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text:senjusho:m_senjusho09-03

撰集抄

巻9第3話(113) 安養尼事

校訂本文

恵心の僧都1)の妹に、安養の尼といふ人侍りけり。年ごろ、あさからず思ひける主(あるじ)におくれて、やがてさまかへ、小野といふ山里にこもり居て、地蔵菩薩を本尊として、明け暮れ行ひ給へり。

ある時、夜更くるまで、心を澄まして勤めうちし、「必ず、後生助け給へ」と祈り申されて、うち寝ね給ひ侍りける夢に、この地蔵菩薩おはして、「いかにも助けむずるぞ。それにつけても、勤むることをもの憂くすな」と仰せらるると思ひて夢覚め侍りけり。

そののちは、いよいよ心をおこして、むらなく勤め行ひ給へりけるしるしありて、最後臨終の夕べ、まさしく、紫雲空に聳(そび)き、天華交はり下りて、往生の素懐をとげ給へりける。かへすがへすも、いみじく侍り。

この尼、「われ病ひ付き侍らば、必ず渡りて、最後の智識となり給へ」と、恵心の僧都に契り申され侍りけるが、僧都、住山の間、にはかに病ひ出できて、この世限りと見え侍りければ、日ごろ言ひ約束のことに侍れば、僧都に、「かく」と聞こえけるに、「住山のをりふしにて、山より外へ出づること、かなふべからず。輿に助け乗せて、西坂本へおはし侍れ。後世のことも聞こえん」とてありければ、心地も消え入るやうに思え、身も例ならざれども、とかく助け乗せて、西坂本へおはしけるほどに、道にてつひにはかなくなり侍りぬ。

僧都待ちえて2)、急ぎ見給ふに、はやこと切れにけり。あさましとも、心憂しとも、いふはかりなし。

なほ、「もしや」と思え給ひて、修学院の勝算僧正3)の庵室に、死せる人をかき入れさせ、僧正に、「加持してあたへ給へ」とあれば、「おほきにかたきことに侍り」。さりながら、不動の呪をみて給ふ。僧都、また地蔵を念じ給へりける。数返、十返に満たざるに、尼、生き返り侍りて、語りけるは、「不動・地蔵の、わが二の手を引きて、冥途より返り給ひしに侍り」とぞ申されける。

そののち、六年(むとせ)を経て、思ひのごとく、僧都の教化にあづかりて、本意のままに往生し給ひてけり。

定業非業は知らず、すでに閻魔の庁庭にのぞみ侍る人の、生き返り侍るほどの験徳は、ありがたくは侍らずや。誰も、さるほどのいみじき人を、親しき方に持ちたらば、なにしにか、後世をもしそなはかすべきと思え侍れども、さらにかひなし。「さる智者・貴人を、兄にても4)、弟にても、持ちたらましかば、なんなんとあらん」なんど、案じいたるは、兎角の弓に亀毛の矢をかけ、空華の的(まと)を射んずるにたがはず。

また、わが身おろそかにて、深きさきら5)もなければ、ただ信心をおこして、ひたすらに仏の御名をも唱へ奉るべきに、ただもの憂くしてのみ明け暮れて、齢のいたづらと長けぬることの悲しさよ。さても、安養の尼のありさま、伝へ聞き侍るに、「いかに心も澄みておはしけん」と、かへすがへすうらやましく侍る。

おろおろ天台の止観をうかがふ6)に、「海のほとりに居て、寄り来る波に心を洗ひ、谷の深きに隠れて、峰の松風に思ひを澄ませ」と侍り。白雪(しらゆき)のよに7)降る道を踏み分けて、問ひ来る人も間遠なる、麻の衣に身をやつし、ある時は問ふかとすれ ば過ぎ行く村雨を窓に聞き、ある時は馴るるままに荒れ行く高嶺(たかね)の嵐を友としても8)、憂き世の無常を思ひ悟りて、しづかに念仏していまそかりけむ、「げに、この世より仏の種」と思えて、いみじくぞ侍る。

されば、章安大師9)の言葉かとよ、「所の幽閑10)、これ大なる智識なり」とは11)。心は水のごとし。器物(うつはもの)にしたがひて、澄み濁りの侍べきにや。あやしのわれらにいたるまでも、太山(みやま)の住居(すまひ)とて、なんとなく世に交はり侍りしそのかみには似ず、心も澄みて侍れば、「まことの智識にこそ」と思えて侍る。

み山おろしに夢覚めて、涙もよほす滝の音、げにあはれに侍る。

翻刻

恵心の僧都の妹に安養の尼といふ人侍りけり
年比あさからす思ひけるあるしにおくれてやかて/k276r
さまかへ小野と云山里に籠居て地蔵菩薩を本尊
として明暮行ひ給へり或時夜ふくるまて心を
澄て勤めうちし必す後生たすけ給へと祈
申されてうちいね給侍りける夢に此地蔵菩薩
おはしていかにも助けむするそそれに付ても勤む
ることを物うくすなと仰らるるとおもひて夢さ
め侍りけり其後はいよいよ心を発してむらなく
勤行給へりけるしるしありて最後臨終のゆふへ
正く紫雲空に聳き天華交はり下て
往生の素懐をとけ給へりける返々もいみしく/k276l
侍り此尼われ病付侍らは必らす渡て最後の智
識と成給へと恵心の僧都に契り申され侍りけ
るか僧都住山の間俄に病出きて此世限りと
見え侍りけれは日比いひ約束のことに侍れは僧都
にかくと聞けるに住山の折ふしにて山より外
へ出る事叶へからす輿に助け乗て西坂本へお
はし侍れ後世のことも聞えんとて有けれは心
地もきえ入やうにおほえ身も例ならされとも
とかく助乗て西坂本へおはしける程にみちにて
つゐにはかなく成侍ぬ僧都待にていそきみ給に/k277r
はや事切にけり浅猿とも心うしともいふ計なしなを
もしやとおほえ給て修学院の勝算僧正の
庵室に死せる人をかき入させ僧正に加持して与給へ
とあれは大にかたき事に侍りさりなから不動の呪を
みて給ふ僧都また地蔵を念し給へりける数返
十返にみたさるに尼いきかへり侍りて語りけるは
不動地蔵の我か二の手をひきて冥途より返り
給しに侍りとそ申されける其後六とせをへて
思ひのことく僧都の教化に預て本意のままに
往生し給てけり定業非業はしらす已に琰/k277l
魔庁庭に望侍人のいきかへり侍程の験徳はあり
難は侍らすや誰もさる程のいみしき人をしたし
き方にもちたらはなにしにか後世をもしそなはか
すへきと覚侍れ共更かいなしさる智者貴人を兄
にて弟にても持たらましかはなんなんとあらんなんと
案しいたるは兎角の弓に亀毛の矢をかけ空
華のまとをいんするにたかはす又我身をろそか
にて深きさきしもなけれはたた信心を起して
ひたすらに仏御名をもとなへ奉るへきにたた物
うくしてのみ明暮て齢のいたつらとたけぬる/k278r
事の悲さよ扨も安養の尼のありさま伝聞侍
にいかに心も澄ておはしけんと返々うらやましく
侍るをろをろ天台の止観を詞に海のほとりにゐ
てより来る浪に心をあらひ谷の深きにかくれ
て峯の松風に思ひをすませと侍りしら雪の
よわふる道をふみわけてとひくる人もまとをなる
麻の衣に身をやつし或時はとふかとすれ
は過行村雨をまとにきき或時はなるるままに
あれて行高ねの嵐をともとてもうき世の
無常を思ひ智りて閑に念仏していまそかり/k278l
けむけに此世より仏の種と覚ていみしくそ侍
るされは章安大師の詞かとよ所の怨(幽歟)閑これ大
なる智識なりせは心は水のことしうつは物に随て
すみにこりの侍へきにやあやしの我等にいたるまて
も太山のすまひとてなんとなく世に交り侍し
そのかみには似す心もすみて侍れは実の智識
に社と覚て侍るみ山下に夢覚てなみたも
よほす滝の音けに哀に侍る/k279r
1)
源信
2)
「待ちえて」は底本「待にて」。諸本により訂正。
3)
智観
4)
底本「も」なし。諸本により補う。
5)
「さきら」は底本「さきし」。諸本により訂正。
6)
「うかがふ」は底本「詞」。「伺」の誤写。諸本により訂正。
7)
「よに」は底本「よわ」。諸本により訂正。
8)
「としても」は底本「とても」。諸本により補う。
9)
隋の天台宗第四祖、灌頂。
10)
「幽」は底本「怨」で「幽歟」と傍注。諸本及び傍注に従う。
11)
「とは」は底本「せば」。諸本により訂正
text/senjusho/m_senjusho09-03.txt · 最終更新: 2022/03/13 17:02 by Satoshi Nakagawa