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text:shaseki:ko_shaseki04a-01 [2018/11/06 18:51] – 作成 Satoshi Nakagawa | text:shaseki:ko_shaseki04a-01 [2018/12/06 12:25] (現在) – [巻4第1話(39) 無言上人の事] Satoshi Nakagawa | ||
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沙石集 | 沙石集 | ||
- | ====== 巻4第1話(39) 無言上人の事 ====== | + | ====== 巻4第1話(29) 無言上人の事 ====== |
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また、戒定恵の三学、真実の体は無二なり。京兆の興善寺の惟寛禅師は、馬祖((馬祖道一))の弟子なり。白居易、問ひていはく、「すでに禅師といふ。何ぞ法を説く」。問(もん)の意は、禅は不立文字(ふりうもんじ)の宗なり。心にありて言にあらず。法を教師の談ずる所と思へり。禅師、答へていはく、「無上菩提を身にかぶらしむるを戒と言ひ、口に説くを法と言ひ、心に行するを禅と言ふ。応用は三つあれども、その体は不二なり。譬へば、江河淮漢の在所に名を立つること異なれども、水体は無二なるがごとし。戒、すなはち法、法、禅を離れず。何ぞ分別を生ずる」と言へり。 | また、戒定恵の三学、真実の体は無二なり。京兆の興善寺の惟寛禅師は、馬祖((馬祖道一))の弟子なり。白居易、問ひていはく、「すでに禅師といふ。何ぞ法を説く」。問(もん)の意は、禅は不立文字(ふりうもんじ)の宗なり。心にありて言にあらず。法を教師の談ずる所と思へり。禅師、答へていはく、「無上菩提を身にかぶらしむるを戒と言ひ、口に説くを法と言ひ、心に行するを禅と言ふ。応用は三つあれども、その体は不二なり。譬へば、江河淮漢の在所に名を立つること異なれども、水体は無二なるがごとし。戒、すなはち法、法、禅を離れず。何ぞ分別を生ずる」と言へり。 | ||
- | 圭峰の宗密禅師も、「禅は仏の意、教(けう)は仏の言、諸仏は心口相応す」と言ひて、三宗三教の和合のこと、宗鏡録第三十四巻半分以下これあり。また、圭峰の禅源諸詮の中にこれあり。上巻の終なり。道人、もつともこれを見給ふべし。 | + | 圭峰の宗密禅師((圭峰宗密))も、「禅は仏の意、教(けう)は仏の言、諸仏は心口相応す」と言ひて、三宗三教の和合のこと、宗鏡録第三十四巻半分以下これあり。また、圭峰の禅源諸詮の中にこれあり。上巻の終なり。道人、もつともこれを見給ふべし。 |
およそ、戒定慧の三学、方便の位には異なれども、真実の体を論ずれば、全く一つなり。戒罪人の三つを分かちて、犯不犯の品を立つるは世間の戒なり。たとひ持するも、有漏の果報を受く。ただ定を発する方便なり。体は欲界の下業なり。このゆゑに、南山律師((道宣))、釈し給はく、「執則障道、是世善法。違則障道、不免三途云々。(執すれば則ち道を障ふ。これ世の善法なり。違すれば則ち道を障ふ。三途を免れずと云々)」。持するなほし道を障(さ)ふ。戒相を執するゆゑに。犯(ぼん)ずれば、またいよいよ道に遠し。三途に入るがゆゑに。これすなはち、世間の戒なり。 | およそ、戒定慧の三学、方便の位には異なれども、真実の体を論ずれば、全く一つなり。戒罪人の三つを分かちて、犯不犯の品を立つるは世間の戒なり。たとひ持するも、有漏の果報を受く。ただ定を発する方便なり。体は欲界の下業なり。このゆゑに、南山律師((道宣))、釈し給はく、「執則障道、是世善法。違則障道、不免三途云々。(執すれば則ち道を障ふ。これ世の善法なり。違すれば則ち道を障ふ。三途を免れずと云々)」。持するなほし道を障(さ)ふ。戒相を執するゆゑに。犯(ぼん)ずれば、またいよいよ道に遠し。三途に入るがゆゑに。これすなはち、世間の戒なり。 |
text/shaseki/ko_shaseki04a-01.txt · 最終更新: 2018/12/06 12:25 by Satoshi Nakagawa