文書の過去の版を表示しています。
沙石集
巻9第3話(112) 俗士の遁世門の事
校訂本文
丹後の国に、なにがしとかやいふ俗ありけり。名も承りしが忘れ侍り。小名ながら、家中貧しからずして、年たけて失せにける。遺言に、所分の状は、中陰過ぎて開くべきよし、言ひ置きてけり。
子息、その義にて開き見るに、男女の子あまたありけるに、嫡子には宗(むね)と譲りて、次男より次第に少しづつ減じて1)いはく、「富貴にしても苦あり。苦は心の危憂にあり。貧賤にしても楽あり。楽は身の自由にあり」と言へり。まことにその理(ことわり)疑ひなし。されば万事を忘れ、よろづのわづらひなき身とならんばかりの楽しみあらじ。
賢なりし許由(きよいう)、帝王より九州の長になさるべき宣旨を蒙りて、穎川に行きて、耳を洗ひけり。巣父(そうほ)、牛を引きて、穎川へ行きて、水飼はんとす。許由が帰るに行きあひぬ。許由がいはく、「九州の長になさるべき宣旨を聞きて、耳汚れて覚えつれば、穎川に行きて、すすぎて帰るなり」と言ふ。「さては、その水は汚れぬるにこそ。牛に飼はじ」とて、牛を引きて帰りぬ。「許由耳を洗ひ、巣父牛を引く」と申し伝へたるはこのことなり。末代は、かかる耳をば、かたじけなく思ひて、綿にても包み、錦にてもまとひ、よその人も拝み尊(たと)びぞせまし。
しかるに、当世の人の中に、遁世門に入こと、ありがたくこそ思ゆれ。まことの道に入りて、世間のあだなる理(ことわり)を知らば、何事は心をとどめ、何なる縁にか障(さ)へらるべき。昔の大王は位を捨てて、一乗の御法を習ひ、菜を摘み、水を汲み、薪を採り、千歳の給仕をだにもし給ひけるぞかし。わづかなる世間に心を留めて、道に入る人のなき習ひこそ愚かなれ。
わが朝には、花山院2)こそ、まことに御遁世ありけれ。小野の宮殿3)の御女(むすめ)、弘徽殿の女御4)におくれさせ給ひて、御歎き浅からず、世の中御心細く思し召し、乱れたりけるころ、粟田関白5)、いまだ殿上入にておはしける時、もち給へる扇に、「妻子珍宝及王位。臨命終時不随者。唯戒及施不放逸。今世後世為伴侶」と書き給ひけるを御覧じて、御心を発し、「世の楽しみは夢幻のほどなり。国の位もよしなし」と思し召し取りて、たちまちに十善万乗の位を捨て、永く一乗菩提の道にぞ入6)らせ給ひける。
すでに内裏を出でさせ給ひける夜は、寛和二年六月二十三日、有明の月くまなかりけるに、さすがに御名残も残りけるにや。むら雲の月にかかりければ、「わが願すでに満てり」とてぞ、貞観殿の高妻戸より下りさせ給ひける。それよりかの妻戸をは打ち付けられけるとぞ。ありがたき御発心にこそ。はるかに承るも、あはれに侍り。
覚鑁(かくばん)上人の言葉にも、「三界に安きことなし。なほ火宅の如し。王宮もなほ火宅の中なり。常に7)生老病死憂患有り。玉体もまた無常の形也」とこそ申されけれ。まことに、心賢からん人、虚妄転変の世間を捨てて、実相常住の仏道に入るべきをや。
故少納言入道信西8)の十三年の仏事、その子孫、名僧上綱達、寄り合ひて、一門八講と名づけて、ゆゆしき仏事、醍醐にて行はるることありけり。開白(かいびやく)は聖覚法印、結願は明遍僧都と定めて、覚憲僧正・澄憲法印・証憲僧正・静憲法印等、使者を高野へつかはして、このよし申さるるに、「遁世の身にて侍れば、え参らじ」と、明遍僧都返事せられたりけるを、兄の僧正たち、大きに心得ぬことに思ひて、「されば、遁世の身には親の孝養せぬことか。さばかりの智者学生といふ御房の返事、かへすがへす思はずなり」とて、おし返し使者をもつてこのよしを申さる。
また返事に、「この仰せ、かしこまりて承り候ひぬ。遁世の身なれば親の孝養せじと申すには侍らず。おのおの御中へ参ずることをはばかり申すなり。そのゆゑは、遁世と申すことは、いかやうに御心得ども候ふやらん。身に存じ候ふは、世をも捨て、世にも捨てられて、人員(ひとかず)ならぬこそ、その姿にて候へ。世にすてられて世を捨てぬは、ただ非人(ひにん)なり。世を捨つとも、世に捨てられずは、遁れたる身にあらず。しかるに、おのおのは南北二京の高僧名人にておはします。御中に参じて、一座の講行をも勤め候ひなば、もし公家より召されん時は、いかが申し候ふべき。かかる山の中に籠居して候ふ本意、たがひ候ひなんず。孝養をせじと申すにては候はねば、代官を参らせ候ふべし」とて、慧智房をもつて勤められけり。
兄の僧正たち、この返事を聞きて、「小禅師にてありし時も人を詰めしが、当時も詰むるや」とぞ、申しあはれける。故少納言入道、兄たちの事教訓の時は、この僧都の小禅師の時、使ひとして、責めふせられけることを思ひ出だして、申されけるなるべし。
翻刻
俗士之遁世門事 丹後ノ国ニナニカシトカヤ云俗アリケリ名モ承シカワスレ侍ヘ/k9-334r
リ小名ナカラ家中マツシカラスシテ年タケテウセニケル遺言ニ所 分ノ状ハ中陰スキテヒラクヘキヨシイヒヲキテケリ子息其義ニ テ開キ見ルニ男女ノ子アマタ有ケルニ嫡子ニハ宗トユツリテ 次男ヨリ次第ニスコシツツ咸シテムラナクユツリテケリ嫡子申ケ ルハ故殿ノ譲リノ上ハ子細申ヘキニアラネトモ所存ノ旨イカ テカ申サルヘキ故殿ハ果報モサル事ニテハカラヒモカシコクオハ セシカハ京鎌倉ノ宮仕公役ナトモカヒカヒシク沙汰セラレキコ ノ所領ヲカクアマタニ分テ面々ニ安堵申宮仕ハレンコトユユ シキ大事ナリ身クルシク人目見苦サレハ一人ヲ面ニシテ家ヲ ツカセテ餘人ハ便宜ノ所ニ庵室作テ入道ニナリテ念仏申テ 一期身ヤスク後世モタノモシクテスコシタク侍ヘリ我身嫡子 ニアタリテ侍レトモ器量モナク身ナカラ覚ユレハ此中ニ一人/k9-334l
エリテ家ヲツカセ申タク侍レハ各評定シテハカラヒ給ヘシトイフ ニ可然トイフ弟ナシ各モチヰ給ハスハ力ナシイカサマニモ某ハ 入道ニナリ候ヘシコノ中ニハ五郎殿ソ器量ノ人ニテオハスル サレハ家ヲツキ給ヘヲノヲノハ一向ソノ影ニテ田作テ引入テ候 ハントマメヤカニウチクトキイヘハ餘人モ其義ニナリテミナ遁世 門ニテ有リト聞ユカシコキ心ナルヘシ世間ノ人ノ楽ト思ヘルコ ト能々思トケハ顛倒ノ心ニテ苦ヲ楽ト思也楽トイフハ先ツ 心ヲ以テ本トスタトヒ身貴クトモ心クルシクハヨシナシ身マツ シクトモ心安クハタノシミナルヘシサレハ経ニハ知足ノ人ハ地 ノ上ニ臥セトモ安楽也不知足ノモノハ天堂ニ処スレトモ心 ニカナハス小欲ノ人ハ貧ト云トモ冨メリ多欲ノ人ハ冨ト云 トモマツシト云ヘリ実ニ財多ケレトモ不足ニ思ハハマツシキ人/k9-335r
ナリワツカニ身ヲタスクル衣食ノ事有ヲ不足ナク思テ望ム心 ナクハコレ冨ルナルヘシ古人云財多ケレハ身ヲ害シ名タカケ レハ神ヲ害ストイヘリ国ヲシリ財多トモ妻子眷属ヲカヘリミ 公私ノ大事ヲ営ム時ハ国モセハク財モタラス不足ノ心ハ貧 キ人ニモスクレタリ貧キ者ハモトムルトコロスクナキユヘニ彼冨 メル者ヨリ事スクナシ龍ノ頭オホケレハ毒モオホキカ如シトイ ヘリ大ナル人ト云ルル名聞ヲイミシキ事ト思ナシタルハカリナ リ身大ナレハ事多シ家ニ有テ人多クサハカシク道ヲ行ニハミ チツレ多クシテ塵灰ヲケカケラルルハカリナリ夢ノ中ノ名聞ヨシ ナクコソサリニ付テハ身命モタモチカタク人ヲナヤマシ物ヲツヰ ヤシ心ナラス罪業ノミツモレハ当来ノ苦果ノカレカタシ身モイ トマナク心モヒマナケレハ仏法修行ノ志シモ退シヤスク浄土/k9-335l
菩提ノ浄業モナシカタシ今生後世楽ナキハタタ身大ニ冨 貴ナル人也然ニ遁世ノ門ニ入テ夏冬ノハタヘヲカクス衣朝 夕ノウエヲタスクル糧天運ニマカセテ心ヤスク身自在ニシテ一 生ヲ送ラント思ヘルマメヤカニ賢キ心成ヘシ鹿ヲトリテヲリニ コメツナキテ居所ヲイミシクシ食物ヲアマウシテ養ヘトモソノ身カ ナラスヤストイヘリ鹿ハ山ヲノミ思テ心ヲトトメス若シタタ心 ヲヤスクシテ山ニ臥ス時ハ草ト水トハカリクヘ共身モ肥タリ是ハ 心ヤスケレハ肥心苦シキハヤスルニコソサレハ心ノヤスク思事 ナキホトノ楽ミナシ此故ニ貧キ子ノ孝養ノ志有ケルカ母ハ ソノ身肥冨メル子ノ不孝ナルカ母ハソノ身ヤセタリトイヘリタ タ此世ニ心ヤスキノミニアラス罪障ナク妄念無シテ仏道ヲ修 行セハ当来モタノミアリ楽天云冨貴ニシテモ苦アリ苦ハ心ノ/k9-336r
危憂ニアリ貧賤ニシテモ楽アリ楽ハ身ノ自由ニ有トイヘリマコ トニ其コトハリ疑ナシサレハ万事ヲワスレヨロツノワツラヒナキ 身トナランハカリノタノシミアラシ賢ナリシ許由帝王ヨリ九 州ノ長ニナサルヘキ宣旨ヲ蒙リテ穎川ニユキテ耳ヲアラヒケリ 巣父牛ヲ引テ穎川ヘユキテ水カハントス許由カ帰ルニユキア ヒヌ許由カ云九州ノ長ニナサルヘキ宣旨ヲ聞テ耳ヨコレテ覚 ツレハ穎川ニユキテススキテ帰也トイフサテハソノ水ハヨコレヌ ルニコソ牛ニカハシトテ牛ヲ引テ帰ヌ許由耳ヲアラヒ巣父牛 ヲ引ト申伝ヘタルハ此事也末代ハカカル耳ヲハカタシケナク 思テ綿ニテモツツミ錦ニテモマトヒヨソノ人モオカミタトヒソセ マシ然ルニ当世ノ人ノ中ニ遁世門ニ入事有カタクコソ覚ユ レ実ノ道ニ入テ世間ノアタナル理ヲシラハ何事ハ心ヲトトメ/k9-336l
何ナル縁ニカサヘラルヘキ昔ノ大王ハ位ヲステテ一乗ノ御法 ヲ習ヒ菜ヲツミ水ヲクミ薪ヲトリ千歳ノ給仕ヲタニモシ給ケ ルソカシワツカナル世間ニ心ヲ留メテ道ニ入ル人ノナキ習ヒコ ソヲロカナレ我朝ニハ花山院コソ実ニ御遁世有ケレ小野ノ 宮殿ノ御女弘徽殿ノ女御ニ後サセ給ヒテ御歎アサカラス 世中御心細ク思食シミタレタリケルコロ粟田関白未タ殿上 入ニテオハシケル時モチ給ヘル扇ニ妻子珍宝及王位臨 命終時不随者唯戒及施不放逸今世後世為伴侶トカキ 給ケルヲ御覧シテ御心ヲ発シ世ノ楽ハ夢幻ノホト也国ノ位モ ヨシナシト思食取テタチマチニ十善万乗ノ位ヲ捨テ永ク一 乗菩提ノ道ニソ人セ給ケル既ニ内裏ヲ出サセ給ケル夜ハ寛 和二年六月二十三日アリアケノ月クマナカリケルニサスカ/k9-337r
ニ御ナコリモ残リケルニヤムラクモノ月ニカカリケレハ我願既 満トテソ貞観殿ノ高妻戸ヨリオリサセタマヒケルソレヨリ彼 ツマ戸ヲハウチツケラレケルトソ有カタキ御発心ニコソハルカニ 承モ哀ニ侍ヘリ覚鑁上人ノ詞ニモ三界無安猶如火宅 王宮モ猶火宅ノ中ナリ當有生老病死憂患玉体モ又無 常ノ形也トコソ申サレケレ誠ニ心賢カラン人虚妄転変ノ世 間ヲステテ実相常住ノ仏道ニ入ヘキヲヤ故小納言入道 信西ノ十三年ノ仏事其子孫名僧上綱達ヨリ合テ一門 八講ト名テユユシキ仏事醍醐ニテ行ハルル事有ケリ開白ハ 聖覚法印結願ハ明遍僧都ト定テ覚憲僧正澄憲法印証 憲僧正静憲法印等使者ヲ高野ヘツカハシテ此ヨシ申サルル ニ遁世ノ身ニテ侍レハエマイラシト明遍僧都返事セラレタリ/k9-337l
ケルヲ兄ノ僧正達大ニ心エヌ事ニ思テサレハ遁世之身ニハ 親ノ孝養セヌ事カサハカリノ智者学生ト云御房ノ返事返 返思ハスナリトテヲシ返シ使者ヲ以テ此ヨシヲ申サル又返事 ニ此仰畏テ承候ヌ遁世ノ身ナレハ親ノ孝養セシト申ニハ侍 ラス各ノ御中ヘ参スル事ヲハハカリ申也其故ハ遁世ト申事 ハ何様ニ御心得共候哉覧身ニ存候ハ世ヲモステ世ニモス テラレテ人員ナラヌコソ其スカタニテ候ヘ世ニステラレテ世ヲス テヌハタタ非人也世ヲスツトモ世ニステラレスハノカレタル身ニ アラス然ニ各ハ南北二京ノ高僧名人ニテ御坐ス御中ニ参 シテ一座ノ講行ヲモツトメ候ナハ若シ公家ヨリ召レン時ハイカ カ申候ヘキカカル山ノ中ニ籠居シテ候本意タカヒ候ナンス孝 養ヲセシト申ニテハ候ハネハ代官ヲマイラセ候ヘシトテ慧智房/k9-338r
ヲ以テツトメラレケリ兄ノ僧正達コノ返事ヲ聞テ小禅師ニテ 有シ時モ人ヲツメシカ当時モツムルヤトソ申シアハレケル故小 納言入道兄タチノ事教訓ノ時ハ此僧都ノ小禅師之時ツ カヒトシテセメフセラレケル事ヲ思出テ申サレケルナルヘシ/k9-338l