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text:kankyo:s_kankyo010

閑居友

上第10話 覚弁法師、涅槃経説きて高座にて終る事

覚弁法師涅槃経ときて高座にておはる事

覚弁法師、涅槃経説きて高座にて終る事

校訂本文

近うのことにや、伊賀の国に覚弁といふ僧ありけり。国中の者、みなこぞりて尊み仰(あふ)ぎけり。

かかるに、この国に五時の御法(みのり)を述べ説きて、人に縁を結ばすることありけり。そのころは、春の半ば二月をなん定めて、十五日を結願にしける。

ある時、この僧、かたへの人に言ふやう、「我は十四日に法華経を説き述ぶべきにて侍れども、いささか思ふやう侍り。十五日に替へて、涅槃経を説かんと思ふなり。替へ給ひてんや」と言ふ。この人、「いとやすきことなり。なじかは、これほどの小事に思しわづらひ給ふべき。さらなり」と言ふ。さて、悦びて返りぬ。

十五日には湯浴(ゆあ)み、頭(かしら)剃り、浄き物など着て、すでに高座に昇りて、法(のり)説くこと、常よりも尊し。みなあはれみあへり。

さて、この人言ふやう、「昔の唐土(もろこし)の竺道生の、『涅槃経を説く』とて、高座にて法説き終りて、やがて死に給ひけんこと、いみじく尊く侍り。あはれ、ただ今かくて死に侍らばや」など、言ひもあへず、さめざめと泣く。やや久しう顔も上げねば、「あやし」と思ふほどに、やがてなん身まかりにけるとなん。

このことを聞きしに、限りなくあはれに尊く思えき。高僧伝を見侍りしに、かの竺道生の所にて多くの涙をこぼせり。廬山の精舎1)にて、法座に昇りて法を説き給ふに、終りなんとせし時、たちまちに手に持ちたる麈尾2)の高座より落ちけるにぞ、涅槃に入りにけりとは知り初め侍りける。

すべてこの経は、いづれの経よりもなつかしき物から、わびしく悲しく侍り。まづ初めに、「かくのごとく我聞きき。一時、仏物尸那城力士生池阿利羅跋提河3)のほとり沙羅双樹4)の間にましましき」と言ふより、何となく涙浮びて、心細くあぢきなし。心もみな浮き立ちて、何のあやめ思えず。あやしの虫・鳥なとの類(たぐひ)も、みな参り臨みけるに、「いかなる罪の報ひにて、その時いづれの所にありて、参り合はざりけん」と、さらに身も恨めしく、かきくらしてぞ思ゆる。

しかあるに、この覚弁の君の、経を説きて、その座にて終りを取りけん、いたうあはれに侍る。

かの唐土の道希法師の、天竺にむかひて倶尸那城般涅槃寺5)に住みわたり侍りけるを、のちに灯法師6)の尋ね行きて見ければ、身まかりにけると思しくて、漢字7)の経ばかり残りて侍りけるは、ことにいとほしく、尊く聞こゆるぞかし。このこと、『遊心集』に形(かた)ばかり載せ侍りしにや。

翻刻

ちかうの事にやい賀の国に覚弁といふ僧ありけり
国中の物みなこそりてたうとみあふきけりかか
るにこのくにに五時のみのりをのへときて人にゑん
をむすはする事ありけりそのころは春のなかは
二月をなんさためて十五日お結願にしけるあると
きこの僧かたへの人にいふやう我は十四日に法花経を
ときのふへきにて侍れともいささかおもふやう侍り十五
日にかへてねはん経をとかんとおもふ也かへ給てんやと/上28ウb64
いふこの人いとやすき事也なしかはこれほとの小事に
おほしわつらひ給へきさら也といふさて悦て返ぬ十
五日にはゆあみかしらそりきよきものなときてす
てにかうさにのほりてのりとく事つねよりもたう
としみなあはれみあへりさてこの人いふやう昔の
もろこしの竺道生のねはん経をとくとてかうさ
にてのりときおはりてやかてしにたまひけん事
いみしくたうとく侍あはれたたいまかくてしに侍ら/上29オb65
はやなといひもあえすさめさめとなくややひさしう
かほもあけねはあやしと思ほとにやかてなん身まかり
にけるとなんこの事をききしにかきりなくあ
はれにたうとくおほえき高僧伝をみ侍しにかの竺
道生の所にておほくのなみたおこほせり廬山の精舎(シヤウシヤ)
にて法座にのほりてのりをとき給におはりなんと
せしときたちまちにてにもちたる麈尾(シユヒ)のかうさ
よりおちけるにそねはんにいりにけりとはしり/上29ウb66
そめ侍けるすへてこの経はいつれの経よりもなつか
しきものからわひしくかなしく侍まつはしめに
かくのことくわれききき一時仏物尸那城(クシナシヤウ)力士生池(リキシシヤウチ)
阿利羅跋提河(アリラハツタイカ)のほとり沙羅双樹(サラサウシュ)のあひたにま
しましきといふよりなにとなくなみたうかひて心ほ
そくあちきなし心もみなうきたちてなにの
あやめおほえすあやしのむしとりなとのたくひ
もみなまいりのそみけるにいかなるつみのむくひに/上30オb67
てそのときいつれの所にありてまいりあはさり
けんとさらに身もうらめしくかきくらしてそ
おほゆるしかあるにこの覚弁の君の経をとき
てその座にてをはりおとりけんいたうあはれに侍
かのもろこしの道希法師の天竺にむかひて倶(ク)尸
那城般涅槃寺(ナシヤウハツネツハンシ)にすみわたり侍けるをのちに燈(トウ)法師
のたつねゆきてみけれは身まかりにけるとおほしく
て漢字(カンシ)の経はかりのこりて侍けるはことにいとをしく/上30ウb68
たうとくきこゆるそかしこの事遊心集にかたはか
りのせ侍しにや/上31オb69
1)
底本「シヤウシヤ」と傍書あり。
2)
底本「シユヒ」と傍書あり。
3)
底本「クシナシヤウリキシシヤウチアリラハツタイカ」と傍書あり。
4)
底本「サラサウシュ」と傍書あり。
5)
底本「クシナシヤウハツネツハンシ」と傍書あり。
6)
底本「灯」に「トウ」と傍書あり。
7)
底本「カンシ」と傍書あり。
text/kankyo/s_kankyo010.txt · 最終更新: 2015/06/07 21:19 by Satoshi Nakagawa