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text:shaseki:ko_shaseki06a-06

沙石集

巻6第6話(64) 能説房の説法の事

校訂本文

嵯峨に能説房といふ説経師ありけり。随分弁説の僧なりけり。隣に估酒家の、徳人の尼ありけり。能説房、きはめたる愛酒の上戸にて、布施物をもて、一向酒を買ひて飲みけり。

ある時、この尼公、仏事することありて、能説房を導師に請ず。近辺の者、これを聞きて、能説房に申しけるは、「この尼公の、酒を売り候ふに、一つの難に、水を入るるによりて、思ふほどもなし。今日の御説法のついでに、酒に水入れて売るは罪なるよし、細かに仰せられ候へ」と言ふ。

能説房、おのおのの仰せられぬ先に、「法師も存じて候ふ。今日、日ごろの本懐、申し開くべし」とて、仏経の釈はただおほかたばかりにて、酒に水入るる罪障を勘(かんが)へ集めて、少々は無きことまでさしまじへて、思ふほど言ひけり。

さて、説法終りて、尼公、その辺の聴衆までみな呼び集めて、大きなる桶に1)酒を入れて、取り出でて勧む。能説房、一座せめて、杯(さかづき)取り上げて飲みけり。

この尼公、「あさましく候ひけることかな。酒に水入るるは罪にて候ひけるを、知り候はざりけるよ」と言ふに、「水の少し入れたるだに良し。今日いかにめでたくあらん」と思ふほどに、能説房、一度(いちど)飲みて、「あ」と言ひければ、「いかに良かるらん。感ずる音か」と聞くほどに、「日ごろは、ちと水臭き酒にてこそ候ひつるに、これはなど、酒臭き水にて候ふはいかに」と言ひければ、「さも候ふらん。『酒に水入るるは罪ぞ』と仰せられ候ひつる時にこれは水に酒を入れて候ふ」とて、大桶に水を入れて、酒を一鍉ばかり入れたりける。この尼公、興懐(きようくわい)にしたりけるにや。また、悪しく心得たりけるにや。

仏法も、言葉を悪しく心得つれば邪法になる。近代、変成就なんどいふ真言2)、世に多く侍り。おほきなる誤りの法なり。仏知見の悟りの境界、凡情つき、執心なくて、能所忘れ、彼我絶えて、金剛の幻不思議の妙用の時、陰陽も男女も、理智の二法に出でぬよしばかりを聞きて、凡情の染着(せんぢやく)をもて、定慧冥合なんど名付けて、不思議の非法・邪行をはばからぬも、文の料簡の悪しきゆゑなり。

くはしく申さば、教相広くして、記しがたし。大綱、法の体は、迷悟なく凡聖なし。真空寂滅のゆゑに、機情には是非あり、善悪あり。よつて煩悩業苦絶えず。しかれば、行門は機情をととのへ、見解(けんげ)は法体を知る。いづれの仏法も、内に染着なく、外の邪業なき通相なり。真言・念仏・禅門等の行業の精進と言へるは、いささかも妄念まじはり起らぬ時を言ふなり。

しかるに、修行の時、妄念の少しまじはるは、酒に水少し入れたるがごとし。妄念のみ多くば、水に酒を入れたるかごとし。されば、念仏・坐禅等の行門の時、妄念おこらば、妄念臭き念仏・真言なり。妄念のみ多くば、念仏臭き妄念なるべし。めでたき喩へなり。

苗の、草にまじはりて3)長ぜぬがごとし。妄念の草に、善苗は長ぜさるなり。およそ心を養ひて妄業をなさば、一切の仏法にそむくべし。

かかる邪見、近代盛りなり。「かくのごとくのたぐひのあらん国は、災難来たるべし」と、仏頂経には見えたり。よくよく恐るべし、恐るべし。「たとひ破戒なれども、正見なるは、人天(にんでん)の師となる。持戒なれども、邪見なるは、国の仇(あだ)なり」と言へり。

翻刻

  能説房之説法事
嵯峨ニ能説房ト云説経師有ケリ随分弁説ノ僧也ケリ隣
ニ估酒家ノ徳人ノ尼有ケリ能説房キワメタル愛酒ノ上戸ニ
テ布施物ヲモテ一向酒ヲカヒテノミケリ有時此尼公仏事
スル事アリテ能説房ヲ導師ニ請ス近辺ノ者是ヲキキテ能説/k6-216l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=215&r=0&xywh=-2688%2C554%2C5375%2C3195

房ニ申ケルハ此尼公ノサケヲウリ候ニ一ノ難ニ水ヲ入ルルニ
ヨリテ思程モナシ今日ノ御説法ノ次ニサケニ水入テ売ハ罪
ナルヨシコマカニ仰ラレ候ヘトイフ能説房各ノ仰ラレヌサキニ
法師モ存シテ候今日々来ノ本懐申開クヘシトテ仏経ノ釈ハ
タタ大方ハカリニテサケニ水入ルル罪障ヲ勘ヘアツメテ少々ハ
ナキ事マテサシマシヘテ思ホトイヒケリサテ説法ヲハリテ尼公其
辺ノ聴衆マテ皆ヨヒアツメテ大ナル桶酒ヲ入テ取出テススム
能説房一座セメテサカツキトリアケテノミケリ此尼公アサマシ
ク候ケル事カナサケニ水イルルハ罪ニテ候ケルヲシリ候ハザリケル
ヨトイフニ水ノスコシ入タルタニヨシ今日イカニ目出タクアラン
ト思程ニ能説房一トノミテアトイヒケレハイカニヨカルラン感
スル音カト聞クホトニ日来ハチト水クサキサケニテコソ候ツルニコ/k6-217r
レハナト酒クサキ水ニテ候ハイカニト云ケレハサモ候ラン酒ニ水
イルルハ罪ソト仰ラレ候ツル時ニ是ハ水ニサケヲ入テ候トテ大
桶ニ水ヲ入テ酒ヲ一鍉ハカリ入タリケル此尼公興懐ニシタ
リケルニヤ又悪クココロエタリケルニヤ仏法モ詞ヲ悪ク心ヘツレ
ハ邪法ニナル近代変成就ナントイフ真言世ニ多ク侍リオホ
キナルアヤマリノ法ナリ仏知見ノ悟ノ境界凡情ツキ執心ナク
テ能所ワスレ彼我タヱテ金剛ノ幻不思議ノ妙用之時陰
陽モ男女モ理智ノ二法ニイテヌヨシハカリヲ聞テ凡情ノ染著
ヲモテ定慧冥合ナントナツケテ不思議ノ非法邪行ヲハハカラ
ヌモ文ノ料簡ノアシキ故也委ク申サハ教相ヒロクシテ記シカタ
シ大綱法ノ体ハ迷悟ナク凡聖ナシ真空寂滅ノ故ニ機情ニ
ハ是非アリ善悪アリ仍テ煩悩業苦タヱスシカレハ行門ハ機/k6-217l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=216&r=0&xywh=-2170%2C427%2C5805%2C3451

情ヲトトノヘ見解ハ法体ヲシルイツレノ仏法モ内ニ染著ナク
外ノ邪業ナキ通相ナリ真言念仏禅門等ノ行業ノ精進ト
イヘルハイササカモ妄念雑リ起ラヌ時ヲ云ナリ然ニ修行ノ時
妄念ノスコシマシハルハサケニ水少シ入タルカコトシ妄念ノミオ
ホクハ水ニ酒ヲ入タルカコトシサレハ念仏坐禅等ノ行門ノト
キ妄念オコラハ妄念クサキ念仏真言ナリ妄念ノミオオホクハ念
仏クサキ妄念ナルヘシ目出キタトヘナリ苗ノ草ニサシハリテ長
セヌカコトシ妄念ノ草ニ善苗ハ長セサル也凡心ヲ養テ妄業
ヲナサハ一切ノ仏法ニソムクヘシカカル邪見近代サカリナリ如
此ノタクヒノアラン国ハ災難来ルヘシト仏頂経ニハ見ヘタリヨ
クヨクオソルヘシオソルヘシタトヒ破戒ナレトモ正見ナルハ人天ノ師トナ
ル持戒ナレトモ邪見ナルハ国ノアタナリト云ヘリ/k6-218r

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=217&r=0&xywh=-254%2C381%2C5805%2C3451

1)
底本「に」なし。諸本により補う。
2)
立川流を指すと考えられる。
3)
「まじはりて」は底本「サシハリテ」。文脈により訂正。
text/shaseki/ko_shaseki06a-06.txt · 最終更新: 2019/01/13 16:30 by Satoshi Nakagawa