ユーザ用ツール

サイト用ツール


text:k_konjaku:k_konjaku9-32

今昔物語集

巻9第32話 侍御史孫廻璞依冥途使錯従途帰語 第卅二

今昔、震旦の□□代1)に、侍御史として、廻璞と云ふ人有けり。済州の人也けり。貞観十三年と云ふ年、車駕に従て、九成宮に幸ぬ。三善谷に居す。魏の大師2)と隣家に有り。

此の人、昔し、夜る亥の時許に、門の外に、人の、「孫の侍御史」と喚ぶ音有り。廻璞、立出でて、見て云く、「此れ、隣の大師の命か」と云て、既に出でて、二の人を見る。此の二の人、廻璞に云く、「官に汝を召す。速に参るべし」と。廻璞が云く、「我れ行歩に堪へず」。使の云く、「然ば、馬に乗て参るべし」と。

廻璞、家の内に有る馬を曳出でて、乗て、二の人に従て行く。見れば、天地、昼の如く也。日の光の朗なる也。悟て廻璞、恐れて、敢て云ふ事無し。

此の二人の使、廻璞を北の谷の口に引て、朝堂の東北を歴て、六・七里行て、苜蓿の谷に至るに、遥に見れば、亦、二の人有て、韓の鳳方と云ふ人を引て将行く。廻璞を引ける二人の使に云く、「汝等、錯(あやま)れり。我が将行く人、此れ也。汝等、宜く其の人を放て」と。

其の言に随て、此の二の人、廻璞を放ち捨て去ぬ。然れば、廻璞、道に任せて帰る事、只常の道を行くに異らず。

既に家に帰り至て、馬より下て、入ぬ。馬を繋て、寝屋へ入らむと為るに、其の道に、一人の婢、睡たり。此れを喚ぶに、答へず。超て、内に入ぬ。見れば、我が身は妻と共に眠れり。此の我が身に付むと為るに、付く事を得ず。

然れば、南の壁に付て立てり。音を高く挙て、妻を喚ぶに、妻、更に答へず。家の内、極て明らか也。壁の角の中を見るに、蜘蛛の網有り。網の中に二の蠅有り。一は大に、一は小し。亦、梁の上の所を見るに、薬物を置たり。所として、明らかならずと云ふ事無し。但し、自ら床に行く事を得ず。

其の時に、「我れは死たりけり」と思ふに、甚だ恐ろし。恨むらくは、妻と共なる事を得ざる事を憂ふ。別れて、南の壁に寄り至て有る程に、眠入にけり。

久く有て、忽に驚たれば、身は既に床の上に有て、暗くして、見ゆる者無し。傍に、妻、眠たり。妻を驚して、此の事を語る。妻、此れを聞て、火を燃すに、廻璞が身に大に汗出たり。起て、見つる蜘蛛の網を見るに、惣て無し。馬を見るに、亦、馬に汗出たり。此の夜、韓の鳳方、暴(にはか)に死にけり。

其の後、十七年に至て、廻璞、勅を奉(うけたまはり)て、斉の主3)の祐病有るを療す。其れより帰る間、洛州の東の孝義の駅に至るに、忽に見れば、一の人来て、廻璞に問て云く、「君は、此れ孫の廻璞か否や」と。答て云く、「我れ然也。君、我れを問ふ、何の故ぞ」と。人、答て云く、「我れは、此れ鬼也。魏の大師の文書有り。廻璞に示す」と。

廻璞、此れを取て見るに、「鄭国公魏徴署也」と。廻璞、驚て云く、「鄭公、未だ死なず。何ぞ、我れを追て、書を送る」と。鬼の云く、「鄭公、既に死たり。今、其の人、大陽の都録大監と成れるが故に、我れを遣して、君を召す」と。

其の時に、廻璞、鬼を座に居(す)へて、食せしむ。鬼、甚だ喜て、廻璞に謝す。廻璞、鬼に乞ひ請て云く、「我れ、勅を奉て、斉州に行て、未だ帰らず。鄭公、我れを追ふ宜(べから)ず。我れ、京に帰て、事を奏し畢なむを待て、其の後に命を聴むに、何ぞ」と。鬼、此れを免す。

此の鬼、昼は同く行き、夜は即ち同宿す。遂に閿郷に至て、鬼の云く、「我が過む所の関を渡るべし。君が事を奏し畢らむを待て、相見るべき也。君、葷辛を食する事無かれ」と。廻璞、其の言に随ふべき由を受けつ。

廻璞、既に京に帰て、事を奏し畢て、鄭公を尋ぬるに、既に薨じにけり。其の薨ぜる日を挍(かんがふ)るに、即ち、彼の孝義の駅に有し前の日也。思ひ合するに、違ふ事無し。然れば、廻璞、自ら必ず死なむずる事を知て、家の人と相ひ議して、僧を請て、道を行ぜしめ、仏像を造り、経巻を写す。

此の如く為る事、六・七日許有るに、廻璞、夜る夢に、前の鬼来て、既に召す。廻璞を引て、高山に上る。山の巓に大なる宮殿有り。既に、其の宮殿に入るに、宮殿の内に衆有て、廻璞を見て云く、「此の人は善根を修せり。此れを止むべからず。放ち去るべし」と云て、即ち、廻璞を推て、山より堕すと思ふ程に、驚き悟ぬ。

其の時、廻璞、思はく、「我れ、善根を修して、今、死を免るる事を得る也」と思て、喜ぶ事限無し。其の後、恙無くして、久く有けりとなむ、語り伝へたるとや。

1)
底本頭注「代ノ上唐ノトアルベシ」
2)
魏徴
3)
底本頭注「主一本王に作る」
text/k_konjaku/k_konjaku9-32.txt · 最終更新: 2017/02/25 12:01 by Satoshi Nakagawa