十訓抄 第三 人倫を侮らざる事
3の16 行基菩薩は和泉国大鳥の郷に生まれ弘法大師は讃岐国多度郡より出で給へり・・・
校訂本文
行基菩薩は和泉国大鳥の郷に生まれ、弘法大師は讃岐国多度郡より出で給へり。みなこれ辺鄙の民間を離れずといへども、おのおの権者の名を示し1)給へり。
吉備大臣2)は左衛門尉国勝3)の子なり。粟田左大臣4)は但馬介有頼5)が息にて、二人ながらその父賤しけれども、才能を賞せられしかば、大臣のやむごとなき官になれにき。
後漢書にいはく、
胡広累世之農夫也。伯始致位公相。
黄憲牛医之賤子也。叔度動名京師。
しかのみならず、傅説が殷宗の夢の内に入りし志、すみやかに民を渡す船となり、呂尚が周文の車の右に乗りし、すなはち、世を治むる器たりき。かれこれ賤老の身なりといへども、誤たで輔佐に至る。賢才かかはらざるがゆゑなり。
一条院御製にいはく、
殷帝詔厳郊野月
周文礼厚渭陽風
「所貴是賢才」といへることを、かの二人によせて作らせ給へるなり。
虞舜は雷沢の漁父なりけれども、後に帝位に登り、甯戚は牛口の疋者たりながら、つひに国政にのぞむ。
「桀紂は6)天子たりし。顔閔7)がいやしき身に劣れり」といへるも、賢愚を交へるにたとへたり。
かたがた、「人をば品(しな)を侮らずして、心を賞すべし」と思えたり。これらを思ふには、「下れる者、いまだ必ず愚ならず」といへる、はたして詞(ことば)のごとし。
また、「その人にあらずして、その官に居る、これを少人といへり。少人の官にある、しばらく闕けたるにはしかず」とも。まことに、累世清花の人なりとも、器量の及ばざらむには、氏を継ぎがたし。少人とは年の若きをいふにはあらず。才の愚かに慮(おもんばか)りの短きをいふなり。
また、「道徳あるを天子といひ、道徳なきを小人とす」ともいひたれば、たとひ国の主なりとも、その心愚かならば、この名をはなれ給ふべからず。すべてやんごとなき智者なればとても、一筋に仰(あふ)ぐに足らず。凡夫なれば、おのづから失あらむことを疑ふべきなり。
かねてまた、人倫のことはさておきつ。神祇を侮り、なきがしろにせし漢家の国王、帝運久しからず。仏法を軽め退けしわが朝の逆臣、天の殃(わざわ)ひをまぬがれず。いはんや、庶人の身においてをや。
翻刻
ト、伽陀ヲ誦シテオカマレケリ、行基菩薩ハ和泉国 大鳥ノ郷ニムマレ、弘法大師ハ讃岐国多度郡ヨリ 出給ヘリ、皆是辺鄙ノ民間ヲハナレストイヘトモ各権 者ノ名(本ノ) 給ヘリ吉備大臣ハ左衛門尉 国勝之子也、粟田左大臣ハ但馬介有頼カ息ニテ、二/k135
人ナカラ其父賤ケレトモ、才能ヲ賞セラレシカハ、大臣 ノヤム事ナキ官ニ成レニキ、後漢書云 胡広累世之農夫也、伯始致位公相、 黄憲牛医之賤子也、叔度動名京師、 加之傅説カ殷宗ノ夢ノ内ニ入シ志速民ヲ渡ス船 トナリ呂尚カ周文ノ車ノ右ニ乗シ、即世ヲ治ル器タ リキ、彼此賤老ノ身也トイヘトモ誤テ輔佐ニイタル、 賢才カカハラサルカ故也、一条院御製曰、 殷帝詔厳郊野月、周文礼厚渭陽風 所貴是賢才ト云ル事ヲ、彼二人ニヨセテ作ラセ給/k136
ヘルナリ、 虞舜ハ雷沢ノ漁父ナリケレトモ、後ニ帝位ニ登リ、寗 戚ハ牛口ノ疋者タリナカラ終ニ国政ニ望ム、(本ノ) 天子タリシ、顔閔カイヤシキ身ニ劣レリトイヘルモ賢 愚ヲ交ルニタトヘタリ、旁人ヲハシナヲ侮スシテ心ヲ 賞ヘシト覚タリ、此等ヲ思ニハクタレルモノ未必愚ト云 ヘル、ハタシテ詞ノ如シ、又其人ニ非スシテ其官ニ居是 ヲ少人ト云リ、少人ノ官ニアル暫闕タルニハシカストモ マコトニ累世清花ノ人ナリトモ、器量ノ及ハサラムニ ハ、氏ヲ継キ難シ、少人トハ年ノ若ヲ云ニハ非ス、才ノヲ/k137
ロカニ慮ノ短キヲ云也、又道徳アルヲ天子ト云ヒ、道 徳ナキヲ小人トストモ云タレハ、仮国ノ主ナリトモ其 心ヲロカナラハ、此名ヲハナレ給ヘカラス、惣テ無止智者 ナレハトテモ、一スチニアフクニタラス、凡夫ナレハオノツカ ラ失アラム事ヲ疑ヘキ也、兼又人倫ノ事ハサテヲ キツ、神祇ヲアナツリナキカシロニセシ漢家ノ国王、 帝運不久、仏法ヲ軽メ退ケシ吾朝ノ逆臣、天ノ殃 ヲマヌカレス、況ヤ庶人ノ身ニヲイテヲヤ、/k138