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蒙求和歌
第5第5話(75) 無塩如漆
校訂本文
無塩如漆
斉の鍾離春は、無塩邑の女(むすめ)なり。醜きこと、たぐひもなかりけり。頭(かしら)は臼に似たり。目深く、首長く、節太く、鼻高く、喉むすぼほれ、項(うなじ)肥え、髪少なく、胸出で、腰折れて、肌(はたへ)漆(うるし)のごとし。四十になるまで、男(をとこ)なかりけり。
市に出でて、男を買へども、目をかくる人なし。思ひわびつつ、宣王に参りて、「后(きさき)にそなはらむ」と望み乞ふに、まことにうとましく、恐しき気色なりけれども、情け深き御心にて、これを厭はば、いたづらになり果てむことばかりをあはれみ給ひき。人は笑へども、后に立て給ひてけり。
無塩1)、漸台に侍りて、「殆哉(あやうきかなや)」と、四度(よたび)言へり。
宣王、ゆゑを問ひ給ふに、申していはく、「西には秦と衛との憂へあり。南には強楚の仇(あだ)あり。外には三国の難あり。内には奸臣ありて、衆賢進まず。一旦に山崩れば、社稷静かならじ。これ一つ殆きなり。次に、漸台、五重(いつかさね)を飾るとて、万民疲れたり。これ二の殆きなり。次に、賢者、山林に隠れ、讒臣、左右にこはくして諫むる者なし。これ三の殆きなり。次に耽酒沈湎して、夜をもつて昼に継ぎ、女楽縦横して度無し。これ四の殆きなり」と申せり。
ここに、宣王、ことはりを思し知りて、無塩が言葉に従ひて、漸台をとどめ、女楽をやめ、讒臣をしりぞけ、直諫(ちよくかん)をすすめ、四門を開きて、衆(もろ)の賢き人を入れて、世、治まりにけり。
色なくて盛り過ぎぬと見しほどに名高くなりぬ秋の深山木(みやまぎ)
翻刻
無(ふ)塩如漆(しち) 斉の鍾離春は無塩邑(いふ)の女(むすめ)也みにくきことたくひもなかりけ りかしらは臼ににたり目ふかく頚なかくふしふとく鼻たかく のとむすほをれうなしこえ髪すくなくむねいてこしをれてはたへ/d1-36l
うるしのことし四十になるまてをとこなかりけり市にいててをとこを かへともめをかくる人なしをもひわひつつ宣王にまいりてきさ きにそなはらむとのそみこふにまことにうとましくをそろしきけ しきなりけれともなさけふかき御心にてこれをいとははいたつ らになりはてむことはかりをあはれみたまひき人はわらへともき さきにたてたまひてけり無塩(鍾離春カ)漸臺にはへりて殆哉(あやうきかなや)とよたひ 云り宣王ゆへを問ひ給に申て云く西には秦(しむ)と衛(えい)とのうれへあり南には 強(きやう)楚(その)あたあり外には三国の難なむ有り内には奸臣ありて衆賢すすます 一旦(たむに)山崩(くつれ)社稷(しやしよく)しつかならしこれ一つ殆うき也次(つきに)漸臺(うてな)五重(いつかさねを) かさるとて万民つかれたりこれ二の殆也次に賢者山林にかくれ 讒臣左右にこはくして諫者(いさむるもの)なしこれ三の殆也次に躭(たむ)酒 沈(ちむ)湎(めむして)以て夜を継(つぎ)昼るに女楽(かく)縦(しよう)横(いはう)無度これ四の殆也 と申せりここに宣王ことはりををほししりて無塩(鍾離春カ)ことはにした かひて漸臺をととめ女楽をやめ讒臣をしりそけ直諫(ちょくかん)/d1-37r
をすすめ四門をひらきて衆(もろの)賢(かしこき)ひとをいれてよおさまりにけり いろなくてさかりすきぬとみしほとに名高くなりぬあきのみやまき/d1-37l
1)
底本「鍾離春カ」と傍書。この無塩は鍾離春を指すが、鍾無塩ともいうので、これで問題ない。以下同じ。
text/mogyuwaka/ndl_mogyuwaka05-05.1511610515.txt.gz · 最終更新: 2017/11/25 20:48 by Satoshi Nakagawa