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発心集

第八第12話(100) 前の兵衛尉、遁世往生の事

校訂本文

近く、前兵衛尉なる男ありけり。弟は検非違使になり、大夫少輔(たいふのせふ)まで至りて世にあひたるを、かく数ならぬことの心憂く思えければ、年ごろ賀茂につかうまつる者にて、ことに信をいたして、うち続き日ごろ詣でつつ、泣く泣くこのことを祈り申す間に、御殿に居したりける夜、夢に見るやう、御前に候ひて、うつつにも思ふことどもを、涙を流しつつ、かきくどき申すほどに、宝殿の御戸(みと)を開き給ふ。「あな、かたじけな」と畏(かしこま)り恐れて、え眼をあてず。うつぶしたるに、夜のうちの、ことに明かくなるやうに思ゆるを、あやしくて、きと見上げたれば、社の内、阿弥陀如来、あきらかに現じ給へり。その御光の十方に輝(かかや)けるなり。いと貴く、めでたく思えて、涙を流しつつ、拝み奉ると思ふほどに、夢覚めぬ。

その後、つくづくとこのことを思ふに、「わが申すことを、聞こしめし入れぬことを思ひてこそ口惜しかりつれ、かくあらはれて見給ふにては、もし、この生のことは、前の世の業報にて、神も力及び給はぬか。また、今生は思しめすがごとくして、本地のおはします方をあらはし給へるは、御はからひ浅からぬことなめり」と頼もしく思えけるより、さるべきにやありけん、心発(おこ)すて、やがて、頭(かしら)おろしてけり。

その後、現世のことの、「夢幻(ゆめまぼろし)の栄えなりけり」と思ひ知られて、ことにふれつつ、「これぞ、まことにすぐれたる神徳なりけり」と、かの夢の中の御有様の心にかかりて、めでたく頼もしく思えければ、寝ても覚めても、念仏ひまなく申して、明かし暮らしけるほどに、二三日わづらひて、いたくも悩まず、臨終正念にて、願ひのごとく、念仏たかく申して終りにけり。

まことに、浮雲(ふうん)のとてもかくてもありぬべし。これもかの桓舜僧都1)のたぐひにこそ。世の思ふやうならぬより、得脱すべき縁のありけるにこそ。

翻刻

  前兵衛尉遁世往生事
近ク前兵衛尉ナル男アリケリ。弟ハ検非違使成
大夫少輔マデ至リテ世ニアヒタルヲカク数ナラヌ
事ノ心ウク覚ヘケレハ。年来賀茂ニツカウマツル者ニ
テコトニ信ヲ至シテ打ツツキ日来詣ツツ泣々コノ
事ヲ祈リ申間ニ御殿ニ居シタリケル夜夢ニ見様。/n25r
御前ニ候テウツツニモ思フ事ドモヲ涙ヲナガシツツ
カキクドキ申程ニ。宝殿ノ御戸ヲヒラキ給フ穴忝
ナト畏リ恐レテエ眼ヲアテス。ウツブシタルニ。夜ノ中
ノ殊ニアカクナル様ニ覚ユルヲ。アヤシクテキト見
アケタレバ社ノ内阿弥陀如来アキラカニ現シ給ヘリ
其御光ノ十方ニカカヤケルナリ。イトタウトク目出
覚テ涙ヲ流ツツ拝奉ルト思フ程ニ夢サメヌ。其後
ツクツクト此事ヲ思フニ我カ申事ヲ聞食召入ヌ
事ヲ思ヒテコソ口惜カリツレ。カクアラハレテ見
給ニテハ。モシ此生ノ事ハ前ノ世ノ業報ニテ神/n25l
モチカラ及ビ給ハヌカ。又今生ハ思食カ如クシテ本
地ノオハシマスカタヲ。アラハシ給ヘルハ御計ヒ浅カラ
ヌ事ナメリト憑敷オボヘケルヨリサルベキニヤ有
ケン。心発テ軈テカシラヲロシテケリ。其後現世ノ
事ノ夢マホロシノサカヘナリケリト思ヒシラレテ。事
ニフレツツ是ゾ誠ニスグレタル神徳ナリケリト彼
夢ノ中ノ御有様ノ心ニカカリテ目出ク憑シク覚
ヘケレバ寝テモ覚テモ念仏ヒマナク申テ明シ暮シ
ケル程ニ二三日煩ヒテ。イタクモナヤマズ。臨終正
念ニテ願ノゴトク念仏タカク申テ終リニケリ。/n26r
誠ニ浮雲ノトテモカクテモアリヌベシ。是モカノ
桓舜僧都ノタグヒニコソ。世ノ思フヤウナラヌヨリ
得脱スベキ縁ノアリケルニコソ/n26l
1)
神宮文庫本『発心集』第三にある。
text/hosshinju/h_hosshinju8-12.txt · 最終更新: 2017/08/15 12:53 by Satoshi Nakagawa
CC Attribution-Share Alike 4.0 International
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