text:shaseki:ko_shaseki01b-10
差分
このページの2つのバージョン間の差分を表示します。
text:shaseki:ko_shaseki01b-10 [2018/07/23 18:39] – 作成 Satoshi Nakagawa | text:shaseki:ko_shaseki01b-10 [2018/07/30 12:03] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa | ||
---|---|---|---|
行 36: | 行 36: | ||
そのゆゑは、弥陀は慈悲広大にして万行万善を修する人をも迎へとり、極楽は境(さかひ)無辺にして余教余宗を習ふ輩をも摂取し給はんこそ、余の諸仏にもすぐれ、余の浄土にも超へへて、我建超世願の誓も頼もしく、広大無辺の国もめでたかるべきに、余行余教は選び捨てられて、往生せぬことならば、仏は慈悲少なく、国は境狭(せば)くこそ思ゆれ。 | そのゆゑは、弥陀は慈悲広大にして万行万善を修する人をも迎へとり、極楽は境(さかひ)無辺にして余教余宗を習ふ輩をも摂取し給はんこそ、余の諸仏にもすぐれ、余の浄土にも超へへて、我建超世願の誓も頼もしく、広大無辺の国もめでたかるべきに、余行余教は選び捨てられて、往生せぬことならば、仏は慈悲少なく、国は境狭(せば)くこそ思ゆれ。 | ||
- | あるいは、乳母、姫君を養ひて、あまりに讃めんとて、「わらはが養ひ姫君は、御みめの美しく、御目は細々として、愛らしくおはするぞや」と言ふを、「人の目の細きは悪(わろ)きものを」と言へば、「やら、片々の御目は、大きにおはするぞ」と言ひけるこそ、思ひ合はせられ侍れ。弥陀をも讃めそこなひて侍るにや。 | + | あるいは、乳母、姫君を養ひて、あまりに讃めんとて、「わらはが養ひ姫君は、御見目(おんみめ)の美しく、御目は細々として、愛らしくおはするぞや」と言ふを、「人の目の細きは悪(わろ)きものを」と言へば、「やら、片々の御目は、大きにおはするぞ」と言ひけるこそ、思ひ合はせられ侍れ。弥陀をも讃めそこなひて侍るにや。 |
また余行の往生許さぬ流の中にも、義門まちまちなり。ある人師(にんし)の義には、「余行の往生せぬと言ふは、三心を具せざる時のことなり。三心を具すれば、余行もみな念仏となりて、往生すべし。名号を唱ふとも、三心なくは往生すべからず」と言へり。この義ならば、余行の往生疑ひなし。もとより三心なくは、称名念仏とても往生せず。余行と念仏と、全く変ることなし。先達(せんだち)はかやうに隔つる心なく申して、機を勧め、宗を広む。その志、咎なし。末学在家の人なんど、たた言葉ばかりを聞きて、余行を謗るなるべし。 | また余行の往生許さぬ流の中にも、義門まちまちなり。ある人師(にんし)の義には、「余行の往生せぬと言ふは、三心を具せざる時のことなり。三心を具すれば、余行もみな念仏となりて、往生すべし。名号を唱ふとも、三心なくは往生すべからず」と言へり。この義ならば、余行の往生疑ひなし。もとより三心なくは、称名念仏とても往生せず。余行と念仏と、全く変ることなし。先達(せんだち)はかやうに隔つる心なく申して、機を勧め、宗を広む。その志、咎なし。末学在家の人なんど、たた言葉ばかりを聞きて、余行を謗るなるべし。 |
text/shaseki/ko_shaseki01b-10.txt · 最終更新: 2018/07/30 12:03 by Satoshi Nakagawa