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text:kohon:kohon064

古本説話集

第64話 観音経、蛇身に変化して、鷹生を輔くる事

観音経変化地身輔鷹生事

観音経、地1)身に変化して、鷹生を輔くる事

校訂本文

今は昔、鷹を役にて過ぐる者ありけり。

「鷹の放れたるを取らん」とて、鷹の飛ぶに従ひて行きけるほどに、遥かに往にけり。「鷹を取らん」とて見れば、遥かなる奥山の谷の片岸に、高き木に鷹の巣食ひたるを見置きて、「いみじきこと見置きたる」と思ひて、「今はよきほどになりぬらん」と思ふほどに、この鷹の子、下しに往にけり。

えもいはぬ奥山の、深き谷、底ひも知らぬに、谷の上に、いみじく高き榎の木の、枝は谷に指しおほをりたるが、上に巣を食ひて子を生みたり。この子を生みたるが、この巣のめぐりにし歩く。見るに、えもいはずめでたき鷹にてあれば、「子もよかるらん」と思ひて、よろづも知らず登る。やうやうかき登りて、いま巣のもとに登らんとするほどに、踏まへたる木の枝折れて、谷に落ち入りぬ。

谷の底に、高き木のありける枝に落ちかかりて、その木の枝をとらへてありければ、生きたる心地もせず。我にもあらず、すべき方もなし。見下せば、底ひも知らず。深き谷なり。見上ぐれば、遥かに高き木なり。かき登るべき方もなし。

供にある従者(ずさ)どもは、谷に落ち入りぬれば、「疑ひなく死ぬる」と思ふ。さるにても、「いかがあると見む」と思ひて、岸のもとに寄りて、わりなく爪(つま)立てて、恐しければ、わづかに見入るれど、底ひも知らぬ谷の底に、木の葉繁き下枝にあれば、さらに見ゆべきやうもなし。目くるめく心地すれば、しばしもえ見ず。

すべき方なければ、さりとて、あるべきならねば、家に行きて、「かうかう」と言へば、妻(め)子ども泣き惑へどもかひもなし。会はぬまでも、見に行かまほしけれど、「さらに道もおぼえず。また、おはしたりと、底ひも知らぬ谷底にて、さばかり覗き、よろづは見しかども、見え給はざりき」と言へば、「まことにさぞあらん」と人々も言へば、え行かず。

あの谷には、すべき方もなくて、石の稜(そば)の、折敷の広さにてさし出でたる片稜(かたそば)に、尻をかけて、木の枝を取らへて、少しも身じろぐべき方もなし。いささかも動(はたら)かば、谷に落ち入りぬべし。いかにもいかにも、すべき方なし。

かくてぞ、鷹飼ふを役にて世を過せど、幼くより観音経を誦み奉り、持(たも)ち奉りたりければ、「助け給へ」と思ひ入りて、ひとへに頼み奉りて、この経を夜昼いくらともなく誦み奉る。弘誓深如海(ぐぜいしんにょかい)と申すわたりを誦むほどに、谷の奥の方より、物のそよそよと来る心地のすれば、「何にかあらん」と思ひてやをら見れば、えもいはず大きなる蛇(じや)なりけり。長さ二丈ばかりなるが、臥し丈(たけ)三尺ばかりなる。顔、肩先へさしにさして来れば、「我はこの蛇に食はれなむずるなめり。悲しきわざかな。観音助け給へとこそ思ひつれ。こはいかにしつることにか」と思ひて、念じ入りてあるほどに、ただ来に来て、我が膝のもとより過ぐれど、我を飲まむとさらにせず。

ただ谷の上ざまへ登らんとする気色なれば、「いかがはせん。ただこれに取り付きたらばしも、登りなむかし」と思ひて、腰に差したる刀をやをら抜きて、この蛇の背中に突き立てて、それを捕へて背中にすがれて、蛇の行くままに引かれて行けば、谷より岸の上ざまにこそろと登りぬ。その折にこの男、離れて退く。この刀を取らんとすれど、強く立ちにければ、え抜かぬほどに、引きはづして、背中に刀刺しながら、蛇はこそろと渡りて、向かひの谷に渡りぬ。

この男、「うれし」と思ひて、出でて急ぎて行かんとすれど、この二三日にしろぎ、動きもせず、あからさまにうち臥す事もせず、物食ふことはまして知らず過ぐしたれば、かつかつと影のやうにて、やうやう家に行き着きぬれば、妻子ども従者どもなど、見てあさましがり、泣き騒ぐ。

かくて三四日になりにければ、「さのみいひてあるべきことかは」とて、経仏のことなどして、仏師に物取らせんなどするほどになりにけり。2)

かうかうとことのさまを語りて「観音の御徳に、かく生きたるとぞ思ふ」とてあさましかりつることも泣く泣く語りて、物など食ひて、その夜は休みて、つとめて、とく起きて、手洗ひて、誦み奉りし経のおはするを、「誦み奉らん」とて引き開けたれば、あの谷にて蛇の背中に我突き立てし刀、この経に「弘誓深如海」といふ所に立ちたり。見るに、いとあさましなどはおろかなり。「さは、この経の蛇になりて、我を助けにおはしましたりけり」と思ふに、あはれに貴く、「かなしう、いみじ」とおぼゆること限りなし。そのわたりの人は、これを聞きつきて、見あさみけり。

今始め申すべきことならねど、観音頼み奉らんに、その験(しるし)なしといふことは、あるまじきなりけり。

翻刻

いまはむかしたかをやくにてすくる物ありけ
りたかのはなれたるをとらんとてたかのとふに
したかひてゆきける程にはるかにいにけりたかを
とらんとてみれははるかなるおく山のたにの
かたきしにたかき木にたかのすくひたるを
みをきていみしきことみをきたると思ひていまは
よきほとになりぬらんと思ふほとにこのたかの
こおろしにいにけりえもいはぬおく山のふかき/b227 e116
たにそこゐもしらぬにたにのうへにいみしく
たかきえの木の枝はたににさしおほをりたるか
かみにすをくひてこをうみたりこのこをうみたる
かこのすのめくりにしありくみるにえもいはす
めてたきたかにてあれはこもよかるらんと思ひて
よろつもしらすのほるやうやうかきのほりていま
すのもとにのほらんとするほとにふまへたる木の
えたをれてたににをちいりぬたにのそこにたか
ききのありけるえたにをちかかりてそのきのえた
をとらへてありけれはいきたる心ちもせす我にも/b228 e117
あらすすへきかたもなしみをろせはそこゐもしら
すふかき谷なりみあくれははるかにたかき木也
かきのほるへきかたもなしともにあるすさともは
たににをちいりぬれはうたかひなくしぬるとおもふ
さるにてもいかかあると見むと思ひてきしの
もとによりてわりなくつまたてておそろしけれは
わつかにみいるれとそこゐもしらぬたにのそこ
に木の葉しけきしたえたにあれはさらにみゆ
へきやうもなしめくるめく心ちすれはしはしも
えみすすへきかたなけれはさりとてあるへきならねは/b229 e117
家にゆきてかうかうといへはめこともなきまとへとも
かひもなしあはぬまてもみにいかまほしけれと
さらにみちもおほえす又おはしたりとそこゐも
しらぬたにそこにてさはかりのそきよろつはみし
かともみえ給はさりきといへはまことにさそあらんと
ひとひともいへはえいかすあのたににはすへきかたもなくて
いしのそはのをしきのひろさにてさしいてた
るかたそはにしりをかけて木のえたをとらへて
すこしもみしろくへきかたもなしいささかもは
たらかはたににをちいりぬへしいかにもいかにもすへき/b230 e118
かたなしかくてそたかかふをやくにてよをすこ
せとおさなくより観音経をよみたてまつりた
もちたてまつりたりけれはたすけ給へと思ひいりて
ひとへにたのみたてまつりてこの経をよるひる
いくらともなくよみたてまつるくせいしん如かいと
申わたりをよむほとにたにのおくのかたより物のそ
よそよとくる心ちのすれはなににかあらんと思ひて
やをらみれはえもいはすおほきなるしやなりけ
りなかさ二丈はかりなるかふしたけ三尺はかり
なるかおかたさきへさしにさしてくれは我はこの/b231 e118
しやにくはれなむするなめりかなしきわさかな観
音たすけ給へとこそ思ひつれこはいかにしつること
にかと思ひてねんしいりてあるほとにたたき
にきてわかひさのもとよりすくれと我をのまむと
さらにせすたたたにのうへさまへのほらんとす
るけしきなれはいかかはせんたたこれにとり
つきたらはしものほりなむかしとおもひてこし
にさしたるかたなをやをらぬきてこのしやのせな
かにつきたててそれをとらへてせ中にすかれて
しやのいくままにひかれていけはたによりきしの/b232 e119
うへさまにこそろとのほりぬそのをりにこのをと
こはなれてのくこのかたなをとらんとすれとつよく
たちにけれはえぬかぬほとにひきはつしてせ中に
かたなさしなからしやはこそろとわたりてむかひのたにに
わたりぬこのおとこうれしと思ひていてていそきて
いかんとすれとこの二三日にしろきはたらきもせす
あからさまにうちふす事もせす物くふことはまし
てしらすすくしたれはかつかつとかけのやうにてやうやう
家にいきつきぬれはめこともすさともなとみてあさ
ましかりなきさはくかくて三四日になりにけれはさのみ/b233 e119
いひてあるへきことかはとて経仏のことなとして
仏師に物とらせんなとするほとになりにけ
りかうかうとことのさまをかたりて観音の御とくに
かくいきたるとそおもふとてあさましかりつることも
なくなくかたりて物なとくひてその夜はやすみて
つとめてとくをきててあらひてよみたてまつり
し経のをはするをよみたてまつらんとてひき
あけたれはあのたににてしやのせ中に我つき
たてしかたなこのきやうにくせいしむ如かい
といふ所にたちたりみるにいとあさましなとは/b234 e120
おろかなりさはこの経のしやになりて我をた
すけにおはしましたりけりとおもふにあはれに
たうとくかなしういみしとおほゆることかき
りなしそのわたりの人はこれをききつきてみあ
さみけりいまはしめて申へきことならねと観
音たのみたてまつらんにそのしるしなしと
いふことはあるましきなりけり/b235 e120
1)
「蛇」の異体字「虵」の誤りか
2)
この段落は鷹飼いの男が帰ってくる前の家の様子を描いている。
text/kohon/kohon064.txt · 最終更新: 2014/09/21 13:30 by Satoshi Nakagawa