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十訓抄 第六 忠直を存ずべき事

6の34 小野右大臣とて世には賢人右府と申す・・・

校訂本文

小野右大臣1)とて、世には賢人右府と申す。若くより思はれけるは、身にすぐれたる才能なければ、何事につけても、その徳あらはれがたし。まことに賢人を立てて、名を得ることをこひ願ひて、一すぢに廉潔の振舞ひをぞし給ひける。

かかれども2)、人、さらに許さず。かへりて嘲るたぐひもあるほどに、あたらしく家を造りて、移徙せられける夜、火鉢なる火の、御簾のへりに走りかかりけるが、やがても3)消えざりけるを、しばし見給ひけるほどに、やうやうくゆりつきて、次第に燃え上がるを、人あさみて寄りけるを制して、消さざりけり。

火、大きになりける時、笛ばかりを取りて、「車寄せよ」とて出で給ひにけり。いささか物をも取り出だすことなし。

これより、おのづから賢者の名あらはれて、御門より始め奉りて、ことのほかに感じて、もてなされけり。かかるにつけては、げにも家一つ焼けむこと、かの殿の身には数にもあらざりけんかし。

ある人、のちにそのゆゑを尋ね奉りければ、「わづかなる走り火の、思はざるに燃え上がる、たたごとにあらず。天の授くる災ひなり。人力にてこれを競(きほ)はば、これより大きなる身の大事出で来べし。何によりてか、あながち4)に家一つを惜しむにたらむ」とぞ言はれける。

そののち、ことにふれて、かやうの振舞ひ絶えざりければ、つひに賢人といはれてやみにけり。のちざまには、鬼神の所変なども見あらはされけるとかや。「好正直与不廻而精誠通於神明」と曹大家5)が「東征賦」に書ける、今思ひ合はせられていみじ。

かかればとて、いやしからんたぐひ、この真似をすべきにあらねども、ほどほどにつけて、「賢の道ひとしからんことを思へ」となり。

この殿6)、若くより賢人の一すぢのみならず、思慮のことに深く、情け、人にすぐれておはしけり。

円融天皇の御時、頭中将にて、殿上に候ひ給ひけるに、式部丞蔵人藤原貞高といふ人、大盤につきたるが、頓死したりけるを、頭、奉行にて、奏司下部を召して、かき出ださせられけるに、「何方より出づべきぞ」と申しければ、「東陣より出づへきぞ」と行はれけるに、蔵人所衆・滝口・出納・御倉・女官・主殿、同じく下部どもにいたるまで、そこらの者ども、「これを見む」とて、東陣へ競(きほ)ひ集るほどに、「殿上の畳ながら西陣より出だせ」とのたまひければ、引き違へて、西より出だしけれは、見る者なくて、陣の外へ出でたるを、父の三位7)来て、むかへ取りてけり。

そののち、十日ばかりして、頭中将、夢に蔵人、内に参りあひぬ。「死の恥を隠させ給ひたる、よにも忘れがたし。東より出でましかば、多くの人に見えなまし」と言ひて、手をすりて泣く泣く喜ぶと見えけり。

公任卿8)、この殿を聟にとりて、始めに入り申されけるとき、朗詠上下巻9)撰びて、置物の厨子に置かれたりける、ゆゆしき聟引出物にこそ。

翻刻

三十五小野右大臣トテ世ニハ賢人右府ト申、ワカクヨリ思ハレ
      ケルハ、ミニ勝タル才能ナケレハ、何事ニ付テモ其徳
      アラハレカタシ、誠ニ賢人ヲ立テ名ヲ得事ヲコヒ
      ネカヒテ、一スチニ廉潔ノ振舞ヲソシ給ケルカシト
      人更ニ不許カヘリテ嘲ル類モ有程ニ、アタラシク家
      ヲ造テ移徙セラレケル夜、火鉢ナル火ノ、ミスノヘリニ
      ハシリカカリケルカ、ヤアテモキエサリケルヲ、シハシ見
      給ケルホトニ、ヤウヤウクユリツキテ次第ニモエアカルヲ、/k94
      人アサミテヨリケルヲ制シテケササリケリ、火大ニ
      ナリケル時、笛斗ヲトリテ、車ヨセヨトテ出給ニケリ、
      聊物ヲモ取出事ナシ、是ヨリ自賢者ノ名顕テ、
      御門ヨリ始奉テ、事外ニ感シテモテナサレケリ、
      カカルニ付テハ、ケニモ家一ヤケム事彼殿ノ身ニハ
      数ニモアラサリケンカシ、或人後ニ其故ヲ尋奉リ
      ケレハ、ワツカナルハシリ火ノ思ハサルニモエアカル、タタ
      事ニアラス、天ノ授ル災ナリ、人力ニテ是ヲキホハハ、
      是ヨリ大ナル身ノ大事出クヘシ、ナニニヨリテカナ
      カチニ家一ヲ惜ニタラムトソイハレケル、其後事ニフ
      レテカヤウノ振舞タエサリケレハ、ツヰニ賢人トイハレ/k95
      テヤミニケリ、後サマニハ鬼神ノ所変ナトモ見アラ
      ハサレケルトカヤ、好正直与不廻而精誠通於神明
      ト曹大家カ東征賦ニ書ル、今思合ラレテイミシ、カ
      カレハトテイヤシカランタクヒ、此マネヲスヘキニアラ
      ネトモ、程々ニ付テ賢ノミチヒトシカラン事ヲ思ヘ
      ト也、此故若クヨリ賢人ノ一筋ノミナラス、思慮ノ
      殊ニ深ク、情ケ人ニ勝レテオハシケリ、
三十六円融天皇ノ御時、頭中将ニテ殿上ニ候給ケルニ、式部丞
      蔵人藤原貞高ト云人、大盤ニ付タルカ、頓死シタリケ
      ルヲ、頭奉行ニテ奏司下部ヲ召テカキ出サセラレ
      ケルニ、何方ヨリ出ヘキソト申ケレハ、東陣ヨリ出ヘキソ/k96
      ト被行ケルニ、蔵人所衆滝口出納御倉女官主殿
      同下部トモニイタルマテ、ソコラノ者トモ、是ヲ見トテ
      東陣ヘ競ヒ集ルホトニ、殿上畳ナカラ西陣ヨリ出
      セトノ給ケレハ、引違テ西ヨリ出シケレハ、見物ナクテ
      陣ノ外ヘ出タルヲ、父三位来テムカヘ取テケリ、其後
      十日斗シテ、頭中将夢ニ蔵人内ニ参リ相ヌ、死ノ
      恥ヲカクサセ給タル、ヨニモワスレカタシ、東ヨリ出マシ
      カハ、多ノ人ニ見エナマシト云テ、手ヲスリテ泣々喜ト
      ミエケリ、公任卿此殿ヲ聟ニトリテ、始メニ入マウサ
      レケルトキ、朗詠上下巻エラヒテヲキ物ノ厨子ニヲ
      カレタリケル、ユユシキムコ引出物ニコソ、/k97
1)
藤原実資。通常は「小野宮右大臣」。
2)
底本「かしと」。諸本により訂正。
3)
底本「やあても」。諸本により訂正。
4)
「あながち」、底本「あ」なし。諸本により訂正。
5)
班昭
6)
「殿」は底本「故」。諸本により訂正。
7)
藤原実光
8)
藤原公任
9)
『和漢朗詠集』
text/jikkinsho/s_jikkinsho06-34.txt · 最終更新: 2016/01/26 15:15 by Satoshi Nakagawa
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