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text:senjusho:m_senjusho07-10

撰集抄

巻7第10話(70) 吉野庵室

校訂本文

長承の末の年、出家の望みとげて、貴き所々をも巡礼し、面白き所をも見まゆかしく1)思えて、吉野山にさかのぼりて、三年(みとせ)を送り侍りき。

山のありさま、花の色、木のすがた、所のしづかなること、都にて思ひやりしにはなほまさりて、すごく侍りき。楢の葉2)までは、こちたき深山3)の嵐、尾花の末に弱り、桜は雪に咲きかはり行くさま、めづらかに侍り。上下の御前、安山宝塔の御ありさま、心なからんすら見過しがたく侍るべし。されば、この所は、心もとまりて思え侍りしままに、三年(みとせ)を過ごし侍りき。

ある年の弥生のころ、庵の前に桜の散り乱れて、よにおもしろくながめわたりて侍るに、年五十(いそぢ)にたけたる僧の、まことにつたなげなるが、片方(かたかた)の袂に米を包めりけるが、この花の下に寄り来て、うち休みて居たり。

「あら、むざんの者や。道心なんども侍らねど、世の過ぎがたさに、人の門にたたずみて、袖を広ぐるわざをし侍るにこそ」とうち思ひて、何となく高らかに念仏して侍るに、この僧の立ち出で帰りなむとするを、仏菩薩は生きとし生けるたぐひをあはれみ給へば、あれをとても、見過すべきにあらず。その上、同じく仏性をそなへる4)人なり、少しもそばむる心侍らじ」と思ひなして、「しばらく、花ながめ給へ」と言ひたるに、僧、「嬉しくものたまはせ侍り。ただし、

  咲かぬまもさてこそ過ぐれ山桜さのみや花のかげに暮らさむ

とこそ思え侍れ」とうち聞こえたるゆかしさに、「ただ人にはおはせざりける」と思ひて、

  散らぬまは5)花をのみ待つ旅人の咲けばなどてかながめざるらん

と返し侍りしかば、この人、心寄せげに思ひて、「われも、この山の奥、世を遁れ侍る者なり。おはして、住処(すみか)も見給へかし」とありしかば、やがていざなひつれて、見にまかりたれば、桜の四五本茂る下に、松をもちて上を葺き、そばにも立て回して、着たる帷のほかは、つゆ持ちたる物も侍らず。人里はるかにて、思ひ澄ませる庵ならむと見えて、いとうらやま しく、あらまほしき住処に侍り。

「さても、何としてか、後世の闇は、はるけぬべき」と尋ね侍りしかば、「三世不可得の観とこそ、思ひて侍れ」とぞ答へられ侍りし。「ただ、うちやりの乞食とこそ思ひ侍りつるに、かかる道心者にていまそかりけることよ」と、ありがたく思えて、「この峰に住まんほどは」と契りて帰り侍りにき。

ことのさま、まことに道心者とぞ見え侍りし。山深く住みて、三世不可得の悟りを開きておはしけん心の中、たとへなくぞ侍る。

翻刻

むる事をえすあはれ床敷かりける心かな長承の
末の年出家の望とけて貴き所々をも巡礼し
面白き所をも見まゆかしく覚て吉野山にさか
のほりて三とせを送り侍き山のありさま花の色
木のすかた所の閑なる事都にておもひやりしには/k215r
猶まさりてすこく侍りきなしのはまてはこちたき
太山の嵐を花のすゑによはり桜は雪にさきかはり
行さまめつらかに侍り上下の御前安山宝塔の御
有様心なからんすらみすこしかたく侍へしされは
此所は心もとまりて覚侍しままに三とせを過し
侍りきある年のやよひの比庵の前に桜の散み
たれてよにおもしろくなかめわたりて侍にと
し五十にたけたる僧の誠につたなけなるか片
かたの袂に米をつつめりけるかこの花の下により
来てうちやすみてゐたりあらむさんの者や/k215l
道心なんとも侍らねと世の過かたさに人の門にたた
すみて袖をひろくるわさをし侍るにこそとうち
思ひてなにとなく高らかに念仏して侍るに此
僧の立出かへりなむとするを仏菩薩はいきとし
いけるたくひをあはれみ給へはあれをとてもみ
すこすへきにあらす其上同く仏性を涌る人なり
すこしもそはむる心侍らしとおもひなして且く
花なかめ給へといひたるに僧うれしくもの給
はせ侍りたたし
  さかぬまもさてこそすくれ山さくら/k216r
  さのみや花のかけにくらさむ
とこそ覚侍れとうち聞えたるゆかしさに忠
人にはおはせさりけるとおもひて
  散ぬまは花をのみまつ旅人の
  さけはなとてかなかめさるらん
と返し侍しかは此人心よせけにおもひて我も此
山のおく世をのかれ侍る者なりおはしてすみかも
見給へかしと有しかはやかていさなひつれて
みにまかりたれは桜の四五本しける下に松をも
ちて上をふきそはにもたてまはして着たる/k216l
帷の外は露もちたる物も侍らす人里遥にて
おもひすませる庵ならむとみえていとうらやま
しく有まほしき住家に侍りさても何として
か後世のやみははるけぬへきと尋侍しかは三世不
可得の観とこそ思ひて侍れとそ答られ侍し
たたうちやりの乞食とこそおもひ侍りつるに
かかる道心者にていまそかりける事よとあり
かたく覚て此峰にすまん程はと契て帰り
侍りにき事の様まことに道心者とそ見え侍し
山ふかくすみて三世不可得の悟を開ておはしけん/k207r
心中たとへなくそ侍る/k207l
1)
「見まほしく」は底本「見まゆかしく」。諸本により訂正。
2)
「楢の葉」は底本「なしのは」。諸本により訂正。
3)
底本「太山」。諸本により訂正。
4)
「そなへる」は底本「涌る」。諸本により訂正。
5)
諸本「さかぬまは(咲かぬまは)」
text/senjusho/m_senjusho07-10.txt · 最終更新: 2016/08/20 13:32 by Satoshi Nakagawa