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撰集抄

巻5第11話(44) 江口尼事

校訂本文

治承二年長月のころ、ある聖とともなひて、西の国へおもむきしに、さしていづくともなきままに、日の傾(かたぶ)くにも急がずして、江口桂本などいふ遊女が住処(すみか)見めぐれば、家は南北の岸さしはさみて、心は旅人のしばしの情(なさけ)を思ふやう、さもはかなきわざにて、さてもむなしくこの世を去りて、来世はいかならん。

これも前世1)の遊女にて、あるべき宿業の侍りけるやらん。「つゆの身の、しばしのほどをわたらむ」とて、仏の大きにいましめ給へるわざをするかな。わが身一つの罪は、せめていかがせむ、多くの人をさへ引き損ぜんこと、いとどうたてかるべきには侍らずや。

しかあれども、かの遊女の中に、ただ往生をとげ、浦人の、物の命を断つ者の中に、終りいみじき侍り。こは、されば、いかなることぞや。前世の戒行によるべくは、何とてか今生にかかるうたてき振舞ひをすべきや。また、この世のつとめによるべくは、あにかれら往生をとげむや。

これをもて、しづかに思ふに、「ただ心によるべきにや。『つゆ命をつがん』とての、はかりごと侍れば、心にもあらず、これに交はり、かれにともなへども、これに心を移さず、かれに心をしめで、常に後の世のことを思はん人は、口に悪き言葉を吐き、手に悪き振舞ひ侍れども、心うるはしく侍らむには、さらなりけるにや侍らん」と、ある聖とうち語りて、その里を過ぎなんとするに、冬を待ちえず、村時雨の激しくて、人の門に立ちやすらひて、内を見入れ侍るに、あるじの尼の、時雨の漏りけるをわびて、板を一つひちさげて、あちこち走り歩(あり)きしかば、何となく、かく。

  賤(しづ)が伏せ屋を葺きにわづらふ

とうちすさみたるに、この尼、さばかりものさはがしく走りありつるが、何とてか聞きけむ、板を投げ捨て、

  月はもれ時雨たまれと思ふには

と付け侍りき。

さも優に思えて、見すぐしがたかりしかば、かの庵(いほり)に一夜泊まりて、連歌などし侍りて、暁がたに、つれたる僧、かく、

  心澄まれぬ柴の庵(いほ)かな

と付け侍りたるに、あるじ、また、

  都のみ思ふ方とはいそがれて

と付け侍りしことの、げに胸をこがして思え侍りき。

六十余州さすらへて、多くの人に見なれしかども、これほどの者にて、かくまで情けばみたる者は侍らざりき。「あはれ、男(をのこ)にしあらば、とかくこしらへて、いさなひ連れて、飢ゑをなぐさむる友にもしてなん」と、いとどなつかしくぞ侍りし。

このつれの2)聖は、立ち出づる道すがら、「さも恋ひしき江口の尼かな」とぞ侍りし。

翻刻

治承二年長月の比或聖とともなひて西
の国へ趣しにさしていつく共なきままに日の/k134r
かたふくにもいそかすして江口桂本なといふ遊女か
すみか見めくれは家は南北の岸さしはさみて
心は旅人のしはしのなさけを思ふ様さもはかな
きわさにて扨もむなしくこの世を去て来世は
いかならん是も則世の遊女にて有へき宿業
の侍りけるやらん露の身のしはしの程をわた
らむとて仏の大にいましめ給へるわさをす
る哉我身一の罪はせめていかかせむ多の人を
さへ引損せん事いととうたてかるへきには侍ら
すやしかあれ共かの遊女の中にたた往生を/k134l
とけ浦人の物の命を断ものの中に終いみしき
侍りこはされはいかなる事そや前世の戒行による
へくはなにとてか今生にかかるうたてき振舞
をすへきや又此世のつとめによるへくはあに彼等
往生をとけむや是をもて閑に思ふに唯心に
よるへきにや露命をつかんとての謀事侍れは
心にもあらす是に交り彼にともなへ共是に
心を移さす彼に心をしめて常に後の世
の事を思はん人は口に悪きこと葉をはき
手にわろき振舞侍れ共心うるはしく侍/k135r
らむにはさら成けるにや侍らんと或聖と打
語て其里を過なんとするに冬を待えす
村時雨のはけしくて人の門に立やすらひ
て内を見入侍にあるしの尼の時雨のもり
けるをわひていたを一ひちさけてあちこち走
ありきしかは無何かく
  しつかふせやをふきにわつらふ
とうちすさみたるに此尼さはかり物さはかしく
走りありつるか何とてか聞けむ板をなけ
捨て/k135l
  月はもれ時雨たまれと思ふには
と付侍りきさも優に覚て見すくしかた
かりしかは彼のいほりに一夜とまりて連哥なと
し侍りて暁かたにつれたる僧かく
  心すまれぬ柴のいほかな
と付侍りたるにあるし又
  都のみ思ふ方とはいそかれて
と付侍し事のけに胸をこかして覚侍りき
六十余州さすらへて多の人に見なれしか共是
程の物にてかくまてなさけはみたる物は侍ら/k136r
さりき哀をのこにしあらはとかくこしらへてい
さなゐつれてうへをなくさむるともにもして
なんといととなつかしくそ侍りしこのつねの
聖は立出る道すからさも恋しき江口の尼
かなとそ侍りし/k136l
1)
底本「則世」。諸本により訂正。
2)
「つれの」は底本「つねの」。諸本により訂正
text/senjusho/m_senjusho05-11.txt · 最終更新: 2016/06/29 23:38 by Satoshi Nakagawa
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