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text:senjusho:m_senjusho05-07

撰集抄

巻5第7話(40) 西山僧事

校訂本文

近ごろ、西山の麓に、形のごとくの庵(いほり)結びて、ただ独り居たる僧侍り。身にまとふ麻の衣のほかは、本尊・持経よりほかは持たるものなければ、夢にも人の主に知られで、おかすことなし。法文を知れるよしを示さざれば、おのづからたづねけるわざもなく、いづくの人と知られねば、語らひ参るたぐひもなし。「いかにしてかは、つゆの命1)をもささへ2)けむ」と、いとどおぼつかなくて侍り。

このこと、「世の中に、かかる僧侍り」と、沙汰し侍りけるを、徳大寺の大臣3)の、「いでや、いかなる僧ぞ。召せ」とて召さるるに、御返事をだに申されざりければ、御使、あやなく思えて、このよしを申すに、「いかさまにもやうあり。ただ召して参れ」とて、重ねて人を遣はされけるに、この住処(すみか)をば引き立てて、跡形なくぞなりにける。

さても、戸の内を開きて見れば、そばの板に4)、かく、

  すぎ行きしかたも悔(くや)しし柴の庵(いほ)わが住処(すみか)とてなに手折(たを)りけむ

と書き付けて、跡形なく見えず。

この歌の心をおろおろ心得るに、この聖は、庵(いほ)を「わがため」とて手折りけむを、悔ゆるなるべし。「すべて、なにも持たざるに、よしなきかりそめの宿(やど)を結び置きて、わが身をここに置くゆゑに、心にもあらぬことを聞くことのむつかしさよ」と詠むにや。この人、いかに心の澄みていまそかりけむ。

何もなくは、何とてか、つゆばかりの執もとまるべき。山深く住みて、心に5)執だにも侍らずは、何とてか澄まざるべき。心の乱るは、妻子珠宝のためなり。これを見ては貪し、かれを見ては瞋恨すれば、心やや乱れて、まことの悟りはおこらぬなるとかや。

それに、わが身のほかには物をも持たで6)、わづかの住処をさへ悔やしむほどの心ばせ、げに、さぞいさぎよかりけむ。げにげにうらやましくぞ侍る。

さても、この人は、よもまた柴の庵(いほり)をも結びていませじ。「いづれの山の峰、いかなる野のほとりにやいまして、本意のごとくおはしけん」と、過ぎしかた、いとゆかしくぞ侍る。あはれ、近きほどのことにて侍らば、さすか世の中は天よりほかの下はあらじなれば、広くたづねて、「いささかの縁をも結びなん」と思えてこそ。

翻刻

近来西山の麓に如形のいほり結て唯独
居たる僧侍り身にまとふあさの衣の外は本
尊持経より外はもたる物なけれは夢にも人の主
にしられておかす事なし法文をしれるよしを示
さされはをのつから尋けるわさもなくいつくの
人としられねは語ひ参る類もなしいかにしてかは/k125r
露の今明をもきへけむといととおほつかなくて
侍り此事世中にかかる僧侍りと沙汰し侍
りけるを徳大寺の大臣のいてやいかなる僧そ
召とてめさるるに御返事をたに申されさりけ
れは御使あやなく覚て此由を申にいかさま
にも様ありたた召てまいれとて重て人を遣
されけるにこのすみかをはひきたてて跡形なく
そ成にけるさてもとの内をひらきてみれはそ
はのいたくかく
  すき行し方もくやしししはの庵/k125l
  わかすみかとてなにたをりけむ
と書付てあとかたなく見えす此哥の心をおろ
おろ心得るに此聖はいほを我為とてたをりけむを
くゆる成へしすへてなにももたさるによしな
きかり初のやとを結置て我身を爰にをく故
に心にもあらぬ事を聞ことのむつかしさ
よと読にや此人いかに心のすみていまそかり
けむ何もなくは何とてか露はかりの執たにも侍ら
すはなにとてかすまさるへき心のみたるは妻
子珠宝のため也是をみては貪し彼をみては/k126r
瞋恨すれは心やや乱てまことのさとりはおこら
ぬなるとかやそれに我身の外には物をももたえ
て僅のすみかをさへくやしむ程の心はせけにさそ
いさきよかりけむけにけにうら山しくそ侍る
扨もこの人はよも又しはのいほりをもむすひて
いませし何の山峰いかなる野のほとりにやい
ましてほゐのことくをはしけんとすきし
かたいとゆかしくそ侍るあはれちかき程の事
にて侍らはさすか世の中は天より外のしたは
あらしなれは広尋て聊の縁をもむすひなん/k126l
と覚てこそ/k127r
1)
「命」は底本「今明」。諸本により訂正。
2)
「ささへ」は、底本「きへ」。諸本により訂正。「支」を仮名に誤ったもの。
3)
藤原実能
4)
「板に」は底本「いたく」。諸本により訂正。
5)
「執もとまるべき」から「心に」まで、底本なし。諸本により補入。
6)
「持たで」は底本「もたえて」。諸本により訂正。
text/senjusho/m_senjusho05-07.txt · 最終更新: 2016/06/21 19:30 by Satoshi Nakagawa