撰集抄
巻9第9話(119) 三条北方御仏事
校訂本文
過ぎぬるころ、三条のおほきおとど1)、北の御方の第三年の御仏事いとなみ給ひしに、御導師は三論2)の明遍とかや聞こえ給ひし。
若学生と申し侍りしかば、心とむべき一節も聞かまほしくて、その庭にのぞみて侍りしに、人々、諷誦あまた読み上げらるる中に、御子実房3)と申し侍りしが、御年十一にて、童御料と申し侍りし御方の諷誦は、みづからあそばしたりけるなむめり。漢字に所々に大和文字をあそばし交ぜられ侍り。
その詞いはく、
母儀去りて後、年を数ふれば、三年(みとせ)に及び、日をつらぬれば、一千日になんなんとす。悲の涙、袂にとどめかねて、色の帯、すでにすすがれぬ4)。いづれの年か、歎き晴るることあらん。いづれの月にか、思ひおこたることあらん。真珠が母の陵の傍らに、旬年が間臥して雷をいとひ、照寂が永く父の同棺に入りし思ひに、あひかはらず5)といへども、一夜としても、かの苔の上に臥さず、片時も同棺にのぞむことなし。ただし、茂れるおどろの上に臥して、雷を歎きし真珠が6)涙、よも、無間の炎をは消やさじ。むなしく苔の下に入りて、ともに朽ちにし照寂も、死出の山路の伴とはならじ。獄卒の果てざる道には、膝をかがめて一人歎き、魔に呵嘖の言葉をば、わればかりにぞ聞こえらる。しかじ、はや歎きの心を改めて、ひとへに作善を励まん
と侍るを、導師、読み上げらるるにより、雨しづくと泣きさまたれ侍り。簾内・簾外、心あるも、心なきも、涙にくれふたがり侍り。
導師、ややしばらく経て、涙押しのごいて、ほの伝へ承はる。この御諷誦の施主は、御年十歳(いそぢ)余りとかや。いつしか内外の才智いまして、和漢の風儀に達し給へること、いかに三世の仏も、『あはれ』とみそなはし、亡魂も、『かなし』と思すらん」とのたまふに、「げにも」と思えて、涙を流し侍りき。
額に渭浜の波をたたみ、眉に7)商山の霜をたれて侍る人も、物の8)情を知る人は少なく、筆に物を言はするたぐひは、まれなんめるぞかしな。「栴檀は双葉より芳し、梅花はつぼめるに香あり」とは、かやうのことにて知られ侍り。
さても、その日の説法に、「六塵の境に心をとむな」と侍りしこと、心にいみじくしみて、今にいたるまでも、いたく境に思ひをとめ侍らぬなり。されば、般若9)などの多くの中に10)、万法空寂の旨を説かれて侍る。せんは、ただ六塵の境に着する思ひをやらんとにこそ。この明遍の説法、聞きしよりも貴く、内徳たけ、悟証実ありと見え侍りき。
そもそも、ついでをもつて、都の中を廻るに、没後の仏事をいとなむ家多し。鳥部山の煙、絶えせず。舟岡11)の死人、隙さらず。あはれなるかな、いづれの時にか、船岡・鳥部のほとりに骨をさらして、むなしき名のみを残さん。悲しきかな、いかなる時にか薪にうづまれて、晴れぬ雨の曇り初めけん雲の種(たね)ともならん。朝露、消えやすく、春の夜の夢、長きにあらず。刹那の歓楽、かへりて苦の縁となる。世の中に思ひを留めて、生死の無常を思はざる、口惜しきには侍らずや。
さても、「六塵の境に心を留めじ」と侍れども、思ひなれぬる名残の、なほしたはれて、眼を開けば、境界あてやかにて心動き、耳をそばだつれば、歌詠・音楽、品々にして、思ひをすすむ。これ、まことにかたきに似侍れども、万物は心の所変なり。心を離れて、顕色・音楽あることなし。顕色・音楽、心が所作にて、実あらずは、かれを執する心、また無かるべし。
しかあれば、いづれに思ひを残し、いづれにか心を12)留めむな。「衆罪は露として草むらごとに置くといへども、恵日はこれを消やすこと早し」とは、説法の理(ことはり)を思ひ開けばなり。誰も持てる恵日なれば、げにげにしき心になりはて、深きさきらをあらはして、六塵の境に思ひをとめずして、罪露を消やし給へ。
翻刻
過ぬる比三条のおうきおとと北の御方の第三年の 御仏事いとなみ給しに御導師は三輪の明遍とか や聞え給し若学生と申侍しかは心とむへき一ふし もきかまほしくて其庭に望て侍しに人々諷誦 あまた読上らるる中に御子実房と申し侍しか/k294r
御年十一にて童御料と申侍し御方の諷誦は 身つからあそはしたりけるなむめり漢字に処々 に大和文字をあそはしませられ侍り其詞云 母儀去て後年をかそふれは三とせに及ひ日をつら ぬれは一千日になんなんとす悲の涙袂にととめかねて 色の帯已にすすかれ又何の年か歎はるること あらん何の月にか思おこたることあらん真珠か母の 陵傍に旬年か間ふして雷を厭ひ照寂か永 父の同棺に入し思ひに相賛らすといへ共一夜とし ても彼苔の上にふさす片時も同棺に望事なし/k294l
但ししけれるおとろの上にふして雷を歎し□□□ 涙よも無間の炎をはきやさし空苔の下に入て 共に朽にし照寂もしての山路の伴とはならし獄 率のはてさる道にはひさをかかめてひとり歎き魔 に呵嘖の詞をは我はかりにそ聞らるしかしはや歎の 心を改て偏に作善をはけまんと侍を導師よみ あけらるるにより雨しつくと泣さまたれ侍り簾 内簾外心あるもこころなきも泪にくれふたかり侍り 導師やや且くへてなみたをしのこいてほの伝承は る此御諷誦の施主は御年一そちあまりとかや/k295r
いつしか内外の才智いまして和漢の風儀に達し 給へることいかに三よの仏も哀とみそなはし亡魂 も悲とおほすらんとの給に実にもと覚て泪を 流侍りき額に渭浜の浪をたたみ眉商山の 霜をたれて侍る人も内の情を智る人はすくなく 筆に物をいはするたくひは希なんめるそかしな 栴檀は二葉より薫し梅花はつほめるに 香ありとはかやうの事にてしられ侍りさても其 日の説法に六塵の境に心をとむなと侍し事 心にいみしくしみて今に至まてもいたく境に/k295l
思ひをとめ侍らぬ也されは般若等のおほくの中□万 法空寂の旨を説れて侍る詮はたた六塵の 境に着する思ひをやらんとにこそ此明遍の説法聞 しよりも貴く内徳たけ悟証実ありと見え侍 りき抑次を以て都の中を廻るに没後の仏事 をいとなむ家多し鳥部山の煙たえせす舟岡の 死人隙さらす哀哉何れのときにか船岡鳥部のほと りに骨をさらして空き名のみをのこさん悲哉 いかなる時にか薪にうつまれてはれぬ雨のく もりそめけん雲のたねともならん朝露消や/k296r
すく春の夜の夢長にあらす刹那の歓楽還て 苦の縁となる世中に思ひを留て生死の無常を 思はさる口惜には侍らすやさても六塵の境に 心をととめしと侍れ共思なれぬる名残のなをし たはれて眼を開けは境界あてやかにて心うこき 耳をそはたつれは哥詠音楽品々にして思ひをすす む是実にかたきに似侍れとも万物は心の所変 なり心をはなれて顕色音楽ある事なし顕色 音楽心か所作にて実非すは彼を執する心亦なかる へししかあれは何に思ひを残しいつれに□□を/k296l
ととめむな衆罪は露として草むらことにおく といへ共恵日はこれをきやすことはやしとは説 法の理を思ひ開けはなり誰ももてる恵日なれは けにけにしき心になりはて深きさきらをあらは して六塵の境に思ひをとめすして罪露を きやし給へ/k297r