閑居友
上第14話 常陸国の男、心を発して山に入る事
常陸国のおとこ心ををこして山にいる事
常陸国の男、心を発して山に入る事
校訂本文
中ごろ、常陸国に、いふかひなきあやしの男ありけり。春にて侍りけるなめり。田かへしになんまかれりけるに1)、例よりもけにすきいりぬべく思えければ、まだ日も暮れなくに家に帰り来にけり。
妻(め)なりける女、「いかに」ととがむれば、「さればこそ。今日はいかに侍るやらん、物の食ひたくて、弱々しく思ゆれば来たるなり。何にても物用せよ。食はむ」と言ふ。この女、思はずに気憎(けにく)く答(いら)へて、「さらば、火吹きて焚きつけよ」と言ふ。男、火を吹きけるに、えなん吹きつけで煩ひけるを、この女、「あな憎(にく)のかたいや。不覚の者は」とて、履き物して顔を踏みたりける。この男、とばかりためらひて、やおら這ひ隠れぬ。
さて、者して、ここかしこ尋ねけれど、さらになし。人々も聞きあやしむほどに、年半(としなか)ばかり経て、隣2)の里の者、なすべきことありて、深き山に入りたるに、この男、おのづから行き会ひぬ。「あなあさまし。いましけるは」と言へば、「そのことなり。しかじか妻の女の当り侍りしに、道心の発(おこ)りて、『物欲し』と思ひて頼みて来たるかひもなく、はけはけと当りしに、まして、したることもなくて、あの世にて鬼に面踏(つらふ)まれんことこそ、悲しくあぢきなけれ。『しかじ、早くかかるうき世の中を遁れて、後世とらむ』と思ひて、やがてなん走り出でにしなり。さて、鎌を腰に差したりしをもちて、手づから髪を切り捨てて侍る。『僧に会ひて、剃刀(かんそり)してあらばや』と思ふなり。必ず僧具し聞こえておはせ」とぞ言ひける。さて、「食ひ物は、折にふれて木草の実あるを、石などにて打ち叩きて食へば、またく飢ゑに臨むことなし。折にふれつつ、風の吹き木の葉の変りゆくを、時にて楽しみ、身に余りて思ゆるなり」とぞ言ひける。
さて。里に行きて、そのよしを言ひければ、人々集まりて、僧あひ具して行きぬ。頭(かしら)剃り、戒たもちなどして、麻の衣・様々(やうやう)の物・袈裟なと用意したりければ、よよと装束きて、やかて奥ざまに行き隠れぬ。様々、食ひ物など持たせて行きたりけれども、ふつに目も見入れず、人にも何くれといふことなし。
その後、年ごろありて、人に一二度会ひたりけれども、鳥などのやうにて近くも寄らねば、ものなと言ひ語らふにも及ばずとなん。ついにはいかがなり侍りにけん。あはれにおぼつかなくこそ。
翻刻
中比常陸国にいふかひなきあやしの男あり けり春にて侍けるなめり田かへしになんまかれ りけるに(は)れいよりもけにすきいりぬへくおほえけ れはまた日もくれなくにいゑにかへりきにけり/上42ウb92
めなりける女いかにととかむれはされはこそけふ はいかに侍やらんもののくひたくてよはよはしくおほ ゆれはきたる也なににても物ようせよくはむと いふこの女おもはすにけにくくいらゑてさらは火ふ きてたきつけよといふ男火おふきけるにえなんふ きつけてわつらひけるをこの女あなにくのかたいや ふかくのものはとてはきものしてかほほふみたり けるこの男とはかりためらひてやおらはひかくれ/上43オb93
ぬさてものしてここかしこたつねけれと さらになし人々もききあやしむほとにとしなか はかりへて隣(トナリ)のさとのものなすへき事ありてふか き山にいりたるにこの男おのつからゆきあひぬ あなあさましいましけるはといへはその事也 しかしかめの女のあたり侍しに道心のおこりて ものほしと思ひてたのみてきたるかひもなく はけはけとあたりしにましてしたる事もなく/上43ウb94
てあのよにておににつらふまれん事こそかなしく あちきなけれしかしはやくかかるうきよの中を のかれて後世とらむとおもひてやかてなんはし りいてにし也さてかまをこしにさしたりし をもちててつからかみをきりすててはへる僧に あひてかんそりしてあらはやと思也かならすそうく しきこゑておはせとそいひけるさてくひものは をりにふれて木草のみあるを石なとにてうち/上44オb95
たたきてくへはまたくうゑにのそむ事なし をりにふれつつ風のふきこの葉のかはりゆくを ときにてたのしみ身にあまりておほゆる也 とそいひけるさてさとにゆきてそのよしを いひけれは人々あつまりて僧あひくしてゆきぬ かしらそりかひたもちなとしてあさの衣やうやう のものけさなとよういしたりけれはよよとさう そきてやかておくさまにゆきかくれぬさまさまくひ物/上44ウb96
なともたせてゆきたりけれともふつにめもみいれ す人にもなにくれといふ事なしそののちとし ころありて人に一二とあひたりけれともとりな とのやうにてちかくもよらねはものなといひかたらふ にもおよはすとなんついにはいかかなり侍にけんあはれ におほつかなくこそ/上45オb97