唐鏡 第四 漢武帝より更始にいたる
2 漢 孝武帝(2 神仙思想)
校訂本文
元狩1)三暦に、昆明池(こんめいち)を掘りて水戦(すいせん)を習はしむ。昆明国を討たんがためなり。この池は白鹿原(はくろくげん)に通ぜり。
人、魚を釣る2)に、釣りの緒(を)絶えて魚去りぬ。帝3)、夢に見給はく、釣りの緒を取りて捨てんと思し召して、池にのぞみて見給ふに、大いなる魚の釣(つりばり)をふくむあり。その釣を取りて放たれぬ。その後三日ありて、この池に遊び給ふに。明珠一双を得給へり。「魚の恩を報ゆるなり」とぞ、帝4)のたまひける。
元鼎元暦夏五月に、汾水(ふんすい)といふところに鼎(かなへ)を得たり。これは周の末に沈みしが5)、この君の聖徳に応じて出でたるなり。このゆゑに暦号をば元鼎と改められたり。
五暦冬十一月辛巳、朔旦冬至なり。めでたき瑞祥とぞ承る。帝、ことに神仙の道を好み給ふを聞きて、斉人(せいひと)少翁といふ者、「われ術ありて参りたり」。その時に王夫人といふ人を愛し給ふが、にはかに失せたる。少翁、さまざまの術にて、王夫人の形(かたち)を幻(まぼろし)の体(てい)にて見せ給へり。帝、これを喜びて、「いみじき者なり」とて、ことにもてなし勧賞し給ふ。すなはち文成将軍といふ官になし給へりつ。
その後、神仙のことどもをやうやうにすれども、みな偽りのことにて、しるしなし。文にやうやうのことを書きて、さりげなくして牛に飲み入れさせつ6)。文成、その牛を見て、「この牛の腹の中に怪しき気あり」とて、殺して見るに、果たして文あり。されど、その文の体(てい)も、ただ人の書きたる体にて、まことならねば、文成将軍殺されつ。
仙道を好むことは、みなかくのごときなり。帝、嵩高といふ山に登り給ふに、「万歳」と呼ばふこと三度(みたび)、人々みな聞きて、上に問ひ下に問ふに、みな申さず。山神ののたまひけるなり。
翻刻
元狩(クハンシウ)(符イ)三暦に昆明池(コンメイチ)をほりて水戦(スイセン)をならはしむ/s98r・m174
昆明国をうたんかため也この池は白鹿原(ハクロクケン)に通せり 人魚を初(イ釣)につりのを絶て魚さりぬ帝夢に見 給くつりのををとりてすてんとおほしめして 池にのそみて見給に大なる魚の釣をふくむあり その釣をとりて放(ハナ)たれぬそののち三日ありてこの 池に遊給に明珠(メイシユ)一双(サウ)を得給へり魚の恩(ヲン)を 報(ムクユル)なりとそしるし(イ帝)の給ひける 元鼎元暦夏五月に汾水(フンスイ)といふところに鼎(カナヘ)を得た りこれは周のすへにしつみしかこの君の 聖徳(セイトク)に応して出たる也このゆへに暦号をは元鼎/s98l・m175
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/98
とあらためられたり五暦冬十一月辛巳(カノトミ)朔旦(サクタン)冬至(トウシ)也 めてたき瑞祥(スイシヤウ)とそうけ給はるみかとことに神仙(シンセン) の道をこのみ給をききて斉人(セイヒト)少翁(セウラウ)といふもの我(ワレ) 術ありてまいりたりその時に王夫人といふ人を 愛(アイ)し給ふかにはかにうせたる少翁さまさまの術にて 王夫人の形(カタチ)をまほろしのていにてみせ給へり みかとこれをよろこひていみしきものなりとて ことにもてなし勧賞し給すなはち文成(フンセイ)将軍 といふ官になし給へりつそののち神仙の事と もをやうやうにすれともみないつはりの事にて/s99r・m176
しるしなし文にやうやうの事をかきてさりけなく して牛にのみいれさせつ(イテ)文成その牛を見てこの 牛の腹の中にあやしき気ありとてころして 見るにはたして文ありされとその文のていも たた人のかきたるていにてまことならねは文成将 軍ころされつ仙道をこのむ事はみなかくの こときなり帝嵩高といふ山にのほり給ふに 万歳とよはふこと三たひ人々みなききて上に とひ下にとふにみな申さす山神のの給けるなり/s99l・m177