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text:shaseki:ko_shaseki04b-02

沙石集

巻4第2話(30) 上人の妻に後るる事

校訂本文

八幡山の辺に、なにがしの上人とかや聞こえしが、名の下にまことなくして、妻を持ちたりけるが、悩むことありて失せにけり。人とぶらひて、「あさましく候ふことかな。上人の御房の、『御前におくれ給へる』と言へば、いかにし候はんぞ。妻持たず、聖(ひじり)にてこそ候はめ」と言ひける。

勿論に思えておしけれども、末代には、妻持たぬ上人、年をおふてまれにこそ聞きし。後白川の法皇1)は、「隠すは上人、せぬは仏」と仰せられけるとかや。この聖は、隠すまでもなかりけり。今の世には、隠す上人なほ少なく、せぬ仏、いよいよまれなりけり。

死の業因、輪廻の苦果、ただこのことなり。首楞厳経には、「淫心断たざれば、生死(しやうじ)出づべからず。淫心断たずして、生死を解脱せんと思ふは、砂を蒸して飯(いひ)とせんがごとし」と言へり。欲界の煩悩の根本として、「諸苦所因貪欲為本。(諸苦の所因は貪欲を本とす。)」とも説き、「愛是諸煩悩足。(愛これ諸煩悩の足。)」とも言ひて、三界の牢獄に人をつなぐ鎖、ただ淫欲のことなり。

老子なほ言へり。「罪は可欲(かよく)より大なるはなく、禍(わざはひ)は不知足より大なるはなし」と。可欲とは、色を愛することなり。不知足とは、財(たから)に飽き足らぬことなり。財をむさぼる欲心の深きも、多くは妻子を養ふゆゑなれば、みなもと色欲よりおこれり。経にも、「欲に近付き習ひぬれば、罪として作らずといふことなきゆゑに、かの果を受くる時は、苦として受けずといふことなし」と言へり。

ただ平生に身を苦しめ、心を煩はすのみにあらず。臨終の時、妄念おこりやすく、愛執忘れがたし。このゆゑに、出離の道をさへ、悪趣の苦に沈み、長却に出でがたし。輪廻の基(もとゐ)、流転の因、ひとへにこのことにあり。

わが身よりも重くいたはしき妻子あれば、恩愛の奴(やつこ)となりて、欲のために使はれ、父母師長の恩田をも報ぜず、三宝勝妙の敬田をも供せず、貧病孤独2)の悲田にも施さず、かへて、殺盗・邪淫・妄語・貪嗔・嫉妬・放逸・迷乱、あらゆる失3)、これよりおこらずといふことなし。さてつひに、前後相違別離の悲嘆に沈み、いたづらに痴愛の火に溺れ、常に哀傷の炎にこがれ、輪廻の業を増し、煩悩の根を深くす。かへすがへすも厭ふべし。

かれがために、罪を作り苦を受くといへども、恩を知り、徳を報ひて、中有(ちゆうう)にとも なふ妻妾もなく、苦患にかはる男女もなし。これを軟賊にたとへ、毒蛇に類す。徳を破り、道を損じ、楽少なく、災(わざわひ)多し。不浄なり。無常なり。幻化(げんげ)なり。苦悩なり。むなしく二世の身心を苦しくす。もつとも厭ふべし。

南山大師4)いはく、「四百四種の病は、宿食(しゆくじき)を根本とし、三途八難の苦、女人を根本とす。今法を解(さと)れりといふ人を見るに、なほ財色に貪す。すでに道人にあらず、また、白衣(びやくえ)にあらず。名付くる所なし。知りてことさらに犯す。解脱の期なし。千仏、世に出づれども、見ず聞かず。財を貪し、色を愛する人は、余徳ありといへども、見るに足らず。道俗二つながら、財色のために、あらはに一百三十六の大地獄の中にありて、千万種の苦を受く」と言へり。浄心観にあり。

生死の長夜(ぢやうや)、会離(えり)の悲しび、六趣やむことなし。悲しきかな。解脱の道に入らんと思はば、離欲をもととすべし。身口(しんく)になさざるをば戒律儀と言ひ、心に五欲を離るるをば根律儀と言ふ。たとひ身口に行せずといふとも、心に貪欲やまずして、煩悩内にこはきは、次の生に淫欲熾盛の報を受けて、第三生に地獄に入ると言へり。余の煩悩もなずらふべし。仏頂経の制、この意なり。いはんや、身に行じ、心にも着(ぢやく)して、放逸ならん、まことに出離その期なからん。

「たとひ多智禅定ありとも、淫を断たずば魔道に入る」と言へり。諸宗の学者多く魔道に落つと言へり。このゆゑに、真実に対治して、身心二つなから清浄にして、解脱の道に入るべきなり。

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沙石集巻第四 下
  上人妻後事
八幡山ノ辺ニナニカシノ上人トカヤキコヘシカ名ノ下ニマコト
ナクシテ妻ヲモチタリケルカ悩ム事有テウセニケリ人トフラヒテア
サマシク候事哉上人ノ御房ノ御前ニヲクレ給ヘルトイヘハイ
カニシ候ハンソ妻モタスヒシリニテコソ候ハメトイヒケル勿論ニ
覚テオシケレトモ末代ニハツマモタヌ上人年ヲ逐テ希ニコソ聞
シ後白川ノ法皇ハカクスハ上人セヌハ仏ト仰セラレケルトカヤコ
ノヒシリハカクスマテモナカリケリ今ノ世ニハカクス上人猶スクナ
クセヌ仏イヨイヨ希ナリケリ死ノ業因輪廻ノ苦果タタ此コトナ
リ首楞厳経ニハ淫心タタサレハ生死イツヘカラス淫心不断シテ
生死ヲ解脱セント思ハ沙ヲムシテ飯トセンカコトシトイヘリ欲/k4-135l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=134&r=0&xywh=-2346%2C256%2C6490%2C3835

界ノ煩悩ノ根本トシテ諸苦所因貪欲為本トモ説キ愛是諸
煩悩足トモ云テ三界ノ牢獄ニ人ヲツナク鏁タタ淫欲ノ事也老
子猶イヘリ罪ハ可欲ヨリ大ナルハナク禍ハ不知足ヨリ大ナル
ハナシト可欲トハ色ヲ愛スル事也不知足トハ財ニアキタラヌ
事ナリ財ヲムサホル欲心ノフカキモ多ハ妻子ヲヤシナフユヘナレ
ハミナモト色欲ヨリオコレリ経ニモ欲ニ近キ習ヌレハ罪トシテツク
ラスト云コトナキ故ニ彼果ヲウクル時ハ苦トシテウケストイフ事
ナシトイヘリタタ平生ニ身ヲクルシメ心ヲワツラハスノミニアラス
臨終ノ時妄念オコリヤスク愛執ワスレカタシコノ故ニ出離ノ
道ヲサヘ悪趣ノ苦ニシツミ長却ニイテカタシ輪廻ノモトイ流
転ノ因ヒトヘニ此事ニ有リ我身ヨリモヲモクイタハシキ妻子ア
レハ恩愛ノヤツコトナリテ欲ノタメニツカハレ父母師長ノ恩田/k4-136r
ヲモ報セス三宝勝妙ノ敬田ヲモ供セス貪病孤独ノ悲田ニ
モ施サスカヘテ殺盗邪淫妄語貪嗔嫉妬放逸迷乱アラユル
コレヨリオコラストイフ事ナシサテツヰニ前後相違別離ノ悲嘆
ニシツミイタツラニ痴愛ノ火ニオホレ常ニ哀傷ノ炎ニコカレ輪
廻ノ業ヲマシ煩悩ノ根ヲフカクス返々モイトフヘシカレカタメニ
罪ヲツクリ苦ヲウクトイヘトモ恩ヲシリ徳ヲムクヒテ中有ニトモ
ナフ妻妾モナク苦患ニカハル男女モナシコレヲ軟賊ニタトヘ毒
蛇ニ類ス徳ヲヤフリ道ヲ損シ楽スクナク災オホシ不浄ヤ無常
ヤ幻化ナリ苦悩ナリムナシク二世ノ身心ヲクルシクス尤イトフ
ヘシ南山大師云四百四種ノ病ハ宿食ヲ根本トシ三途八
難ノ苦女人ヲ根本トス今法ヲ解レリト云人ヲミルニ猶財色
ニ貪ス既ニ道人ニアラス又白衣ニアラス名ツクル所ナシ知テコ/k4-136l

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トサラニヲカス解脱ノ期ナシ千仏世ニイツレトモ見スキカス財
ヲ貪シ色ヲ愛スル人ハ餘徳アリトイヘトモ見ルニタラス道俗
二ナカラ財色ノタメニ現ニ一百三十六ノ大地獄ノ中ニ有
リテ千万種ノ苦ヲ受クトイヘリ浄心観ニアリ生死ノ長夜会
離ノ悲ヒ六趣ヤム事ナシ悲哉解脱ノ道ニイラント思ハ離欲
ヲ本トスヘシ身口ニナササルヲハ戒律儀ト云ヒ心ニ五欲ヲハ
ナルルヲハ根律儀ト云フタトヒ身口ニ行セストイフトモ心ニ貪
欲ヤマスシテ煩悩内ニコハキハ次ノ生ニ淫欲熾盛ノ報ヲウケテ
第三生ニ地獄ニ入ルトイヘリ餘ノ煩悩モナスラフヘシ仏頂
経ノ制コノ意也イハンヤ身ニ行シ心ニモ著シテ放逸ナランマコト
ニ出離ソノ期ナカランタトヒ多智禅定有トモ淫ヲタタスハ魔
道ニ入ト云リ諸宗ノ学者多ク魔道ニ落トイヘリコノユヘニ/k4-137r
真実ニ対治シテ身心二ナカラ清浄ニシテ解脱ノ道ニ入ヘキナリ/k4-137l

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1)
後白河天皇
2)
「貧病孤独」は、底本「貪病孤独」。文脈により訂正。
3)
「失」底本なし。諸本により補う。
4)
道宣
text/shaseki/ko_shaseki04b-02.txt · 最終更新: 2018/12/06 12:26 by Satoshi Nakagawa