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text:senjusho:m_senjusho04-02 [2016/06/04 14:50] – 作成 Satoshi Nakagawatext:senjusho:m_senjusho04-02 [2016/06/04 14:53] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa
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 ===== 校訂本文 ===== ===== 校訂本文 =====
  
-近ごろ、志賀の中将頼実といふ人いまそかりける。飾りおろし給ひてのちは、今橋の僧 +近ごろ、志賀の中将頼実といふ人いまそかりける。飾りおろし給ひてのちは、今橋の僧正良縁となん聞こえ給へりしは。
-正良縁となん聞こえ給へりしは。+
  
-富家の大殿((藤原忠実))の法性寺に住ませ給ひける年の、長月ばかりに、かの御所の前に、めづらかなる嬰児(みどりご)を、紅梅の衣(きぬ)に押包みて、衣にかく、+富家の大殿((藤原忠実))の法性寺に住ませ給ひける年の、長月ばかりに、かの御所の前に、めづらかなる嬰児(みどりご)を、紅梅の衣(きぬ)に押包みて、衣にかく、
  
   身にまさるものなかりけりみどりごはやらんかたなくかなしけれども   身にまさるものなかりけりみどりごはやらんかたなくかなしけれども
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 >われは、かたじけなくも、殿の父にて侍るなり。平らかに身身とならせ給しかば、いかにも「身にそへ奉らばや」と思ひ侍りしかども、すべきかたなく貧しく侍りしかば、「『あはれ』とおのづから見そなはす人もや」と思ひ給へて、捨て奉りしに、今また、かくなり出でていまそかれば、「かしこく」と、かへすがへす嬉しく侍り。「かなしき((底本「き」なし。諸本により補う。))中にも」と思ひて、身にそへ奉りたりしかば、「めでたき果報のほどはあらはれざらまし((底本、「はれざら」なし。諸本により補う。))」と思え侍り。さても、夫妻ともに、かたのごとく憂き世の中を過ぎ侍りぬるに、この二十日あまりの前(さき)に、彼におくれ侍りぬれば、「後世をとぶらはん」とて、かくまかりなりて、所もさらにさだめず、「母の後世を問ひいませかし」と思ひて、なん申すに侍り。 >われは、かたじけなくも、殿の父にて侍るなり。平らかに身身とならせ給しかば、いかにも「身にそへ奉らばや」と思ひ侍りしかども、すべきかたなく貧しく侍りしかば、「『あはれ』とおのづから見そなはす人もや」と思ひ給へて、捨て奉りしに、今また、かくなり出でていまそかれば、「かしこく」と、かへすがへす嬉しく侍り。「かなしき((底本「き」なし。諸本により補う。))中にも」と思ひて、身にそへ奉りたりしかば、「めでたき果報のほどはあらはれざらまし((底本、「はれざら」なし。諸本により補う。))」と思え侍り。さても、夫妻ともに、かたのごとく憂き世の中を過ぎ侍りぬるに、この二十日あまりの前(さき)に、彼におくれ侍りぬれば、「後世をとぶらはん」とて、かくまかりなりて、所もさらにさだめず、「母の後世を問ひいませかし」と思ひて、なん申すに侍り。
  
-と、書きたり。見るに、心も身にそはず。「されば、おはしつるは、父にていまそかりけるにこそ。母堂の失せ給ふになん、家を出でて、流浪の行者となり給ふにこそ」と、悲しく思え侍りければ、妻子にいとま乞ひ給ふにも及ばずして、いづちともなく、足にまかせておはしけるほどに、大和・山城の境の、川風寒し衣かせ山と詠みける、泉川の北の端(はた)に、夜のほのぼのとするになん着き給ふに、さて、川の端にて、手づから髻(もとどり)切りて、水に流しつつ、興福寺の千覚律師の東北院へ立ち入りて、かしらおろして、法名授かり給ひて、広く国々修行((「修行」は底本「條行」。諸本により訂正。))して、父母の後世をとぶらひて、法のしるしどもあまた施して、めでたき智者にてなんいまそかりければ、僧正までなり給ひけるなるべし。+と、書きたり。 
 + 
 +見るに、心も身にそはず。「されば、おはしつるは、父にていまそかりけるにこそ。母堂の失せ給ふになん、家を出でて、流浪の行者となり給ふにこそ」と、悲しく思え侍りければ、妻子にいとま乞ひ給ふにも及ばずして、いづちともなく、足にまかせておはしけるほどに、大和・山城の境の、川風寒し衣かせ山と詠みける、泉川の北の端(はた)に、夜のほのぼのとするになん着き給ふに、さて、川の端にて、手づから髻(もとどり)切りて、水に流しつつ、興福寺の千覚律師の東北院へ立ち入りて、かしらおろして、法名授かり給ひて、広く国々修行((「修行」は底本「條行」。諸本により訂正。))して、父母の後世をとぶらひて、法のしるしどもあまた施して、めでたき智者にてなんいまそかりければ、僧正までなり給ひけるなるべし。
  
 このこと、おろかなる心にも、あはれさ身にしみて、やるかたなく侍り。人の習ひ、「わが身世にありて、父母の後世をとぶらひ、功徳をも造らむ」などこそ思ふめるに、さらに行く末、いとど栄ふべき栄華の藤の華を思ひ捨て、やすくもやつれ給へる墨染の袂に、道芝の露はらひつつ、たどり歩(あり)き給ひけん心の中の貴さをば、「いかでか、三世の仏たちの、見すごさせ給ふべき」と思え侍り。 このこと、おろかなる心にも、あはれさ身にしみて、やるかたなく侍り。人の習ひ、「わが身世にありて、父母の後世をとぶらひ、功徳をも造らむ」などこそ思ふめるに、さらに行く末、いとど栄ふべき栄華の藤の華を思ひ捨て、やすくもやつれ給へる墨染の袂に、道芝の露はらひつつ、たどり歩(あり)き給ひけん心の中の貴さをば、「いかでか、三世の仏たちの、見すごさせ給ふべき」と思え侍り。
text/senjusho/m_senjusho04-02.1465019432.txt.gz · 最終更新: 2016/06/04 14:50 by Satoshi Nakagawa