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撰集抄

巻8第28話(103) 行尊(歌)

校訂本文

昔、一条院1)の御時、平等院の僧正行尊と申す人いまそかりけり。斗薮の行、年久しくなりて、聖跡を踏み給へること、いく度といふ数をわきまへ侍らず。

笙の岩屋にこもりて、香は禅心よりして、火なきに煙絶えず。花は合掌に開きて、春2)にもよらずして、三年(みとせ)を送れり。天のかご山3)にこもりて、無量の化仏を十方に現じ、香薫を庵(いほ)の内に満ちて、三年を過(すご)す。

行徳の一方にかぎり給はず。笙の岩屋の卒都婆に、

  草の庵(いほ)何露けしと思ひけん漏らぬ岩屋も袖は濡れけり

と筆をとめて、その跡、きりくち墨枯れて、末の世まで残り侍ぞ、あはれに侍る。ぬしは今はいづれの浄土にかいますらんに、手跡はひとり卒都婆の面に残りけるこそ思ひ入れ侍るに、あはれにかなしく、涙もところせくまでに思え侍れ。

遺弟にていまそかりし、桜井僧正行慶、かの岩屋にこもり給へりし時、師の僧正の歌の見えけるに、今さら昔も恋ひしく、その跡もしのばしく思ひ給ひければ、傍らに書き添へ給ひける、

  げに漏らぬにぞ袖も濡れける

とありしを見しに、「さも、ゆかしかりける人のありさまかな」と思え侍り。

かかるゆゆしき人の歌の傍らに、つたなき身にして、言葉も姿もたらはぬ4)大和言葉を書き添へらんこと、そしりも多かるべき上、その恐れも侍れども、ことの見過しがたふ侍りし中にも、結縁もあらまほしく覚えて、

  露漏らぬ岩屋も袖は濡れけりと聞かずはいかにあやしからまし

と書き添へて、まかり過ぎしこと、なほなほその恐れ侍り。

しかはあれども、「一つ蓮の露とも、今の歌の露はなれかし」と思ひ、草がくれ、なきあとまでも、われをそばむることなかれ。

翻刻

昔一条院の御時平等院の僧正行尊と申人いま
そかりけり斗薮の行年久しくなりて聖跡を
ふみ給へること幾度といふ数をわきまへ侍ら/k255r
す笙の岩屋に籠りて香は禅心よりして火なきに
煙たえす花は合掌に開てにもよらすして三と
せを送れり天のかこ山にこもりて無量の化仏を十方に
現し香薫をいほの内に満て三年をすこす行徳の
一方にかきり給はす笙の岩屋の卒都婆に
  草のいほ何露けしとおもひけん
  もらぬ岩屋も袖はぬれけり
と筆をとめて其跡きりくちすみかれて末の世
まてのこり侍そあはれに侍るぬしは今はいつれの
浄土にかいますらんに手跡はひとり卒都婆の/k255l
面にのこりけるこそ思入れ侍にあはれにかなしく
なみたもところせくまてに覚侍れ遺弟にて
いまそかりし桜井僧正行慶彼岩屋にこもり
給へりし時師の僧正の哥の見えけるに今更
昔も恋しく其跡もしのはしくおもひ給けれは
かたはらに書そへ給ける
  けにもらぬにそ袖もぬれける
とありしをみしにさもゆかしかりける人の
有さまかなと覚侍りかかるゆゆしき人の哥の
かたはらにつたなき身にして詞も姿もたかはぬ/k256r
大和こと葉を書そへらんことそしりも多かるへき
上その恐も侍れとも事のみすこしかたふ侍し
中にも結縁もあらまほしく覚て
  露もらぬ岩屋も袖はぬれけりと
  きかすはいかにあやしからまし
と書そへてまかりすきしことなをなを其恐侍り
しかはあれとも一つ蓮の露とも今の哥の露は
なれかしと思草かくれなき跡まても我をそは
むる事なかれさても平等院僧正の目驚きて/k256l
1)
一条天皇
2)
底本「春」なし。諸本により補入。
3)
天香具山
4)
「たらはぬ」は底本「たかはぬ」。諸本により訂正。
text/senjusho/m_senjusho08-28.txt · 最終更新: 2016/09/21 22:07 by Satoshi Nakagawa
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