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text:shaseki:ko_shaseki05b-20 [2018/12/25 12:50] – 作成 Satoshi Nakagawa | text:shaseki:ko_shaseki05b-20 [2018/12/25 12:51] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa | ||
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されば、息絶え、魂去れば、もとの四大に帰る。妄心はまた我相人相、貪瞋痴の分別、浮雲電光のごとくして、あるに似てまことになし。境を縁じて移り、物にしたがひて転ず。われといふべきものなし。これを客塵(かくぢん)に喩ふ。無我の大我のほかにまことなし。真我は常住なり。生滅去来なし。されば、一切妄念思慮なくは、おのづから自性の仏なるべし。 | されば、息絶え、魂去れば、もとの四大に帰る。妄心はまた我相人相、貪瞋痴の分別、浮雲電光のごとくして、あるに似てまことになし。境を縁じて移り、物にしたがひて転ず。われといふべきものなし。これを客塵(かくぢん)に喩ふ。無我の大我のほかにまことなし。真我は常住なり。生滅去来なし。されば、一切妄念思慮なくは、おのづから自性の仏なるべし。 | ||
- | 経にいはく、「一切の法を念ずれば般若を念ぜず。般若を念ずれば一切の法を念ぜず。((一切の法・・・」底本、「念一切法不念般若ヲ念スレハ一切ノ法ヲ念セス」。諸本により訂正。))と言へり。また、古人のいはく、「但妄縁を離れば、如々の仏なり」と。このゆゑに、一切のことを思はずして仏となれと教へ給ふにや。凡夫、もし念を離るといはば、この理(ことわり)なけんと言ひて、妄念相続せるを凡夫といひ、一念不生なるを仏といふ。仏の御教へのみにあらず。神明もかくこそ教へ給ひぬれ。 | + | 経にいはく、「一切の法を念ずれば般若を念ぜず。般若を念ずれば一切の法を念ぜず。((「一切の法・・・」底本、「念一切法不念般若ヲ念スレハ一切ノ法ヲ念セス」。諸本により訂正。))と言へり。また、古人のいはく、「但妄縁を離れば、如々の仏なり」と。このゆゑに、一切のことを思はずして仏となれと教へ給ふにや。凡夫、もし念を離るといはば、この理(ことわり)なけんと言ひて、妄念相続せるを凡夫といひ、一念不生なるを仏といふ。仏の御教へのみにあらず。神明もかくこそ教へ給ひぬれ。 |
和泉式部、夫保昌((藤原保昌。「夫保昌」は底本「保昌夫」。文脈により訂正。))とかれがれ((「かれがれ」は底本「カレコレ」。諸本により訂正。))になりけるころ、貴布禰(きぶね)((貴船神社))に籠りて、蛍の飛ぶを見て、 | 和泉式部、夫保昌((藤原保昌。「夫保昌」は底本「保昌夫」。文脈により訂正。))とかれがれ((「かれがれ」は底本「カレコレ」。諸本により訂正。))になりけるころ、貴布禰(きぶね)((貴船神社))に籠りて、蛍の飛ぶを見て、 |
text/shaseki/ko_shaseki05b-20.txt · 最終更新: 2018/12/25 12:51 by Satoshi Nakagawa