撰集抄
巻9第8話(118) 江口遊女事
校訂本文
過ぎぬる長月二十日あまりのころ、江口といふ所を過ぎ侍りしに、家は南北の河岸にさしはさみ、心は旅人の行き来(き)の船を思ふ遊女のありさま、「いとあはれに、はかなきものかな」と見立てりし1)ほどに、冬を待ちえぬむら時雨の、冴え2)暮らし侍りしかば3)、けしかる賤(しづ)が伏せ屋に立ちより、晴れ間待つ間(ま)の宿(やど)を借り侍りしに、主(あるじ)の遊女、ゆる気色の見え4)侍らざりしかば、何となく、
世の中をいとふまでこそかたからめ仮の宿りを惜しむ君かな
と詠みて侍りしかば、主の遊女、うち笑ひて、
家を出づる5)人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ
と返して、急ぎ内に入れ侍りき。
「ただ時雨のほどの、しばしの宿とせん」とこそ思ひ侍りしに、この歌のおもしろさに、一夜の臥し所(ど)とし侍りき。
この主の遊女は、今は四十(よそぢ)余りにやなりぬらん、みめ、ことがら、さもあてに、やさしく侍りき。夜もすがら、何となくことども語りし中に、この遊女の言ふやう、「いとけなかりしより、かかる遊女となり侍りて、年ごろ、そのふるまひをし侍れども、いとしなく思えて侍り。『女はことに罪の深き』と承はるに、このふるまひさへし侍ること、げに前の世の宿習のほど思ひ知られ侍りて、うたてしく覚え侍しか。この二三年は、この心、いと深くなり侍りしうへ、年もたけ侍りぬれば、ふつにそのわざをし侍らぬなり。同じ野寺の鐘なれども、夕はものの悲しくて、そぞろに涙にくらされて侍り。『このかりそめの憂き世には、いつまでかあらんずらん』と、あぢきなく思え、暁には心の澄みて、別れを慕ふ鳥の音なんど、ことにあはれに侍り。しかあれば、夕べには、『今夜過ぎなば、いかにもならん』と思ひ、暁には、『この夜明けなば、さまを変へて思ひとらん』とのみ思ひ侍れども、年を経て、思ひなれにし世の中とて、雪山の鳥の心地して、今までつれなくてやみぬる悲さ」とて、しやくりもあへず泣くめり。
このこと聞くに、あはれにありがたく思へて、墨染の袖、しぼりかねて侍りき。夜明け侍りしかば、名残りは思え侍れど、再会を契りて別れ侍りぬ。
さて、帰る道すがら、貴く思えて、いくたびか涙を落しけん、今さら心を動かして、草木を見るにつけても、かきくらさるる心地し侍り。「狂言綺語の戯れ、讃仏乗の因」とは、これかとよ。「仮の宿をも惜しむ君かな」といふ腰折れを、われ、詠まざらましかば、この遊女、宿りを貸さざらまし。しからば、などて、かかかるいみじき人にも会ひ侍るべき。この君ゆゑに、われもいささかの心を、須臾のほど発(おこ)し侍りぬれば、無上菩提6)の種をも、いささか、などかきさざさるべきと、うれしく侍り。
さて、約束の月、たづねまかるべきよし、思ひ侍りしほどに、ある上人の都より来て、うちまぎれて、むなしくなりぬる本意なさに、便りの人を語りて、消息し侍りしに、かく申し送り侍りき。
かりそめの世には思ひを残すなと聞きし言の葉忘られもせず
と申しやりて侍りしに、便りに付けて、その返事侍りき。急ぎ開いて侍りしかば、よにもをかしき手にて、
忘れずとまづ聞くからに袖ぬれてわが身は厭ふ夢の世の中
と書きて、また奥に、「さまをこそ変へ侍りぬれ。しかはあれど、心はつれなくて」なんど書きて、またかく、
髪おろし衣の色は染めぬるになほつれなきは心なりけり
と書きて、たま侍りき。涙、そぞろにもろくて、袂に受けかねて侍りけり。さも、いみじかりける遊女にてぞ侍りける。
さやうの遊び人なむどは、「さもあらん人になじみ、愛せらればや」なんどこそ、思ふめる に、その心をもて離れて、一筋に後世に心をかけん、ありがたきに侍らずや。よも、おろおろの宿善にても侍らじ。世々に貯へ置きぬる戒行どもの、江口の水にうるほされぬる7)にこそ。歌さへおもしろくぞ侍る。
さてもまた、「宵には『この夜過ぎなば』と思ひ、暁には『明けなば』と涙を流す」と8)語り侍りし心の、つひにうち続きぬるにや、さま変へぬるは。
その後も、たづねまかりたく侍りしを、さま変へてのちは、江口にも住まずとやらむ、聞き侍りしかば、つひにむなしくて、やみ侍りき。「かの遊女の最後のありさま、何(なに)と侍るべき」と、かへすがへすゆかしく侍り。
宵暁に心の澄みけん、理(ことわり)にぞ侍る。何とあることやらむ。われらまでも、夕べはものの悲しくて、荻の葉にそよめき渡る秋風、嵐かよふとすれば、み山べは木の葉乱れて、もの思ふ時雨に迷ふ木の葉にも、袂を濡らすは、夕暮れの空なり。長松の暁、さびたる猿の声を聞き、胡鴈の連なれる音を聞き侍るには、そのこととなく心の澄みて、そぞろに涙のこぼるるぞとよ。
翻刻
過ぬる長月廿日あまりの比江口と云所を過侍し に家は南北の河岸にさしはさみ心は旅人のゆき きの船を思ふ遊女の有様いと哀にはかなきもの哉 と見てりし程に冬をまちえぬ村時雨のさてくら しましかはけしかるしつかふせやに立よりはれ間ま/k290r
つまのやとをかり侍りしにあるしの遊女ゆる気色 の見て侍らさりしかはなにとなく 世の中をいとふまてこそかたからめ かりのやとりをおしむ君かな と読て侍しかはあるしの遊女うちわらひて 家をいつる(世をいとふイ)人としきけはかりの宿に 心とむなとおもふはかりそ と返ていそき内に入れ侍りきたた時雨の程のしは しのやととせんとこそ思侍しに此哥の面白さに 一夜のふしととし侍りきこのあるしの遊女は今は/k290l
四そち余りにや成ぬらんみめことからさもあてにやさ しく侍りき夜もすから何となく事とも語りし 中に此遊女の云やういとけなかりしよりかかる遊女 と成侍りて年比そのふる舞をし侍れとも いとしなく覚て侍り女は殊罪の深きと承 はるに此振舞さへし侍事けに前の世の宿習の 程思智られ侍りてうたてしく覚侍しか 此二三年はこの心いと深くなり侍し上年もた け侍ぬれはふつにそのわさをし侍らぬ也同し 野寺の鐘なれ共夕は物の悲くてそそろに/k291r
泪にくらされて侍りこのかりそめのうき世には いつまてかあらんすらんとあちきなくおほえ暁に は心のすみてわかれをしたふ鳥の音なんと殊に あはれに侍りしかあれはゆふへには今夜す きなはいかにもならんと思ひ暁には此夜あけなは さまをかえて思とらんとのみ思侍れ共年を経て 思なれにし世の中とて雪山の鳥の心地して いままてつれなくてやみぬる悲さとてしやくり もあへす泣めり此こと聞にあはれに難有おほ へて墨染の袖しほりかねて侍りき夜明侍し/k291l
かは名残はおほへ侍れと再会を契りて 別侍ぬさて帰道すから貴く覚ていくたひか 泪をおとしけん今更心をうこかして草木を みるにつけてもかきくらさるる心地し侍り狂言 倚語の戯れ讃仏乗の因とは是かとよかり の宿をもおしむ君かなといふこしをれを我よ まさらましかは此遊女やとりをかささらまししからは なとてかかかるいみしき人にもあひ侍へき此君故に われも聊の心を須臾の程発し侍りぬれは無 菩提の種をもいささかなとかきさささるへきとう/k292r
れしく侍りさて約束の月尋まかるへきよし 思侍りし程に或上人の都より来て打まき れて空く成ぬる本意なさに便の人を語て 消息し侍りしにかく申送り侍りき かりそめの世には思をのこすなと ききしことの葉わすられもせす と申遺て侍りしにたよりに付てその返事 侍りきいそきひらいて侍しかはよにもおかしき手にて わすれすとまつきくからに袖ぬれて 我身はいとふ夢の世の中/k292l
と書て又おくにさまをこそ替侍りぬれしかは あれと心はつれなくてなんと書て又かく 髪おろし衣の色はそめぬるに なをつれなきは心成けり と書て又侍りき泪そそろにもろくて袂に うけかねて侍りけりさもいみしかりける遊女に てそ侍りける左様のあそひ人なむとはさもあ らん人になしみ愛せられはやなんとこそおもふめる に其の心をもてはなれて一筋に後世に心をかけん 有難きに侍らすやよもをろをろの宿善にても/k293r
侍らし世々にたくわへおきぬる戒行ともの江口の 水にこるをされぬるにこそ哥さへ面白くそ侍る 扨も又よひには此夜すきなはと思ひ暁にはあけ なはと泪を流すに語り侍し心のつゐにうち つつきぬるにやさまかへぬるは其後も尋まかりたく 侍しをさまかへて後は江口にもすますとやらむ 聞侍しかはつゐに空くてやみ侍りき彼遊女 の最後の有様なにと侍るへきと返々ゆかしく侍り 宵暁に心のすみけん理にそ侍る何とある事 やらむ我等まても夕へは物の悲くておきの葉/k293l
にそよめき渡る秋風あらしかよふとすれはみ山 へは木の葉乱てもの思時雨にまよふ木の葉にも 袂をぬらすは夕くれの空也長松の暁さひたる猿 の声を聞胡鴈のつらなれる音をきき侍には その事となく心のすみてそそろに泪のこほるるそとよ/k294r