閑居友
下第1話 摂津の国の山中の尼の発心の事
つの国の山中の尼の発心事
摂津の国の山中の尼の発心の事
校訂本文
昔、摂津(つ)の国の山の中に、あやしの草庵1)して尼の住むありけり。五穀を断ちて、いちひ樫の実をなん取り置きて、食ひ物には調じける。前に池を手づつげに掘りて、それに入れ置きて、あはたかしなどしけり。色も青み衰へて、善し悪しも見え分かぬほどになんありける。
ある人、思はずに行き合ひて、「何としてか、ここには住む」と言ひければ、「我、年いと盛りなりしに、男に後れ侍りて、四十九日のわざなど果てて、その日、やがて頭剃(かしらおろ)して、この山に入りて、いまだ里に行くことなし。何となく浅からず思ひて侍りしを、はからざるに亡き者にみなして侍りしより、『世の中何にかはせん」と思ひて、かくなりて侍り。子もあまた侍り。田畠やうの物、数あまたありしかど、『これは皆夢のうちの友なれば』と、思ひ捨ててき」とぞ言ひける。心には様々(さまざま)思入れたる様(さま)に侍るを、さすがに言(こと)に出でて数々には言はぬさまにぞ見えける。
高きも下れるも、女となりぬる身は、心は千草に思へども、よろづえ叶はでのみぞやむめるを、思ひとりけん心のほど、げに浅からずぞ侍るべき。
まことに偕老同穴の契り2)、来ん世を引きかけて頼むるわざ、あらましなれども、罪深きことあまた聞こゆるぞかし。唐土(もろこし)の御門3)は、「空を行かば翼を並ぶる鳥とならん」と契り、日本(やまと)の島の女は、「野とならばは鶉(うづら)となりて鳴きおらん」とかこてり。あるは、「恋ひん涙の色ぞゆかしき」と思ひ置き、あるは、「亡き床に寝ん君ぞ悲しき」とわづらへり。まことを致してとはずは、浮びがたくや侍らむ。
つらつら思ひ続くれば、生けるほどは、いかなれば、富士の高嶺(たかね)にことよせて、堪へぬ思ひを表はし、清見が関を引きかけて、袖の涙を知らするに、むなしく鳥辺野の煙(けぶり)と上り、いたづらに浅茅が原の露と消えぬるは、いたまずしもあるらん。情け深からん人、折に触れ、時に従ひて悲しみを増すこと深くぞ侍るべき。
式部卿の御子4)、閑院の五の君に住み渡り給ひけるを、いくほともあらで御子みまかりにけるとき、かの住み給ひける帳の帷子(かたびら)の紐に、昔の手にて、
数々に我を忘れぬものならば山の霞をあはれとは見よ
と書きて結び給へりけるは、あやしの身にわづかに伝へてみるだにも、春のあけぼの、山の端(は)霞み渡りて見ゆるには、すずろに思ひ出でられて、昔の情けの忘れがたく侍るに、ましてかの五君の心の中(うち)、いかばかり春はことに立ち迷ひて侍りけんとあはれなり。
また、浦の浜木綿(はまゆふ)を引きかけて、「うらみ重ねん」とかこち、露のあだものをよすがにて、「逢ふにし替へば」と比べけん、げにあはれに忍びがたき縁(えに)こそあるらめかし。一度(ひとたび)ははかなく、一度はむざうなり。
翻刻
昔つの国の山の中にあやしの草庵(さうあん・くさのいほり)してあま のすむありけり五こくをたちていちゐかしの みおなんとりおきてくひものにはてうしけるまへ に池おてつつけにほりてそれにいれをきてあ はたかしなとしけり色もあをみおとろえて よしあしもみえわかぬほとになんありけるあ る人おもはすにゆきあひてなにとしてかここに はすむといひけれは我としいとさかりなりしに/下1オb151
おとこにをくれ侍て四十九日のわさなとはててその日 やかてかしらおろしてこの山にいりていまたさとに ゆく事なしなにとなくあさからす思ひて侍しを はからさるになきものにみなして侍しより世中 なににかはせんとおもひてかくなりて侍子も あまた侍田畠やうの物かすあまたありしかと これはみなゆめのうちのともなれはと思ひすててき とそいひける心にはさまさま思いれたるさまに侍をさ/下1ウb152
すかにことにいててかすかすにはいはぬさまにそみへ けるたかきもくたれるも女となりぬる身は心は 千草におもへともよろつゑかなはてのみそやむ めるを思ひとりけん心のほとけにあさからすそ侍へき まことに偕老同穴契(カイラウトウクエツノチキリ)こんよをひきかけてたの むるわさあらましなれともつみふかき事あまた きこゆるそかしもろこしの御門はそらをゆ かはつはさをならふるとりとならんとちきり/下2オb153
やまとのしまの女は野とならはうつらとなり てなきおらんとかこてりあるはこひんなみたの 色そゆかしきとおもひをき或はなきとこにねん 君そかなしきとわつらへりまことをいたしてとは すはうかひかたくや侍らむつらつらおもひつつくれは いけるほとはいかなれはふしのたかねに事よせ てたえぬおもひをあらはしきよみかせきおひ きかけて袖のなみたおしらするにむなしく/下2ウb154
とりへののけふりとのほりいたつらにあさちかはらの 露ときえぬるはいたますしもあるらんなさけ ふかか覧人おりにふれ時にしたかひてかな しみおます事ふかくそ侍へき式部卿御子かん ゐんの五君にすみわたり給けるをいくほともあら て御こ身まかりにけるときかのすみたまひける 帳のかたひらのひもにむかしのてにてかすかすに 我をわすれぬものならは山の霞をあはれとはみよ/下3オb155
とかきてむすひたまへりけるはあやしの身に わつかにつたへてみるたにも春のあけほの山のは かすみわたりてみゆるにはすすろにおもひいてら れて昔のなさけのわすれかたく侍にましてかの 五君の心のうちいかはかり春はことにたちまよひ て侍けんとあはれ也またうらのはまゆふおひき かけてうらみかさねんとかこちつゆのあたものを よすかにてあふにしかへはとくらへけんけにあは/下3ウb156
れにしのひかたきえにこそあるらめかし一 たひははかなく一たひはむさう也/下4オb157