閑居友
上第17話 稲荷山の麓に日を拝みて涙を流す入道の事
稲荷山のふもとに日ををかみて涙おなかす入道事
稲荷山の麓に日を拝みて涙を流す入道の事
校訂本文
近ごろ、稲荷の返り坂に、岸の上にあやしの薦(こも)一つうち敷きて、年いと老ひたる入道、ただ一人居て、西に向ひて夕日を拝みて、さめざめと泣くありけり。
「いかに」と、人の問ひければ、「我は信濃の国の民にて侍りしが、世の中いといたうあぢきなう侍りしかば、かくまかりなりて侍り。『京(みやこ)はなにわざにつけてもよく侍り』と聞きて、問ふ問ふまかり上りて侍り。知れる事もなければ、ただ阿弥陀仏を頼み奉りて、夜昼、『疾くして迎へ給へ』と泣き喚(をめ)き、誂へ奉るより他のことなし。夜は、この下(しも)なる人のあたりに侍るが、一夜うち寝(ね)ぬれば、さらに目も合はず。『あはれ、夜のはやも明けて、日の出で給へかし』と、夜もすがら待ち奉る。さて、鐘も打ち、夜もほのめくほどになりぬれば、この岸に居侍りて、東に向ひて、『はや日の出で給へかし』と思ひ居りて、日も出でてやうやう南に廻り給へば、それに従ひてまた南に向ひて、『疾くして我を具して西へおはしませ』と願ひ侍りて、かやう時に、西の山の端(は)にかからせ給ふ時には、声も惜します泣かれ侍りて、『我を捨ててはいづくへおはしますぞ』とすずろに悲しくて、嬰児(みどりご)にて侍りし時、母の物にまかりいでしが心細く慕はしく侍しよりは、なほ、比ぶべくもなく悲しく侍りて、『阿弥陀仏、いかにし給ひつるぞ』と泣くより他のことなし。今も人の見給ふに、少し忍び侍らんとつかうまつりつるが、さらにかなはで、かく見とがめさせ給ふまでに侍りけるにこそ」とぞ言ひける。
さて、この問ふ人、いとあはれに思ひて、時々物調(ととの)へて遣はしなどしけり。ある時、訪ねさすれば、「跡形(あとかた)もなし」となん、語り侍りし。いといたうあはれに思え侍り。
いと細かにこそなけれども、おのづから日想観に当りて侍りけるにこそ。雨などの激しく降りけんに、いかがわびしく侍りけん。思ひ量りある人こそ、さまざまに慰む方も侍れ、短かき心には、さらに晴るる方なく思ひ乱れてこそ侍りけめ。
また、かの人の行方(ゆくゑ)いかになりにけん、ことにおぼつかなく侍り。誰ゆゑ立て初め給ふ誓ひなればかは、頼む人を1)御覧じ過ぐすべきなれば、さだめて彼の御国(みくに)にこそは生まれ侍りにけめ。いとほしく侍りける心かな。
翻刻
ちかころいなりの返りさかにきしのうへにあや しのこもひとつうちしきてとしいとおひ たる入道たたひとりゐて西にむかひてゆふ日を をかみてさめさめとなくありけりいかにと人のとひけ/上49オb105
れは我はしなのの国のたみにて侍しか世中いと いたうあちきなう侍しかはかくまかりなりて 侍みやこはなにわさにつけてもよく侍とききて とふとふまかりのほりて侍しれる事もなけれは たたあみた仏をたのみたてまつりて夜ひる とくしてむかへたまへとなきをめきあつらへたて まつるよりほかの事なし夜はこのしもなる人 のあたりに侍か一夜うちねぬれはさらにめもあはす/上49ウb106
あはれ夜のはやもあけて日のいてたまへかしと 夜もすからまちたてまつるさてかねもうち夜 もほのめくほとになりぬれはこのきしにゐ侍て 東にむかひてはや日のいてたまへかしと思おりて 日もいててやうやう南にめくり給へはそれにしたかひ てまた南にむかひてとくして我をくして西へ おはしませとねかひ侍てかやう時に西の山の はにかからせ給ときにはこゑもをしますな/上50オb107
かれ侍て我をすててはいつくへおはしますそと すすろにかなしくてみとりこにて侍し時 母のものにまかりいてしか心ほそくしたはし く侍しよりは猶くらふへくもなくかなしく 侍てあみた仏いかにしたまひつるそとなくよ りほかの事なしいまも人のみ給にすこしし のひ侍らんとつかうまつりつるかさらにかなはてか くみとかめさせ給まてに侍けるにこそとそいひける/上50ウb108
さてこのとふ人いとあはれに思てときときものとと のえてつかはしなとしけりあるときたつね さすれはあとかたもなしとなんかたり侍しい といたうあはれにおほえ侍いとこまかにこそなけ れともをのつから日想観にあたりて侍けるにこ そあめなとのはけしくふりけんにいかかわひし く侍けん思はかりある人こそさまさまになくさむか たも侍れみしかき心にはさらにはるるかたなく/上51オb109
おもひみたれてこそ侍けめまたかの人の行ゑ いかになりにけんことにおほつかなく侍たれゆゑ たてそめ給ちかひなれはかはたのむ人と御覧 しすくすへきなれはさためてかのみくにに こそはむまれ侍にけめいとをしく侍ける心かな/上51ウb111