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text:shaseki:ko_shaseki01b-09 [2018/07/21 11:49] – 作成 Satoshi Nakagawatext:shaseki:ko_shaseki01b-09 [2018/07/21 11:52] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa
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 またいはく、「禅の功は自ら見る。人の覚る無し。合是愁時亦不愁(まさにこれ愁ふる時もまた愁へざるべし)」。文意のいはく、夢の中のことは、喜も憂も心をとどむべきことなし。われらが覚と思ひつけたる世間のこと、みなこれ夢なり。生を悦び、死を憂へ、会を楽しみ、離を悲しむこと、これ夢と知らざる心なり。 またいはく、「禅の功は自ら見る。人の覚る無し。合是愁時亦不愁(まさにこれ愁ふる時もまた愁へざるべし)」。文意のいはく、夢の中のことは、喜も憂も心をとどむべきことなし。われらが覚と思ひつけたる世間のこと、みなこれ夢なり。生を悦び、死を憂へ、会を楽しみ、離を悲しむこと、これ夢と知らざる心なり。
  
-これらのことにすべて心動かずば、すなはち空門に入る人なり。口に言ふを禅とせず。心に諸念忘れて、寂静なるを禅と言ふべしとなり。荘子にいはく、「狗不以善吠為良。人不以善言為賢(狗、善く吠ゆるをもつて良とせず。人、善く言ふをもつて賢とせず。)」云々。されば、法門をよう言ふ人も、心に名利五欲の思ひ忘れずは、空門に遠し。梵(梵綱経)にいはく、「口便説空行在有中(口にはすなはち空を説けども、行は有の中に在り)」云々。+これらのことにすべて心動かずば、すなはち空門に入る人なり。口に言ふを禅とせず。心に諸念忘れて、寂静なるを禅と言ふべしとなり。荘子にいはく、「狗不以善吠為良。人不以善言為賢(狗、善く吠ゆるをもつて良とせず。人、善く言ふをもつて賢とせず。)」云々。されば、法門をよう言ふ人も、心に名利五欲の思ひ忘れずは、空門に遠し。梵((「梵網」は底本「梵綱」。梵網のこと。))にいはく、「口便説空行在有中(口にはすなはち空を説けども、行は有の中に在り)」云々。
  
 末代は、真実の智慧も道心もある人まれなれば、口には法を説けども、心には道を行ずることなし。されば、夢の中のことを、まこととのみ思ひて、執心深く、愛執あつし。唯識論にいはく、「未得真覚恒処夢中。故仏説為生死長夜(未だ真覚を得ず恒に処す。故に仏の説きて生死の長夜と為す)」と云々。慈恩大師((窺基))は、「有心外法輪廻生死、覚知一心生死永棄(心外の法有れば生死に輪廻し、一心を覚知すれば生死永く棄つ)」と釈し給へり。 末代は、真実の智慧も道心もある人まれなれば、口には法を説けども、心には道を行ずることなし。されば、夢の中のことを、まこととのみ思ひて、執心深く、愛執あつし。唯識論にいはく、「未得真覚恒処夢中。故仏説為生死長夜(未だ真覚を得ず恒に処す。故に仏の説きて生死の長夜と為す)」と云々。慈恩大師((窺基))は、「有心外法輪廻生死、覚知一心生死永棄(心外の法有れば生死に輪廻し、一心を覚知すれば生死永く棄つ)」と釈し給へり。
text/shaseki/ko_shaseki01b-09.txt · 最終更新: 2018/07/21 11:52 by Satoshi Nakagawa