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撰集抄

巻5第10話(43) 江州男発心(別愛子)

校訂本文

近ごろ、近江国に男侍りき。財禄豊かにして、朝には霊沢のうまき味わひを調へ、夕には神嶺のよきたぐひを尽して、あへて1)乏(とも)しきこと侍らざりき。

しかあるに、最愛の子なん侍りけるが、病に侵されて、医家・薬を尽し、陰陽術を極めしかども、つゆしるしなくて、つひにはかなくなりにき。父母、悲しぶこと理(ことはり)に過ぎたり。さこそは侍りけめ。

かくて五旬やうやく過ぎて、この父思ふやう、「あはれ、情なかりけるは生死かな。そこばくの宝2)、さらに身をささゆるものには侍らざりけり。しかじ、われ仏道に入りなむ」と思ひて、妻にいとまを乞ひ、やがて髻(もとどり)切りて、いづちともなく迷ひ出でにけり。

深山に入る時は、木の葉のめぐみ散るにつけて無常の観をなし、浦のほとりを過ぐる時は、生死の海の速きことを思へり。かくて、はるかに本国を離れて、讃岐国といふ所にて、西に向ひ、掌を合はせて、往生し侍りけり。

さも、うらやましかりける心かな。まづ、何よりも、そこばくの宝3)をむさぼる心侍らで、かへりてこれをあたとして、浮世を離るるなかだちとし侍りけむ、ありがたくは侍らずや。

まことに、無常といふことは、至極深甚の法にもあらざれば、誰か知らざる、芭蕉の破れやすく、蜉蝣のあだなるとは。しかあれど、おろかに知りて、これを知らず。「さだめなき世」とは思ひながら、愚痴の妄見の深くおこりて、厭はざるに侍り。あはれ、冥官の呵責をきかん時は、悔しかるべきものを。はやく、誰々も憂き世を厭ひ給ねとなり4)

さても、仙洞忠勤のそのかみは、ひとへに六義の風情をもてあそびて、月の秋は、広沢の池のほとりにたたずみて、波に沈まる月をも見、小野の篠原にいたりては、露のやどりのしげきかげをも詠(なが)めて、花の春は、吉野・初瀬の霞とともにそびきて、明し暮し侍りき。

かくても、わが住処をしめおきて、妻子をあはれみて、すべて世のはかなきことを知らざりき。あにはかりきや、かかる乞食修行の身となることは。今は残別哀傷の風情を詠じても、詮はただ心に帰りて、法を悟るたよりども侍れば、かへすがへすうれしく侍り。

翻刻

近比近江国に男侍りき財録ゆたかにして朝
には霊沢のうまき味をととのへ夕には神
嶺のよき類をつくして噉ともしき事侍ら
さりきしか有に最愛の子なん侍りけるか
病におかされて医家薬を尽し陰陽術
を極しかとも露しるしなくてつゐにはかなく
成にき父母かなしふこと理に過たりさこそは侍り
けめかくて五旬漸すきて此父思ふやう哀情
なかりけるは生死かな若干の室さらに身をさ
さゆる物には侍らさりけりしかし我仏道に/k132l
入なむと思て妻にいとまをこひやかてもとと
り切ていつち共なく迷出にけり深山に入時は木
葉のめくみ散に付て無常の観をなし浦の
ほとりをすくる時は生死海のはやきことを思
へりかくて遥に本国を離て讃岐国といふ所
にて西に向ひ掌を合て往生し侍りけりさも
浦山しかりける心哉先何よりも若干の室を
むさほる心侍らてかへりてこれをあたとして
浮世を離るるなかたちとし侍りけむ有難くは
侍らすや実に無常といふ事は至極深甚の/k133r
法にもあらされは誰かしらさる芭蕉の破易蜉
蝣のあたなるとはしかあれとおろかにしりてこ
れを不智さためなき世とは思ひなから愚痴の妄
見の深くおこりて厭はさるに侍り哀冥
官の呵責をきかん時はくやしかるへき物をはや
く誰々もうき世をいとひ給ねとなるさても
仙洞忠勤のそのかみは偏に六義の風情を
翫て月の秋は広沢の池のほとりにた
たすみて浪にしつめる月をも見小野のし
の原にいたりては露のやとりのしけきかけをも/k133l
詠て華の春は吉野初瀬のかすみとともに
そひきて明し暮し侍りきかくても我すみ
家をしめをきて妻子をあはれみてすへて
世のはかなき事を智らさりきあにはかりきや
かかる乞食修行の身となる事は今は残
別哀傷の風情を詠しても詮は唯心に
帰て法をさとるたより共侍れは返々うれ
しく侍り/k134r
1)
「あへて」は底本「噉」。「敢」の誤写。諸本により訂正。
2) , 3)
底本「室」。諸本により訂正。
4)
「なり」は底本「なる」。諸本により訂正
text/senjusho/m_senjusho05-10.txt · 最終更新: 2016/06/28 18:45 by Satoshi Nakagawa
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