text:hosshinju:h_hosshinju8-03
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— | text:hosshinju:h_hosshinju8-03 [2017/08/08 12:51] (現在) – 作成 Satoshi Nakagawa | ||
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+ | 発心集 | ||
+ | ====== 第八第3話(91) 仁和寺西尾の上人、我執に依つて身を焼く事 ====== | ||
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+ | ===== 校訂本文 ===== | ||
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+ | 近き世のことにや、仁和寺の奥に、同じさまなる聖二人ありけり。一人を西尾の聖といふ。今一人をば東尾の聖と名付けたり。 | ||
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+ | この二人の聖、ことにふれて徳をいとなみ、一人は如法経書けば、一人は如法念仏す。一人、五十日逆修すれば、一人は千日講を行ひなど、互ひに劣らじとしければ、人もひきひきに方々別れつつ結縁しけり。 | ||
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+ | 年ごろ、かくのごとくいとなむ間、「西尾の聖、身灯すべし」といふこと聞えて、結縁すべき人、貴賤道俗、市をなして貴みこぞる。東尾の聖、これを聞きて、「狂惑のことにこそあらめ」とて信ぜざるほどに、つひに期日(ごにち)になりて、弟子どもいみじく囲繞(ゐねう)して、念仏して、火屋に火をさす。 | ||
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+ | ここら集まりし人、涙を流しつつ尊みあへるほどに、火中にて、念仏二百返ばかり申して、つひにいみじく貴げなる声にて、「今ぞ、東尾の聖に勝ち果てぬる」と言ひてなむ、終りにける。 | ||
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+ | このことを聞かぬ人は、「貴し」とて、袖をうるほして去りぬ。おのづからもれ聞ける者は、思はずに、「こは何ごとぞ。いと本意(ほい)ならず。妄念なりや。さだめて、天狗などにこそはなるべかりぬれ。益(えき)なき結縁をしてげるかな」なんど言ひけり。まことに、あらたに身命を捨てて、さる心を発(おこ)しけん。めづらしき身なるべし。 | ||
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+ | ある人、語りていはく、 | ||
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+ | 「唐(もろこし)に帝(みかど)おはしけり。夜いたう更けて、灯(ともしび)壁にそむけつつ、寝所に入りて静まりぬるほどに、火(ほ)の影にかげろうものあり。あやしくて、寝入りたる様にて、よく見給へば、盗人なるべし。ここかしこに歩(あり)きて、御宝物(おんたからもの)・御衣(ぎよい)など取りて、大きなる袋に入れて、いとむくつけなく思されて、いとど息音(いきおと)もし給はず。 | ||
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+ | かかる間、この盗人、御傍らに『薬合はせん』とて、灰焼き置かれたりけるを見付けて、さうなくつかみ食ふ。『いとあやし』と見給ふほどに、とばかりありて、うち案じて、この袋なる物ども取り出でて、みなもとのごとく置きて、やをら出でなんとす。 | ||
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+ | その時、帝、いと心得がたく思して、『なんぢは何者ぞ。いかにも人の物を取り、また、いかなる心にて返し置くぞ』とのたまふ。申していはく、『われは某(それがし)と申し候ひし大臣が子なり。幼くて父にまかりおくれて後、堪へて世にあるべきたつきも侍らず。さりとも、今さらに人の奴(やつこ)とならんことも、親のため、心憂く思ひ給ふべき。念じて過し侍りしかど、今は命も生くべきはかりごとも侍らねば、『盗人をこそつかまつらめ』と思えて侍るにとりて、なみなみの人の物は、主の歎き深く、取り得て侍るにつけて、もの清(ぎよ)くも思え侍らねば、かたじけなくも、かく参りて、まづ物の欲しく侍りつるままに、灰を置かれて侍りけるを、『さるべき物にこそ』と思ひて、これを食べつるほどに、物の欲しさ直りて後、灰にて侍りけることをはじめて悟り侍れば、『せめては、かやうの物をも食し侍りぬべかりけり。よしなき心を発(おこ)し侍りけるものかな』と悔しく思ひて』なんど申す。 | ||
+ | |||
+ | 帝、つぶさにこのことを聞き給て、御涙を流され感じ給ふ。『なんぢは盗人なれども、賢者なり。心の底いさぎよし。われ、王位にあれども、愚者といふべし。むなしく忠臣の跡を失へり。早くまかり帰り候へ。明日、召し出だし、父の跡をおこさしめん』と仰せられければ、盗人、泣く泣く出でにけり。 | ||
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+ | その後、本意(ほい)のごとく仕へ奉りて、すなはち、父の跡をなむ伝へたりける」。 | ||
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+ | しかれば、上人の身命を捨てしも、他にすぐれ、名聞を先とす。貧者が財宝を盗めるも、清くうるはしき心あり。すべて、人の心の中、たやすく余所(よそ)にはかりがたきものなり。されば、「魚にあらざれば、水の楽しみを知らず」といふも、この心なるべし。 | ||
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+ | ===== 翻刻 ===== | ||
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+ | 仁和寺西尾上人依我執焼身事 | ||
+ | 近世ノ事ニヤ仁和寺ノ奥ニ同サマナル聖二人アリ | ||
+ | ケリ。独リヲ西尾ノ聖ト云。今ヒトリヲバ東尾ノ聖 | ||
+ | ト名付タリ。此二人ノ聖事ニフレテ徳ヲイトナミ | ||
+ | 独ハ如法経カケバ。独ハ如法念仏ス。ヒトリ五十日 | ||
+ | 逆修スレバ独ハ千日講ヲ行ナド互ニオトラジト | ||
+ | シケレバ。人モヒキヒキニ方々別ツツ結縁シケリ。年比/n7r | ||
+ | |||
+ | 如此イトナム間。西尾ノ聖身灯スベシト云事聞ヘ | ||
+ | テ結縁スベキ人貴賤道俗市ヲナシテタウトミコ | ||
+ | ゾル。東尾ノ聖是ヲ聞テ狂惑ノ事ニコソアラメト | ||
+ | テ信ゼザル程ニツヰニ期日ニナリテ弟子ドモイ | ||
+ | ミジク囲繞シテ念仏シテ火屋ニ火ヲサス。ココラア | ||
+ | ツマリシ人涙ヲ流ツツ尊ミアヘル程ニ。火中ニテ念 | ||
+ | 仏二百返バカリ申テ。終ニイミジクタウトゲナル声 | ||
+ | ニテ今ソ東尾ノ聖ニカチハテヌルト云テナムオハ | ||
+ | リニケル。此事ヲ聞ヌ人ハタウトシトテ袖ヲウルホ | ||
+ | シテサリヌ。ヲノヅカラモレ聞ケル者ハ思ハスニコハ何/n7l | ||
+ | |||
+ | 事ゾイト本意ナラズ妄念ナリヤ。定テ天狗ナドニ | ||
+ | コソハ成ベカリヌレ。益ナキ結縁ヲシテゲルカナナム | ||
+ | ド云ケリ。実ニアラタニ身命ヲ捨サル心ヲ発シ | ||
+ | ケン。メヅラシキ身ナルベシ。或人カタリテ云。唐ニ帝 | ||
+ | オハシケリ。夜イタウ更テ灯壁ニソムケツツ寝所ニ | ||
+ | 入テシヅマリヌル程ニ。ホノカゲニカゲロウ物アリ。ア | ||
+ | ヤシクテ寝入タル様ニテ能見給ヘバ盗人ナルベシ。コ | ||
+ | コカシコニアリキテ。御タカラ物御衣ナド取テ大ナ | ||
+ | ル袋ニ入テイトムクツケナクオボサレテ。イトトイキヲ | ||
+ | トモシ給ハズ。カカル間此盗人御カタハラニ薬合セン/n8r | ||
+ | |||
+ | トテ灰焼ヲカレタリケルヲ見ツケテ。サウナクツカ | ||
+ | ミ喰。イトアヤシト見給ホドニトバカリアリテ打 | ||
+ | 案ジテ此袋ナル物トモ取出テ皆モトノ如ク置 | ||
+ | テヤヲラ出ナントス。其時御門イト心得ガタクオ | ||
+ | ボシテ汝ハ何者ゾイカニモ人ノ物ヲトリ又イカナ | ||
+ | ル心ニテ返シ置ゾトノ給フ。申シテ云ク我ハ某ト申 | ||
+ | 候シ大臣カ子ナリ。ヲサナクテ父ニ罷ヲクレテ後 | ||
+ | 堪テ世ニ在ヘキタツキモ侍ラズ。サリトモ今更ニ人ノ | ||
+ | ヤツコトナラン事モ親ノ為心ウク思給ベキ。念ジ | ||
+ | テ過シ侍シカド。今ハ命モイクベキハカリコトモ/n8l | ||
+ | |||
+ | 侍ラネバ盗ヲコソ仕ラメト覚テ侍ニトリテ。ナミナミ | ||
+ | ノ人ノ物ハ主ノ歎キ深ク取得テ侍ニツケテ。モノ | ||
+ | ギヨクモ覚ヘ侍ラネバ。忝モカク参リテ先物ノホシク | ||
+ | 侍ツルママニ灰ヲ置レテ侍リケルヲサルベキ物ニコソ | ||
+ | ト思テ是ヲタベツル程ニ。物ノホシサナヲリテ後灰 | ||
+ | ニテ侍ケル事ヲハジメテ悟リ侍レバ。セメテハカヤウ | ||
+ | ノ物ヲモ食シ侍ヌベカリケリ。由ナキ心ヲ発シ侍 | ||
+ | ケル物カナトクヤシク思テナムド申ス。帝ツブサニ此 | ||
+ | 事ヲ聞給テ御涙ヲ流サレ感シ給。ナンヂハ盗人ナ | ||
+ | レドモ賢者也。心ノ底イサギヨシ。我王位ニアレドモ/n9r | ||
+ | |||
+ | 愚者トイフベシ。空忠臣ノ跡ヲ失ヘリ。早マカリ帰候ヘ | ||
+ | 明日召出父ノ跡ヲ起サシメント被仰ケレバ。盗人泣 | ||
+ | 泣出ニケリ。其後本意ノ如ク仕ヘ奉リテ即父ノ跡 | ||
+ | ヲナム伝ヘタリケル。然レハ上人ノ身命ヲ捨シモ勝他 | ||
+ | 名聞ヲ先トス。貧者ガ財宝ヲヌスメルモ清クウルハシ | ||
+ | キ心アリ。惣テ人ノ心ノ中タヤスク余所ニハカリガタ | ||
+ | キ物ナリ。サレバ魚ニアラザレバ水ノ楽ヲシラズト云 | ||
+ | モ此心ナルベシ/n9l | ||
text/hosshinju/h_hosshinju8-03.txt · 最終更新: 2017/08/08 12:51 by Satoshi Nakagawa