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text:senjusho:m_senjusho03-05 [2016/05/28 22:15] – [校訂本文] Satoshi Nakagawatext:senjusho:m_senjusho03-05 [2016/05/29 16:13] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa
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 ことに貴く思えて、くはしく尋ね奉り侍りしかば、「昔、三井寺の学徒にて侍りしか、山((延暦寺))と寺((三井寺))と仲悪しきことのありて、山のために寺焼かれ侍りしかば、情けなく、あぢきなくて、まかり出で、国々迷ひ歩(あり)き侍りしほどに、今は年も傾きぬれば、この所になん住み侍り。当初(そのかみ)は里へ出で侍りしかども、今はまた惜しむべきほどにも侍らねば、あるにまかせて、里へも出で侍らねども、人の時々たづね来て、命を継ぐにあり」とぞ、のたまはせ侍りし。ゆゆしく、いさぎよく、澄みわたりて見え給はせ侍り。 ことに貴く思えて、くはしく尋ね奉り侍りしかば、「昔、三井寺の学徒にて侍りしか、山((延暦寺))と寺((三井寺))と仲悪しきことのありて、山のために寺焼かれ侍りしかば、情けなく、あぢきなくて、まかり出で、国々迷ひ歩(あり)き侍りしほどに、今は年も傾きぬれば、この所になん住み侍り。当初(そのかみ)は里へ出で侍りしかども、今はまた惜しむべきほどにも侍らねば、あるにまかせて、里へも出で侍らねども、人の時々たづね来て、命を継ぐにあり」とぞ、のたまはせ侍りし。ゆゆしく、いさぎよく、澄みわたりて見え給はせ侍り。
  
-げにも、北嶺((比叡山))の内には、山・寺とて、仏法も盛りに侍れば、教待和尚の、「三会の暁まであるべき寺なり」とて、智証大師に譲り聞こえ給ひし、「まことなり」と思えて侍るに、多くの仏塔・法文・聖教、さながら煙とのぼりけんを見侍りけんは、さこそ悲しく侍りけめ。+げにも、北嶺((比叡山))の内には、山・寺とて、仏法も盛りに侍れば、教待和尚の、「三会の暁まであるべき寺なり」とて、智証大師((円珍))に譲り聞こえ給ひし、「まことなり」と思えて侍るに、多くの仏塔・法文・聖教、さながら煙とのぼりけんを見侍りけんは、さこそ悲しく侍りけめ。
  
 法滅の道心、あはれにも、かしこくも侍るかな。悲しきかな、仮の世、あだなる身を知らずして、いつとなく我執をのみ横たへて、果てには寺をさへ滅ぼし侍らんことと。名を釈子に借り、姿を沙門になして、さきらをみがく人だにも、憂き世の中の習ひにて、戦陣の企て((「企て」は底本「余」。諸本により訂正))あり。まして、法文の至理をわきまへ侍らぬ人の、心まかせに振舞ひ侍らんは、理(ことはり)にぞ侍るべき。ただ、げにもひたすら思ひ離れずは、この苦はいまだはれじと、なほなほかしこく侍り。 法滅の道心、あはれにも、かしこくも侍るかな。悲しきかな、仮の世、あだなる身を知らずして、いつとなく我執をのみ横たへて、果てには寺をさへ滅ぼし侍らんことと。名を釈子に借り、姿を沙門になして、さきらをみがく人だにも、憂き世の中の習ひにて、戦陣の企て((「企て」は底本「余」。諸本により訂正))あり。まして、法文の至理をわきまへ侍らぬ人の、心まかせに振舞ひ侍らんは、理(ことはり)にぞ侍るべき。ただ、げにもひたすら思ひ離れずは、この苦はいまだはれじと、なほなほかしこく侍り。
text/senjusho/m_senjusho03-05.1464441311.txt.gz · 最終更新: 2016/05/28 22:15 by Satoshi Nakagawa