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text:senjusho:m_senjusho08-35

撰集抄

巻8第35話(110) ※標題無し

校訂本文

同じ宇治殿1)の御時、紀州那賀の郡ぬかふ田といふ所に、紀四郎奉成といふ農夫侍り。下れる際(きは)の者は、さしあたり朝夕の煙を立つるはからひのみにて、後世のこと、つゆ心にかけざんめるを、奉成、しかるべき先世の宿善や日を経て熟しけん、粉河観音を深く信じ奉りて、しづが山田を返すにも、観音の御名を唱へて、園の桑をこくにも、この菩薩に心をかけ奉りて、宝号おこたること侍らず。

しかあれども、病はのがれぬことにて、五十有余の春の暮れより、病の床に臥して、春暮れ夏過ぎて、九月ばかりになりにけり。日を経るままに、腹おどろおどろしくふくれて、苦しきこと、たとへていふべきかた侍らざりけり。

その時、奉成思ふやう、「われ、観音を頼み奉ることは、都に上りたりし時、

  『一人不成二世願。我堕虚妄罪過中、不還本覚捨大悲

とて、二世の悲願を救ひ給ふ。

  生老病死苦、以漸悉令滅

と説かれて、病をやめさせ給ふなり』

と、説法の侍りしを、聞きはさみて、『今よりは、心長く頼み奉る』と誓ひを発して、三十年の間、五百返の宝号、欠き奉ることなし。観音多くおはしませども、分きて粉河に月詣をすること、また、これ怠らず。されば、われ定業の病を受けて侍りとも、御誓ひ、まことあらば、いかでか今度の命を生け給はざるべき。たとひ、寿命限りありて、身まかるとも、代受苦の御心ましまさば、などかこれほどまで苦しみ侍るべき。すみやかに苦患を救ひましまして、行者の心を正念になし給へ」と、心に深く祈念し侍るほどに、その夜、夢に「粉河の観音なり」と名乗り給ひて、貴げなる僧のいまそかりて、「なんぢ申すところ、ことにいはれありと思し召して、薬を持ちて来2)たれり、早くこれを飲むべし」とて、小さく円(まろ)なる物を三つ賜はせければ、かしこまりて賜はりて、二つをば飲み入れ、一つをば取りはずして、傍らに落しぬ。求めむとするに、夢覚めてけり。

さばかり苦患ありて、腹の大きにいかめしかりけるをもへり、軽(かろ)く、凉しく、心地よきこと、たとふべきかたなし。傍らに臥したりける妻子を起して、「しかじか」と言ふに、大きに喜びて、取り落しけん一つの薬を求むるに、固く小さき蓮の実なり。香ばしきわざ、沈麝も物の数にあらず。これを錦の袋に縫ひくぐみて、守りにかけてけり。

さるほどに、七日を経て、「いかがならせ給へる」とて、開けて、拝み侍るに、この蓮の実、二つに分かれて、中より小さくありがたき青蓮花、生ひ出でたり。不思議に思えて、人々にこのよしを語るほどに、宇治殿、聞こし召されて、奉成を召されて、みづから御尋ね侍るに、始めよりの事、くはしく申し入れ侍るに、殿、聞こし召して、随喜の涙かきあへさせ給はず、「御3)結縁もあらまほしく、拝み奉らせ給ふべし」とて、簾中に召し入れられて、御覧ぜられて、「これをば、すみやかに得さすべし」とて、取り奉らせ給ひて、奉成には、「かの所に、一期過ぐべきほど、子々孫々せよ」とて、田を賜はせ給ひてけり。

さて、かの蓮花をば、平等院の宝蔵にこめさせ給ひけり。この奉成は、病癒ゆるのみにあらず、田を賜はりて、一期平らかに侍りければ、信仰いよいよ深しとぞ承はる。

あはれ、貴くぞ侍る。現世の得益、すでにあらたなる。後世、あに疑はんや。恵心の僧都4)の蓮はを得んこと、希奇に侍らじ。これは、たとへごとにはあらずや。さても、二つをば飲み、今一つをば残して、利益の名を広く天(あめ)の下にほどこしき。人々、信をひき、多くの縁を結ばせ給ひけん、ありがたくぞ思え侍る。

さても、「この奉成は、いづれの所にか生じて、観音の御あはれみを深く蒙らん」と、かへすがへすもゆかしく侍り。

翻刻

同宇治殿の御時紀州那賀の郡ぬかふ田と云所
に紀四郎奉成といふ農夫侍り下れるきは
の物はさしあたり朝夕の煙を立るはからい
のみにて後世のこと露心にかけさんめる
を奉成しかるへき先世の宿善や日を経て熟
しけん粉川観音を深く信し奉りてしつ/k264r
か山田をかへすにも観音の御名を唱て薗の桑
をこくにも此菩薩に心をかけ奉て宝号おこたる
こと侍らすしかあれとも病はのかれぬ事にて
五十有余の春のくれより病の床にふして春
くれ夏すきて九月はかりに成にけり日をふる
ままに腹をとろをとろしくふくれて苦しきこと
たとへて云へき方侍らさりけり其時奉成思や
う我観音をたのみ奉ることは都にのほりたり
し時一人不成二世願我堕虚妄罪過中不還
本覚捨大悲とて二世の悲願をすくひ給ふ生老/k264l
病死苦以漸悉令滅と説れて病をやめさせ
給なりと説法の侍りしをききはさみて今より
は心なかくたのみ奉と誓を発して三十年の間
五百返の宝号かきたてまつることなし観音
おほくおはしませともわきて粉川に月詣を
する事又これおこたらすされは我定業病を受
て侍りとも御誓実あらはいかてか今度の命
を生け給はさるへきたとひ寿命かきりあり
て身まかるとも代受苦の御心ましまさはな
とかこれほとまて苦しみ侍へき速に苦患を救/k265r
ましまして行者の心を正念になし給へと心に深く
祈念し侍る程に其夜夢に粉川の観音なりと
名のり給て貴けなる僧のいまそかりて汝申所
殊にいはれありと思食て薬を持て来結縁
もあらまほしくをかみ奉らせ給へしとて簾
中に召入られて御覧せられてこれをは速に
ゑさすへしとてとり奉らせ給て奉成には彼所
に一期すくへきほと子々孫々せよとて田を給はせ
給てけりさて彼蓮花をは平等院の宝蔵
にこめさせ給けり此奉成は病いゆるのみに/k265l
あらす田を給はりて一期たいらかに侍りけれは
信仰いよいよふかしとそ承はるあはれ貴くそ侍る
現世の得益すてにあらたなる後世あにうたかはん
や恵心の僧都の蓮はをゐんこと希奇に
侍らし是はたとへことには非すやさても二を
は飲今一をはのこして利益の名をひろく
あめの下にほとこしき人々信をひき多の
縁を結はせ給ひけん有かたくそ覚侍るさて
も此奉成は何れの所にか生して観音の御哀みを
ふかく蒙らんと返々もゆかしく侍り/k266r
1)
藤原頼通
2)
底本、ここから「随喜の涙かきあへさせ給はず、「御」まで本文を欠く。
3)
底本「たれり、早くこれを飲むべし」から、ここまで本文を欠く。諸本により補う。
4)
源信。前話参照
text/senjusho/m_senjusho08-35.txt · 最終更新: 2016/09/28 21:36 by Satoshi Nakagawa