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text:senjusho:m_senjusho06-04

撰集抄

巻6第4話(52) 西山上人事(并西住死去事歌)

校訂本文

過ぎぬる八月の始めつかた、西山の西住聖人とともなひて、難波のわたりを過ぎ侍りしに、をりふし日ごとにうららかにて、風も立ち侍らねば、釣舟波に浮びて、木の葉のごとくに見ゆ。

「いかに多くの魚釣るらん。あら無慙1)や。いざや、この舟に乗りて、かの魚のために念仏して、後世とはん」と言へば、「げにしかるべし」とて、遠浅はるかに歩み寄りて、「舟に乗せ給へ」と言ふ。「これは釣舟にて、外へ行くべきにあらず。乗り給ひて、何の用か侍らん」といふ。あながちに言ひて、乗り侍り。また、さて、魚のためにひそかに念仏して、後世をとぶらひ侍りき。

かしこ、ここの浦に寄りて、釣りするを見侍しかば、何となく、

  難波人いかなる江にか朽ち果てん

と、うちすさみ侍るを、この西住聖人、「付けん」とて、顔杖つきて、うちうめきけるに、釣りする翁の、ことのほかに年たけたるが、とりあへず、

  あふこと波に身を沈めつつ

と付けたるに、めづらかに思えて、「舟にかしこくしひて乗り侍りて、かかる思えぬこと聞きぬる嬉しさよ」と思ふこと、たとへんかたなし。

この翁も、今はひたすら釣りをやめて、連歌に心を入れ侍り。翁の句、おもしろく侍りしかば、また思ひよりしは、

  舟のうち波の下にぞ老ひにける

と言ひたるに、また、うち案じて、

  海士(あま)のしわざもいとまなの世や

と詠じ侍りき。

互に詠じ侍りしほどに、日も西の山の端にかたぶきぬれば、海士(あま)の苫屋(とまや)に漕ぎ戻して、今はいづちへも行くべきよし、翁にいとまを乞ひ侍りしかば、「暮れぬ」とあながちにとどめしかば、かの翁の住処(すみか)に宿りて、昔今の物語し侍りき。

翁の言ふやう、「われは山蔭の中納言2)とかや申し侍りける人の末(すゑ)に侍りけり。乳にてありし人は、東山のほとりに住みて侍りけるが、世の中しわびて、この島に落ち留りて、浦人の腹にわれを生ませて侍りける。われ、三つと申しける年、父母ともにはかなくなり侍りき。その後は、母方のうばなりし人にあひかかりて侍りしが、十二といふに、またかれにもおくれて侍しかば、何とて今さら世の中を経(ふ)べきとも思えで侍しかども、魚を引きて命を継ぐに侍り。憂き世の中の住み憂さに、『髪おろして、いかならん所にも侍らばや』と思ひ侍るも、さすがに捨てえで、『ただ、身一つを助けん』とて、多くの物の命を断つことの心憂さ。今も髻(もとどり)切らん3)と思ひ侍ること、一日に必ず二度三度は思ひ出でて、涙のこぼるるなり。そのをりしも、父の具足の中に、何となき歌ども書き置き侍るを見て、心をなぐさむるに侍り。妻子といふものもなくて、すでに五十年(いそぢ)4)あまりの年を送り侍りき。おのおののありさまを見奉るに、ことにうらやましく侍り。我もともなひ奉らん」とて、やがて手づから髻切りて、わが年ごろ5)の住処をば、日ごろ親しかりける人になん取らせて、いざなひつれて、行住と名付けて、むらなき後世者にて侍りき。

そののち、都に上(のぼ)りて、西山の麓(ふもと)に庵(いほり)結びて、行ひ侍りけり。西山の聖人と聞き侍りしは、この人のことにて侍りき。ゆゆしく行ひなりて、聖人と仰がれ給へり。

まことには、その品(しな)をいはば、下れる人に侍らねども、海士の苫屋に生れて、寝(い)ねもせで潮(うしほ)を汲みてこれを焼き、海松布(みるめ)を刈りて身を助け、網を引きて命を生きて、五旬の齢(よはひ)を経にける人の、にはかに発心し侍る、いとありがたきことには侍らずや。

年経て都にまかり上り侍しついでに、かの庵(いほり)にたづね行きて侍れば、山かげの清水清く流れて、前は野のはるばるとあるに、四壁も侍らで、蘭荊には野干臥しどをしめ、松葉には梟(ふくろふ)鳴ける所に、虫の音を6)友とし7)、鹿を親しみ契り侍り。

庵うつくしく結びて、座禅の床にしづまり給へり。見るに貴く侍り。かの聖の申されしは、「その御故に、かかる身となり、現世・後世、心のままにしおほせ8)侍れば、かへすがへすも嬉しく侍り。この恩をば、いかでか報じ侍らざらんなれば、いそぎ得脱し侍りてとこそ思へ」とぞ、のたまはせし。

この聖も、いとけなかりけるより、無常を心にかけ給へりとぞ承はる。弟子にてありける僧の、「なにごとか、後世のためには良く侍る」と問ひ奉りけるに、「心をのどめて、無常を観ぜよ」とこそ、のたまはせつれ。

翻刻

過ぬる八月のはしめつかた西山の西住聖人と伴
て難波の渡を過き侍しに折ふし日ことにう
ららかにて風もたち侍らねは釣ふね浪に
うかひて木のはのことくに見ゆいかに多くの魚つ
るらんあら無誓やいさや此舟にのりて彼魚/k164r
の為に念仏して後世とはんといへはけに然へしとて
遠あさ遥に歩みよりて舟にのせ給へといふ是は釣
舟にて外へ行へきにあらす乗給ひて何の用か侍
らんといふ強にいひて乗侍り又さて魚のために窃
に念仏して後世を訪侍りきかしこここの浦によ
りて釣するを見侍しかはなにとなく
  難波人いかなる江にかくちはてん
とうちすさみ侍るを此西住聖人つけんとて
かほ杖つきてうちうめきけるに釣する翁の
ことの外にとしたけたるかとりあへす/k164l
  あふことなみに身をしつめつつ
とつけたるにめつらかに覚て舟にかしこくしひて
乗侍りてかかるおほえぬ事聞ぬる嬉しさ
よとおもふ事喩へんかたなし此翁もいまはひた
すら釣をやめて連哥に心を入侍り翁の句おもし
ろく侍しかは又おもひよりしは
  舟のうち浪のしたにそおひにける
といひたるに又うちあんして
  あまのしわさもいとまなの世や
と詠し侍りき互に詠し侍し程に日も西の/k165r
山のはにかたふきぬれはあまのとまやにこき
もとしていまはいつちへも行へきよし翁
にいとまをこひ侍しかは暮ぬとあなかちにとと
めしかは彼翁のすみ家にやとりて昔今の
物語し侍き翁の云様我は山影の中納言
とかや申し侍ける人のすゑに侍けり父にてありし
人は東山の辺にすみて侍けるか世中しわ
ひて此島に落留て浦人の腹に我をうませ
て侍ける我三と申ける年父母共にはか
なくなり侍き其後は母方のうはなりし/k165l
人に相かかりて侍しか十二といふに又彼にもを
くれて侍しかは何とて今更世中をふへき共
おほえて侍しか共魚をひきて命をつくに
侍りうき世中のすみうさにかみをろして
いかならん所にも侍らはやと思侍るもさすか
に捨えてたた身一を助けんとておほくの物の
命をたつ事の心うさ今ももととりきるん
と思ひ侍る事一日に必二度三とはおもひ
出て涙のこほるるなりそのおりしも父の
具足の中に何となき哥ともかきをき/k166r
侍るを見て心をなくさむるに侍り妻子といふ
物もなくてすてに五とせあまりの年を送り
侍りき各々の有様を見奉るに殊にうらや
ましく侍り我もともなひ奉らんとて軈て
手つからもととりきりて我か年のすみ家をは日比
したしかりける人になんとらせていさなひつれて行
住と名付てむらなき後世者にて侍りき其後
都にのほりて西山のふもとにいほり結て行ひ侍
けり西山聖人と聞侍しは此人の事にて侍き
ゆゆしく行ひなりて聖人とあおかれ給へり/k166l
実には其しなをいはは下れる人に侍らね共海士の
とまやに生れていねもせてうしほをくみて
是を焼みるめをかりて身を助け網を引て命
をいきて五旬のよはひをへにける人の俄に発心
し侍るいとありかたき事には侍らすや年へ
て都にまかり上侍し次に彼いほりに尋行て
侍は山かけの清水きよくなかれて前は野の
はるはるとあるに四壁も侍らて蘭荊には野干
ふしとをしめ松葉には梟なける所に虫の音と
ともし鹿をしたしみ契り侍り庵うつくしく/k167r
結ひて座禅の床にしつまり給へり見るに
貴く侍り彼聖の申されしはその御故にかか
る身となり現世後世心のままにしほせ侍は
返々もうれしく侍り此恩をは争か報し
侍らさらんなれはいそき得脱し侍りてと
こそおもへとそのたまはせし此聖もいとけなかり
けるより無常を心にかけ給へりとそ承はる
弟子にて有ける僧の何事か後世の為には
よく侍ととひ奉りけるに心をのとめて無
常を観せよとこその給はせつれ/k167l
1)
「無慙」は底本「無誓」。諸本により訂正。
2)
藤原山蔭
3)
「切らん」は底本「きるん」。諸本により訂正
4)
「五十年」は底本「五とせ」。諸本により訂正
5)
底本「ごろ」なし。諸本により補入。
6)
「音を」は底本「音と」。諸本により訂正。
7)
「友とし」は底本「ともし」。諸本により訂正
8)
「しおほせ」は底本「しほせ」。諸本により補入。
text/senjusho/m_senjusho06-04.txt · 最終更新: 2016/07/22 20:50 by Satoshi Nakagawa