撰集抄
巻7第13話(73) 鹿嶋明神事
校訂本文
治承のころ、常陸鹿島の明神1)に参り侍れば2)、御社は南向きに侍り。前は海、後ろは山に侍り。社、甍(いらか)を並べ、廻廊、軒をきしれり。潮だにさせば、御前の打ち板までは海になる。潮だにも引けば、砂にて三里に及べり。
南は海にて、際(きは)もなく侍れば、昼はみなれ棹さす3)船を見、夜は波に宿借る月を見き。北は山にて侍れば、杉むらおちかへり、鳴く子規(ほととぎす)の初音、いちはやく聞こえ、草むらに露をそゆる夜の鹿、暁叫ぶ猿の声、深山おろし、松の風4)、よにもの5)あはれに心すごく侍り。東西は野辺、色々の花は錦を覆へるに似たり。
さても、何よりもおもしろく侍りしは、御殿の上の桜の、七日を限る別れを告げて、庭を盛りとうつりて侍りしをりふし、潮満ちて、花、あそこに一むら、ここに一むら、渚々に入江入江にゆられありき侍し。
かねて、廻廊のうちにて、「入於御山思惟仏道」と貴き声にて読み侍りしが、やがて、読みさして、末ゆかしく思えりしに、巫女の皷打ちて、「思惟仏道の末をなほ聞かばや」と託宣侍りて、さまざまの事6)なんど侍しにこそ、「げに、神もおはしける」とは思えし。
その中に、「われ、去ぬる神護慶雲7)に、法相を守らんとて、三笠山に移りぬれど、この所をも捨てず、つねに守る」とぞ、御託宣は侍りし。
さても、潮の満つ時は、多くの鱗(いろくづ)、波にしたがひて、御前まで寄り、潮の引く時には、はるかに帰れば、日に三度、参り下向に似たり。されば、「結縁むなしからで、さだめて巨益にあづからん」と、あはれに侍り。
また、はるかに御社に引きのけて、御社侍り。いか川と申す眷属の神にしおはします。「天の下、もらさず守らん」と誓ひ給へり。
鶴、千里に飛ぶ、なほ地を離れず8)、鷲、雲にかける。いまだ天の外にあらざれば、いづれの鳥獣か、利益にもるる侍らん。かくのごとく、一子のごとくに思して、「われを救はん、かれを助けん」と思したる仏神、多くましませども、われら妄染の雲厚く覆ひて、心のはれぬほどに、仏神も利益のところのましまさぬに侍り。
あはれ、無下なりける心かな。惑障は対治のあるものを。さて、ゆるにて9)、昔の五戒を行く末なく、なりはてんことの心うさよ。いかにせん、いかにせん。
翻刻
治承の比常陸鹿嶋の明神に参侍れ御社は南 向に侍り前は海後は山に侍り社いらかをならへ 廻廊軒をきしれり塩たにさせは御前の打板/k220r
まては海になる塩たにも引けは砂にて三里に 及へり南は海にてきはもなく侍れは昼はみな れ棹さす棹(イヤ歟)さす船をみ夜は波に宿かる月 をみき北は山にて侍れは椙村にをちかへり鳴子 規のはつ音いちはやく聞え草むらに露をそ ゆる夜の鹿あかつきさけふさるの哀に心すこく 侍り東西は野辺色々の花は錦を覆へるに 似たりさても何よりも面白く侍りしは御殿の 上の桜の七日をかきる別をつけて庭をさかりと うつりて侍し折ふし塩みちて花あそこに一村/k220l
ここに一村渚々に入江々々にゆられありき侍し かねて廻廊のうちにて入於御山思惟仏道と貴 き声にてよみ侍しかやかてよみさして末ゆか しく思へりしに巫女の皷うちて思惟仏道の 末をなを聞はやと詫宣侍りて様々のなんと 侍しにこそけに神もおはしけるとは覚し 其中に我去ぬる神護慶雲に法相を守らん とて三笠山にうつりぬれと此所をも捨す常に 守るとそ御詫宣は侍しさても塩のみつときはお ほくの鱗波に随て御前まてより塩の引とき/k221r
には遥に帰れは日に三度参下向に似たりされ は結縁むなしからて定て巨益にあつからんと 哀に侍り又はるかに御社に引のけて御社侍り いか川と申眷属の神にしおはします天の下 もらさす守らんと誓給へり鶴千里に飛な を地を離れ鷲雲にかけるいまた天の外にあら されは何れの鳥獣か利益にもるる侍らん如此一 子のことくにおほして我をすくはん彼を助けん とおほしたる仏神おほくましませとも我等妄染 の雲厚く覆て心の晴ぬ程に仏神も利益之/k221l
処のましまさぬに侍りあはれ無下なりける心哉惑 障は対治のある物をさてゆる(ゆるさてイ)昔の五戒を行末 なく成はてん事の心うさよいかにせんいかにせん/k222r