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text:shaseki:ko_shaseki03b-08 [2018/09/23 23:56] – 作成 Satoshi Nakagawatext:shaseki:ko_shaseki03b-08 [2018/11/25 16:47] – [校訂本文] Satoshi Nakagawa
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 ある遁世の長斎(ぢやうさい)の上人、河内国へ請用(しやうよう)して行く。七里の道を、冬の日、「時(とき)以前におはしませ」と請ず。いと道も歩まぬ馬に乗りて行くに、曇りて日影も見えねども、はるかに日たけて思えければ、「今日は日下(さが)りぬらん」と言ふに、檀那、「いまだ午時にてぞ候ふらん」とて、種々の珍物をもつて斎(とき)いとなみてすすむ。もとより食者(じきしや)なれば、かひがひしく行ひ、食後(じきご)の菓子まて至極せめ食ひて、楊枝使ふに、鐘の声聞こゆ。「これは何の鐘ぞ」と問へば、「日没」と言ふ。日没の鐘をまがふことは似たれども、食にまがへるは、かの上人の物語に忘れたるよりも、まさなくこそ思ゆれ。 ある遁世の長斎(ぢやうさい)の上人、河内国へ請用(しやうよう)して行く。七里の道を、冬の日、「時(とき)以前におはしませ」と請ず。いと道も歩まぬ馬に乗りて行くに、曇りて日影も見えねども、はるかに日たけて思えければ、「今日は日下(さが)りぬらん」と言ふに、檀那、「いまだ午時にてぞ候ふらん」とて、種々の珍物をもつて斎(とき)いとなみてすすむ。もとより食者(じきしや)なれば、かひがひしく行ひ、食後(じきご)の菓子まて至極せめ食ひて、楊枝使ふに、鐘の声聞こゆ。「これは何の鐘ぞ」と問へば、「日没」と言ふ。日没の鐘をまがふことは似たれども、食にまがへるは、かの上人の物語に忘れたるよりも、まさなくこそ思ゆれ。
  
-古(いにしへ)をもつて鏡として、今の世を見るに、興廃まことに異なり。古の遁世の人は、仏法に心を染めて、世間の万事を忘る。近代は、世間の名利を忘れずして、仏法は廃るるにこそ。かかるままに、遁世の名のみありて、遁世のまことなし。世にあては、人にも知られず名利もなき人、遁世門に入りては、なかなか名も利もあるままに、必ず道心にあらねども、ただ世のために遁世する人、年々に多く見え侍るにや。されば、当世は遁世の遁の字を改めて、貪世と書くべきにや。この心を思ひ続け侍り。+古(いにしへ)をもつて鏡として、今の世を見るに、興廃まことに異なり。古の遁世の人は、仏法に心を染めて、世間の万事を忘る。近代は、世間の名利を忘れずして、仏法は廃るるにこそ。かかるままに、遁世の名のみありて、遁世のまことなし。世にあては、人にも知られず名利もなき人、遁世門に入りては、なかなか名も利もあるままに、必ず道心にあらねども、ただ世のために遁世する人、年々に多く見え侍るにや。されば、当世は遁世の遁の字を改めて、貪世と書くべきにや。この心を思ひ続け侍り。
  
   遁世の遁は時代に書きかへん昔は遁(のが)る今は貪(むさぼ)る   遁世の遁は時代に書きかへん昔は遁(のが)る今は貪(むさぼ)る
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 それ、一切衆生、みな霊知覚了の性を具せり。この性、すなはち仏性なり。この仏性を忘るるを生死の凡夫といふ。本覚の真心(しんしん)にそむきて、幻化(げんけ)の塵境(ぢんきやう)に着するを無明妄想(むみやうまうざう)といふ。しかれば、法身の大我を忘れぬこそ、まことの道人のあるべきやうにて侍るべけれ。 それ、一切衆生、みな霊知覚了の性を具せり。この性、すなはち仏性なり。この仏性を忘るるを生死の凡夫といふ。本覚の真心(しんしん)にそむきて、幻化(げんけ)の塵境(ぢんきやう)に着するを無明妄想(むみやうまうざう)といふ。しかれば、法身の大我を忘れぬこそ、まことの道人のあるべきやうにて侍るべけれ。
  
-禅師いはく、「以空寂為自身。勿認色身。以霊知為自心。勿認妄念。作有義事是惶悟心。作無義事是狂乱心。狂乱由情念。臨終被業牽。惶悟不随情。臨終能転業」と言へり。文の意は、「妄心分別はこれ狂乱なり。真心を忘る一念不生はこれ惶悟なり。本心をあらはす情念の所作は、みな無義なり。無常の果を受く無念の修行は、これ有義なり。常住の理にかなふ。このゆゑに、臨終に妄業に引かれずして、自在の妙楽を得んと思はば、行住坐臥に妄念を許さずして、本心を明らむべし。+禅師((圭峰宗密))いはく、「以空寂為自身。勿認色身。以霊知為自心。勿認妄念。作有義事是惶悟心。作無義事是狂乱心。狂乱由情念。臨終被業牽。惶悟不随情。臨終能転業」と言へり。文の意は、「妄心分別はこれ狂乱なり。真心を忘る一念不生はこれ惶悟なり。本心をあらはす情念の所作は、みな無義なり。無常の果を受く無念の修行は、これ有義なり。常住の理にかなふ。このゆゑに、臨終に妄業に引かれずして、自在の妙楽を得んと思はば、行住坐臥に妄念を許さずして、本心を明らむべし。
  
 徳山((徳山宣鑑))いはく、「無心於事。無事於心。虚而霊。空而妙。毫釐繋念。三途業因。弊爾情生萬却羇鏁云々」。これ行人の用心、修観の亀鏡なり。無心無事なるは、真身の現はるる姿、繋念情生するは、本心を忘るる時なり。このゆゑに、孔子の物語(([[ko_shaseki03b-07|前話]]参照。))、あまねく天下の人を教へて、仏法に入る方便なり。 徳山((徳山宣鑑))いはく、「無心於事。無事於心。虚而霊。空而妙。毫釐繋念。三途業因。弊爾情生萬却羇鏁云々」。これ行人の用心、修観の亀鏡なり。無心無事なるは、真身の現はるる姿、繋念情生するは、本心を忘るる時なり。このゆゑに、孔子の物語(([[ko_shaseki03b-07|前話]]参照。))、あまねく天下の人を教へて、仏法に入る方便なり。
text/shaseki/ko_shaseki03b-08.txt · 最終更新: 2018/12/06 12:25 by Satoshi Nakagawa