝士。(色族多聞有りといへども、若し戒智無ければ猶ほ禽獣のごとし。卑賤小聞見に処すといへども戒智恵有れば勝士と名づく。)」と。文の意は、富貴にして容貌妙(たえ)に広学多聞なりとも、戒も智もなからん人は鳥獣のごとし。卑賤にして寡聞なりとも、戒智あらば勝れたる人なるべしと。まことにしかるへきことなり。

諸道の昇沈は戒の持毀(ぢき)により、見仏不見仏は乗の緩急にまかせたりと言ひて、悪趣を離れ善処に生ずることは、戒により悟りを開き、仏を見ることは智慧による。戒と智と、まことに宝なるべし。多聞の益少なし。ただ如実の智を得る方便なるべし。一向は非すべからず。されば、聖財の中には入りたるなり。

たた名利の思ひをやめ、憍慢の心なくば、利他の益も興隆の徳もありぬべし。首楞厳経にいはく、「心を摂するを戒とし、戒によて定(ぢやう)を生じ、定によて慧(ゑ)を生ず。六道の衆生、その心淫せざれば、生死相続せず。淫心の起こらざれば、生死出づべからず。たとひ、多智禅定現前すとも、もし淫を断ぜずは、必ず魔道に落つ。上品は魔王、中品は魔民、下品は魔女となりて、みな徒衆(としゅ)ありて、おのおの無上道をなれりと思はん。われ滅度の後、末法の中に、この魔民多くして、世間に熾盛(しじやう)ならん。広く貪淫(とんいん)を行じて、善知識として、諸の衆生をして、愛見の坑(あな)に落し、菩提の道を失せん」と説けり。心に淫を断たざる、なほ魔道に落つ。いはんや、身にも行じて慚愧なからんをや。余の盗殺妄(たうせつまう)も、心に起こすは、生死出づべからずと言へり。

この説を見るに、凡夫の心、誰(たれ)かこの心を断たん。真実に道念あつて、対治の行を修し、覚観の念なからん人、やうやく断ずべし。論蔵の中に、「四重禁の家を作るに、四つの柱なければ立たざるがごとし」とて、三乗の依住の処なるよし見えたり。四根本をもつては、三乗の依住と言へり。いづれの行者も、これを恐れ慎しむべし。私(わたくし)にこれを一文字にて釈していはく、恐しく殺、汚なく盗、おしく淫、むつかしき妄物なるをや。

ゆゑに、法性寺の禅定殿下の御時、御内の女房に霊つきて、さまざまのこと申しけるに、「中古の智者の聞こえありし諸宗の名人、多く魔道にあり。明慧房3)・解脱房4)ぞ、いづちへ行きたるやらん、見えぬ」と言ひける。真実の智者・道心者と聞こえしかば、さも侍らん。

大唐の国清寺は、天台大師5)の旧跡なり。唐の代に、豊干禅師の行者拾得(じつとく)、常に寒山子とともなひ、狂せるに似たる人なり。まことには普賢・文殊の化身なりける。寺の僧、布薩(ふさつ)説戒しけるを見て、「幽々たるかな。頭を集めて何事をかなす」と言ひて、牛を駆りて、堂の外にて笑ひけるを、老僧怒りて、「風狂子、わが説戒を破す」と言ひける返事に、「無瞋即是戒。心浄即出家。我性与汝合。一切法如是。(嗔ることなき即ちこれ戒。心浄き即ちこれ出家。我性汝と合す。一切の法かくのごとし。)」と言ひて、牛を駆りて、昔の僧の名を呼ぶに、牛、いらへ吠えて過ぎけり。「前生に戒を持(たも)たざれば、人面にして畜の心なり。仏恩大なりといへども、かくのごとき物をは、いかにとすることなし」と言ひて、泣く泣く牛を飼ひけり。

およそ、一念の心中に十果の性あり。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・声聞・縁覚・菩薩・仏界なり。性といふは、色・形見えねども、その体性天然として改まらずして、内にあるをいふなり。花の中に菓たるべき性あり、木の中に燃ゆべき火の性あるがごとし。縁に会ひ時にいたて現はるるを相といふなり。縁なければ現はれず。その縁といふは、善悪の業なり。十悪の上中下は、地獄・鬼畜の縁となり、三悪道の相現はる。十善の下中上は、修羅・人天の縁となり、三善道の相現はれ、四諦十二因縁は、二乗の縁となり、六度無相の行は、菩薩仏界の縁となる。

しかれば、前世の十善の業因、今生の人身の果を得たり。今生の心中に思ひ染み、作り置く善悪の業因、秤(はかり)の物を計るがごとくして、まづ重き業、その果を感ずべし。かの寺の僧、過去に人身を得て僧となれりといへども、戒智なく、信施消せずして、畜生の業、心にありけるゆゑに、人身破れて畜生と現はる、これをもつて思ふに、今の世の人は彼に及びがたし。虚受信施の報、多くは6)地獄に落つべきをや。当来の果は今生の心にて知るべし。

昔、僧護比丘、海辺に寺ありと見て、中食せんとす7)。見れば、銅の湯を引く。僧、これを飲みて、身も寺も焼けぬ。かくのごとくして、五十余の寺を見る。帰りて、仏8)に申すに、「かれは迦葉仏の滅後の破戒の比丘の地獄なり」とのたまふ。また、国清寺の僧、定を修するあり。定中に塩現じて定を障(さ)ふ。これは、常住の塩を少分借りて、忘れて返さざりけるゆゑに、障となりにけり。また、ある寺の長老、常住の物を借りて、客人に与へて、返さずして、寺の奴(やつこ)となることありき。

南山律師9)いはく、「一鉢の食をはかるに、一鉢の血より出でたり。汗はこれ肉の中にては血なり。皮に隔てられて澄めるゆゑに汗となる。しかれば、汗はすなはち血なり」。はじめ田かへすより、苦しみ営む。口に入るまでのわづらひ、いくばくぞや。

定家の卿10)の詠にも、この意(こころ)を詠み給へり。

  春の苗代秋の刈穂(かりほ)のぞめきまで苦しく見ゆるしづのをだまき

書にいはく、「一食するごとに稼穡艱辛を思へ。一衣するごとに紡績の劬労を念へ云々」。まことに道を行じ罪を恐るる人は、このことを慎しむべし。永嘉大師11)は、「耕鋤にあらざるを食とし、蚕口にあらざるを衣とす」と言ひて、牛馬人の力を入れたるものを用ゐず、絹の類を着給はざりけり。僧は信施のゆゑに、ことに重し。人の苦しみより出でたることは同じければ、在家の人もこのことをわきまへて、仁義礼智信の五常を守(まぼ)り国を安くし、民をあはれみ、人のわづらひ物の費えを知り、欲少なく、情あるべきに、仁慧ある人は末代に少なくこそ聞こゆれ。

仁慧なき王をば、書の中には「碩鼠碩鼠わが悦を食ふ」と言ひて、大きなる鼠の、五穀をいたづらに食するに喩ふ。国王は天下の父母として、万人を哀れみやすくせんためなり。百官、またその一のことをつかさどりて、王の政(まつりごと)を助け奉れば、王の心を学ぶべし。しかるに、仁義なくして、いたづらに国を費すこと鼠のごとしと言へり。

また、大海の底に穴あり。これを尾閭といふ。諸河の水、日夜に入れども、かの穴に入りて失するゆゑに、海水増せず。四海の民、農桑12)して王に奉るを用ゐ尽くすに喩ふ。官禄を受けながら、君に忠なく、民に慧なくして、いたづらに国を費し民を悩ますは、第二の戒の戒むる所に当る。

しかれば、みな未来につぐのふべきなり。僧衆の経法にそむくのみにあらず、俗人の律令に違することこれ多し。道俗ともに欲心浅く智恵深くば、おのづから法令にかなひぬべし。末代は年に従ひて、情なく欲深く徳薄く智浅し。何としてか先賢の教へに従ひ、古聖の戒めにかなはん。ただ三毒五欲をほしいままにす。いかでか三途八難を離れん。悲しきかな。

それ智慧といふは、心むなしくして執着なきところなり。万法の因縁和合して、夢のごとく幻のごとく、有と言はんとすれば色もなく質もなく、無と言はんとすれば慮あり想あり。因縁和 合すれば、十界の依正(えしやう)仮(かり)なりといへども因果定まりあり。凡聖、品異なり。このゆゑに、内には万法の性空を達して着想なく、外には因縁の仮相たがはざることをわきまへて、信心あらば仏の御意にかなふべし。

一切の相、みな幻化(げんげ)なり。地獄より仏界まで、幻(まぼろし)にあらずといふことなし。ただし、六趣の幻は、妄情より化して、煩悩業苦、まことに悲しき幻なり。四聖の幻化は真性より起こる。妙用の幻化にて、利生方便まことに妙(たへ)なり。

同じく幻化なりといへども、差別なきにあらず。「善能分別説法相。於第一本心不動」と言ふ、この意なるべし。肇論いはく、「幻化の人、無にあらず。幻化はこれ実にあらず」と言へり。幻化を実と思ふは、偏計の妄情なり。幻化も無しと思ふは、断無の邪見なり。このゆゑに、「実際の理地には、一塵も受けず。仏事門の中に一法を捨てず」と言へり。まことなるかな。

そのかみ、東大寺法師にて、信救得業13)とて、才覚の仁ありけり。朗詠注14)などしたる者なり。山法師15)のことを、一巻の真言に作りて、陀 羅尼を説きていはく、「唵山法師、腹黒腹黒、欲深欲深、あらにくや娑婆訶」と作れり。「信救ぞしつらん」とて、山法師、憤り深かりければ、本寺を離れて、田舎に住みけりと言へり。

これを思ふに、唵(をん)の下を取り替へて、奈良法師・京法師・田舎法師も、俗士も、女人も、老少貴賤、取り替へ取り替へ書き入れぬべき世の中なり。

義浄三蔵のいはく、「聖教八万要唯有二。内凝真知見境倶棄、外順俗途奉禁亡辞。(聖教八万要は唯二つ有り。内には真知を凝らして見境倶に棄て、外には俗途に順して禁を奉じて辞を亡す)」。言ふ意は、内には、能見の智を立てず、所見の境を存せずして、昏散ともにのぞこり、寂照ならびて現ずべし。外には、深く因果の理(ことわり)を信じ、縁起の相を破らずして、禁戒を守(まぼ)り、旧業(くごふ)を消せと言へり。まことに仏法の肝心なるべし。

天台の師16)のいはく、「真の無生の人は、福をそらなさず。いはんや罪をや」と。智論17)いはく、「『菩薩、実相に住する時、一法も得ずは、戒を破るべしや』。答へていはく、『実相に住するがゆゑに、なほ福を作らず。いはんや罪をや』。またいはく、『空に二つあり。一つには悪空。諸法は空なりと言ひて、心をほしいままにして悪を作る。二つには善空。諸法の空を知りて、悪を恐れ、善を行ず。善は空に順じ、悪は空に違(たが)ひぬるゆゑなり』」と言へり。

悪見の人の意、法性の道理にそむけり。空といふは無着の心、万法の不可得の理を達する姿なり。不可得ならば執着あるべからず。水月鏡像を貪18)せざるがごとし。すでに悪を作る、着19)なきにあらず。もしなせども着なしと言はば、着なくばなして何かせん。また、空なるゆゑになすと言はば、善も空なり。これをなすべし。しかるに、悪見の人は、善をば厭ひてなさず、悪をば好みて作る。すでに愛恚(あいい)あり。何ぞ平等の道にかなはん。

また善は有相なりと言はば、悪はいよいよ有相なり。ただ妄情にのみかなひて、仏教の旨にそむけり。大乗の学者の中に、ままに妄見を起こす人あり。天台の止観20)の中にくはしく釈せり。「大乗の法に邪見を起こすは薬を毒になすがごとし」と言ふ。されば、醍醐の上味、世の珍たれども、悪見の人は毒薬とすと言へり。

古人いはく、「水月の道場に座し、空花の万行を修し、鏡像の天魔を降し、夢中の仏果を成す。」。これ真の教へなり。乞ひ願ふべき心行なり。悪見の人の心にかなはじかし。

起信論21)には、四つのことを信ずべしと言へり。真如と三宝となり。真如は三宝の妙体、三宝は真如の妙用なり。このほかに何事をか信ぜんや。天台22)いはく、「但信法性不信其餘(但し法性を信じて其の余を信ぜず)云々。」。この信、まことの道の源、功徳の母なり。

先達の申されしは、仏法に入るといふは、内には真如を信じ、外には因果を信ず、これ仏法の大意なり。この道理にそむきて、無礙の見を起こし、放逸のことを行ぜば、道人の儀にあらず。釈子の風をそむけり。仏法を学すといへども、魔業をまぬかるべからず。華厳経には、「菩提心なき業は、みな魔業となる」と言へり。霊の申しけること、経の意にかなへり。

これ、道人の亀鏡にそなへんために、経論の文を引きて、かの語を証明し侍り。行人の用意、学者の故実なるべし。よくよくわが心行を察して、魔業をなさずして、仏行を修すべし。喩ひ戒行おろそかなりとも、正見なるは福田の義あり。十輪23)・心地24)等の経に、「僧、宝とす」と見えたり。戒行全くとも、正見ならざるは、人の怨(あた)なり。福田の義なし。このよし、経論の中にくはしく判ぜり。

先徳のいはく、「発心僻越(びやくをつ)しぬれば、万行いたづらに施す」と。よくよくわきまふべし。無益の苦行は外道の法なるべし。

翻刻

  霊之詫仏法物語事
洛陽に有女房霊病有けれは種々に祈りけれとも有験のも
のをもあさむきわらひけれは力をよはてはてはうちすててけり東山
観勝寺の上人の符をかけさすれは物狂の者も験しありと聞へ
けれは彼符をかけさせんとするにうち笑ひてかの符も我知る彼
は法成就の人也道心有人なれは貴したかくをけとてをかす
又或上人の符とてかけさせんとすれはあらかたはらいたとて笑
ひけり此も我知れり但秘事なれはいはしと云又ある名僧の
符を見てつはきをかけて足にてふみにしりて捨いかにこれも仏
法にてこそあるらめといへは名利の心あて仏法を売る方のきた
なきをふむなり仏法の方をはふますと云けりかくの如く云をき/k9-355r
きてこれほと仏法の道理も知給へるによしなく人を悩まし霊
と成給事何にと問へは誠に不審する所云れたり但し仏法は
真実の道心ありてこそ生死をはなれ悟を開く事なれ何に学し
行すれとも名利執著の心ありてまことの菩提心なけれは魔
道を出す我は一代の聖教一も不審なく知れり然るに道心
なくして今に出離せすわつかに紙一重へたたりて覚る也我は天
台山の立始りし時の者也とかたるさて当世の智者と聞る人
の事を問へはみな云かひなくいへり東福寺の上人開山の事
を問へはそれは末代に有かたき智者なりそれも未た三昧は発
せすといふかかる霊と聞て或遁世者仏法問んとて来けるをそ
の家へ未たゆきつかて道を来を知てかの僧か我に物とはんとて
来るかたはらいたしといひけるを伝聞て道より帰りにけり又かの/k9-355l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=354&r=0&xywh=-2030%2C617%2C5375%2C3195

夫ゆかりある僧の真言師なるを祈祷のために高野へ請しに
人をやらんとて内にて状をかくを知てなにしにつかはす人くるし
めにかの僧来ても由なしといひけれはととめてけりある時北野に
参籠したりけるに持経者の経よむを聞て簾中より走り出て
この僧か頭をはりてあらききたからすの声さしのおそろしさやこれ
ていによむは経よむといふかといふ見れはわかき女房の尋常な
るなりさて何によみ候そといへはいてよみてきかせんとて経の文
をさらさらとよみて一段つつその意をゑもいはす釈しけれは実に
法門の道理明に申立てたとく聞へけり聞人みな随喜しけり
持経者も信心を致し奇特の思をなしけり此事は十年計か
中の事也丹後の国の人とやらん承りき此霊の申ける事聖
教の道理にかなへり実に多聞と智慧とは別の者也よのつねは/k9-356r
多聞の人を智者と思あへり然に七種の聖財とて信と戒と
慚と愧と多聞と智慧と捨離といへり多聞と云はひろく内外
の典籍をならひあまねく権実の教門をわきまへたるかことしかか
る人も名聞利養我相憍慢ありて真実の戒も智慧も道心
もなけれはみな魔道におち邪路に入也故に経云雖有色族
及多聞若無戒智猶禽獣雖処卑賤小聞見有戒智恵名
勝士と文の意は冨貴にして容貌たえに広学多聞なりとも戒も
智もなからん人は鳥獣の如し卑賤にして寡聞なりとも戒智あら
は勝たる人なるへしとまことにしかるへき事也諸道の昇沈は
戒の持毀により見仏不見仏は乗の緩急にまかせたりといひ
て悪趣をはなれ善処に生する事は戒により悟を開き仏を見る
ことは智慧による戒と智とまことに宝なるへし多聞の益すくな/k9-356l

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し只如実の智をうる方便なるへし一向は非すへからすされ
は聖財の中には入たる也たた名利の思をやめ憍慢の心なくは
利他の益も興隆の徳もありぬへし首楞厳経云心を摂するを
戒とし戒によて定を生し定によて慧を生す六道の衆生其心
媱せされは生死相続せす媱心のをこらされは生死出へからす
たとひ多智禅定現前す共若滛を断せすはかならす魔道にお
つ上品は魔王中品は魔民下品は魔女と成てみな徒衆あ
りてをのをの無上道をなれりと思はん我滅度の後末法の中に
此魔民おほくして世間に熾盛ならんひろく貪滛を行して善知識
として諸の衆生をして愛見の坑におとし菩提の道を失せんと
説けり心に滛をたたさる猶魔道に落況や身にも行して慚愧な
からんをや餘の盗殺妄も心にをこすは生死出へからすといへり/k9-357r
此説を見るに凡夫の心たれかこの心をたたん真実に道念あ
つて対治の行を修し覚観の念なからん人やうやく断すへし論
蔵の中に四重禁の家を作に四の柱なけれは立さるかことしと
て三乗の依住の処なるよし見へたり以四根本は三乗の依
住と云りいつれの行者も是を恐れつつしむへしわたくしにこれ
を一文字にて釈して云おそろしく殺きたなく盗おしく滛むつかし
き妄物なるをや故に法性寺の禅定殿下の御時御内の女房
に霊つきてさまさまの事申けるに中古の智者のきこゑありし諸
宗の名人多く魔道にあり明慧房解脱房そいつちへゆきたる
哉覧見へぬといひける真実の智者道心者ときこゑしかはさも
侍らん大唐の国清寺は天台大師の旧跡なり唐の代に豊干
禅師の行者拾得つねに寒山子とともなひ狂せるに似たる人/k9-357l

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也まことには普賢文殊の化身也ける寺の僧布薩説戒しけ
るを見て幽々たるかな頭をあつめて何事をかなすといひて牛を
駈て堂の外にてわらひけるを老僧いかりて風狂子我か説戒
を破すといひける返事に無瞋即是戒心浄即出家我性与
汝合一切法如是といひて牛をかりて昔の僧の名をよふに牛
いらへほゑてすきけり前生に戒をたもたされは人面にして畜の心
也仏恩大なりといへとも如是物をはいかにとする事なしと云
てなくなく牛をかひけり凡そ一念の心中に十果の性あり地獄
餓鬼畜生修羅人天声聞縁覚菩薩仏界也性と云は色
形見へねともその体性天然としてあらたまらすして内に有を云な
り花の中に菓たるへき性あり木の中に燃へき火の性あるか如
し縁にあひ時にいたてあらはるるを相といふなり縁なけれはあらはれ/k9-358r
すその縁と云は善悪の業なり十悪の上中下は地獄鬼畜
の縁となり三悪道の相あらはる十善の下中上は修羅人天
の縁となり三善道の相あらはれ四諦十二因縁は二乗の縁
となり六度無相の行は菩薩仏界の縁となる然れは前世の
十善の業因今生の人身の果をゑたり今生の心中に思そみ
つくりをく善悪の業因秤のものをはかるかことくしてまつ重き業
其果を感すへしかの寺の僧過去に人身をえて僧となれりとい
へとも戒智なく信施消せすして畜生の業心にありける故に人
身やふれて畜生とあらはる是を以思に今の世の人はかれにを
よひかたし虚受信施の報才多くは地獄に落へきをや当来の
果は今生の心にてしるへし昔僧護比丘海辺に寺ありと見て
中食さんとす見れば銅の湯をひく僧是を飲て身も寺も焼ぬ/k9-358l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=357&r=0&xywh=-1959%2C591%2C5375%2C3195

如是して五十餘の寺をみる帰て仏に申にかれは迦葉仏の滅
後の破戒の比丘の地獄也との給ふ又国清寺の僧定を修
するあり定中に塩現して定をさふこれは常住の塩を少分かりて
わすれて返ささりける故に障となりにけり又或てらの長老常
住の物を借て客人にあたへて返さすして寺の奴となる事有き
南山律師云く一鉢の食をはかるに一鉢の血より出たり汗は
是肉の中にては血也皮にへたてられてすめる故に汗となるしか
れはあせは即血也はしめ田かへすよりくるしみいとなむ口に入ま
てのわつらひいくはくそや定家の卿の詠にも此意をよみ給へり
  春の苗代秋のかりほのそめきまてくるしく見ゆるしつのを
たまき書に曰毎一食思稼穡艱辛を毎一衣念紡績の劬
労云々誠に道を行し罪をおそるる人はこの事をつつしむへし永/k9-359r
喜大師は耕鋤にあらさるを食とし蚕口にあらさるを衣とすと
いひて牛馬人の力を入たるものをもちゐす絹の類をき給はさり
けり僧は信施のゆへにことにをもし人の苦しみより出たる事は
おなしけれは在家の人も此事をわきまへて仁義礼智信の五
常をまほり国をやすくし民をあはれみ人のわつらひ物のついへを
しり欲すくなく情有へきに仁慧ある人は末代にすくなくこそき
こゆれ仁慧なき王をは書の中には碩鼠碩鼠我悦を食といひ
て大なる鼠の五穀を徒に食するにたとふ国王は天下の父母
として万人を哀れみやすくせんためなり百官又その一の事を主
とりて王の政をたすけ奉れは王の心をまなふへし然に仁義なく
して徒に国をついやす事ねすみのことしといへり又大海の底に穴
ありこれを尾閭と云諸河の水日夜に入れ共かの穴に入てう/k9-359l

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する故に海水増せす四海の民農乗して王にたてまつるをもちゐ
つくすにたとふ官禄をうけなから君に忠なく民に慧なくして徒に
国をついやし民をなやますは第二の戒のいましむる所にあたる
然はみな未来につくのふへきなり僧衆の経法にそむくのみにあ
らす俗人の律令に違する事是おほし道俗共に欲心あさく智
恵ふかくはをのつから法令にかなひぬへし末代は年にしたかひて
情なく欲ふかく徳うすく智あさしなにとしてか先賢のをしへにした
かひ古聖のいましめにかなはんたた三毒五欲を恣にす争か三
途八難をはなれんかなしき哉夫智慧と云は心空くして執著な
き処也万法の因縁和合して夢の如く幻の如く有と云んとす
れは色もなく質もなく無と云んとすれは慮あり想あり因縁和
合すれは十界の依正かりなりといへとも因果さたまりあり凡聖/k9-360r
品ことなりこのゆへに内には万法の性空を達して著想なく外に
は因縁の仮相たかはさることをわきまへて信心あらは仏の御
意にかなふへし一切の相みな幻化なり地獄より仏界まてまほ
ろしに非すと云事なし但し六趣の幻は妄情より化して煩悩業
苦誠にかなしき幻也四聖の幻化は真性よりおこる妙用の幻
化にて利生方便真にたへなり同く幻化也といへとも差別な
きにあらす善能分別説法相於第一本心不動と云此意
成へし肇論曰幻化の人無にあらす幻化は是実にあらすとい
へり幻化を実と思は偏計の妄情也幻化もなしと思は断無
の邪見也此故に実際の理地には不受一塵も仏事門中に
不捨一法をといへり真なる哉
そのかみ東大寺法師にて信救得業とて才覚の仁ありけり朗/k9-360l

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詠注なとしたる物也山法師の事を一巻の真言につくりて陀
羅尼を説て曰唵山法師腹黒々々欲深々々あらにくや娑
婆訶とつくれり信救そしつらんとて山法師いきとをりふかかり
けれは本寺を離れて田舎に住けりといへり是を思に唵の下を
とりかへて奈良法師京法師田舎法師も俗士も女人も老
少貴賤とりかへとりかへかき入ぬへき世中也
義浄三蔵の云聖教八万要唯有二内凝真知見境倶棄
外順俗途奉禁亡辞いふ意は内には能見の智をたてす所見
の境を存せすして昏散共にのそこり寂照ならひて現すへし外には
ふかく因果の理を信し縁起の相をやふらすして禁戒をまほり旧
業をけせといへり実に仏法の肝心なるへし天台の師の言く
真の無生の人は福をそらなさす況や罪をやと智論云菩薩/k9-361r
実相に住する時一法も得すは戒をやふるへしや答いはく実
相に住するか故に猶福をつくらす況や罪をや又云空に二有
一には悪空諸法は空也と云て心を恣にしてあくをつくる二に
は善空諸法の空をしりて悪を恐れ善を行す善は空に順し
悪は空に違ぬるゆへ也といへり悪見の人の意法性の道理に
そむけり空といふは無著の心万法の不可得の理を達する姿
なり不可得ならは執著あるへからす水月鏡像を貧せさるかこ
とし既に悪をつくる菩なきにあらす若なせとも著なしといはは著
なくはなしてなにかせん又空なる故に作といはは善も空也これを
なすへし然に悪見の人は善をはいとひてなさす悪をはこのみてつ
くる既に愛恚あり何そ平等の道に叶はん又善は有相也と
いはは悪は弥よ有相也只妄情にのみかなひて仏教の旨にそむ/k9-361l

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けり大乗の学者の中にままに妄見をおこす人あり天台の止
観の中に委く釈せり大乗の法に邪見を起すは薬を毒になす
か如しと云されは醍醐の上味世の珍たれとも悪見の人は毒
薬とすと云り古人云坐水月の道場修空花の万行降鏡
像天魔成夢中の仏果を是真のをしへなりこひねかふへき心
行也悪見の人の心にかなはしかし起信論には四の事を信
すへしといへり真如と三宝となり真如は三宝の妙体三宝は
真如の妙用也此ほかになに事をか信せんや天台云但信法
性不信其餘云々此信まことの道源功徳母なり先達の申され
しは仏法に入といふは内には真如を信じ外には因果を信すこ
れ仏法の大意也此道理にそむきて無礙の見をおこし放逸の
事を行せは道人の儀にあらす釈子の風をそむけり仏法を学/k9-362r
すといへとも魔業をまぬかるへからす華厳経には菩提心なき
業は皆魔業となるといへり霊の申ける事経の意に叶へり是
道人の亀鏡にそなへんために経論の文を引て彼語を証明し
侍り行人の用意学者の故実なるへし能々我心行を察して
魔業をなさすして仏行を修すへし喩ひ戒行おろそかなりとも正
見なるは福田の義あり十輪心地等の経に僧宝とすと見へ
たり戒行全くとも正見ならさるは人の怨なり福田の義なし此
由経論の中に委く判せり先徳のいはく発心僻越しぬれは万
行徒に施すとよくよく弁ふへし無益の苦行は外道の法成へし

沙石集巻第九下終    神護寺  迎接院/k9-362l

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1)
大円
2)
弁円
3)
明恵
4)
貞慶
5) , 16) , 22)
智顗
6)
「多くは」は底本「才多クハ」。「才」を「オ」の衍字とみて削除。
7)
「せんとす」は底本「サントス」。文脈により訂正。
8)
釈迦
9)
道宣
10)
藤原定家
11)
永嘉玄覚。底本は「永喜大師」。
12)
「農桑」は底本「農乗」。諸本により訂正。
13)
覚明
14)
和漢朗詠集私注
15)
比叡山延暦寺の法師
17)
大智度論
18)
「貪」は底本「貧」。文脈により訂正。
19)
「着」は底本「菩」。文脈により訂正。
20)
摩訶止観
21)
大乗起信論
23)
大方広十輪経
24)
大乗本生心地観経
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