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発心集

第七第4話(79) 賀茂の女、常住仏性の四字を持ち往生の事

校訂本文

中ごろ、賀茂女といふ歌詠みあり。ことにふれて、名高き人ありけり。賀茂保憲(ほうけん)が孫、二条関白家1)の女房なり。のちには尼になりて、名をば妙とぞいひける。

深き道心者なりければ、ことに動ずることなし。ただ、世のつねには、「常住仏性」といふ四字を、立居・起臥の言草(ことぐさ)にしけるが、つひに終り思ひのごとくにて、往生を遂げたる由、伝に見えたり。

これは涅槃経の肝心にて、めでたきことはりなれど、往生極楽の勤めにはたがひてぞ侍る。されど、宿習にしたがひ、廻向によることなれば、凡下の是非すべきにはあらざるなり。

また、ある伝記にいはく、昔、楊州2)に人ありていはく、「常住を聞きつる者は、必ず悪道に落ちず」と言ふ。一人の居士、これを疑ひ、あざけりていはく、「この涅槃経を、みなことごとく聞きたりとも、重罪を作りては遁れがたし。いはんや、わづかに二字を耳に触れたらん人をや。このこともちゐられず」と言ひて去ぬ。

そののち、この居士、命終りて、閻王3)の前に召しすゑられたりける時、閻羅人、このことを勘(かんが)へ出だす。「汝は大乗誹謗の者なり。すみやかに、地獄へつかはすべし」と定む。居士、これを聞きていはく、「誹謗の罪をかうぶらんは、この経ゆゑなるべし。しかれば、また二字を耳に触れたる功徳、むなしからんや」と言ふ。

その時、空中に光あり。光の中に声ありて、唱へていはく、「若信若不信、纔聞常住字、不堕悪即生不動国」と唱ふ。閻羅人、これを聞きて、信仰して罪人を許すと言へり。

そうじては、法華も涅槃も、信ずるも信ぜさるも、法の妙(たへ)なるは、耳に触れ口に唱へ、有智・無智を分かたず、みな浄土の業となれり。喩へば、栴檀はわづかに触るれども、匂ひ深く、釼は功能(くのう)を知らざれども、物として切れざることなきがごとし。

かねては、また、和唐の伝記のごとくは、たとひ、行おろかなりといへども、廻向甚深なれば、みなその願ひを遂ぐ。いはゆる、橋を渡し、道を作り、船に棹さし、施(せ)を行じ、もろもろの歓喜これなり。

すなはち、衆生のもろもろの行、始め耳に触れしより、心にすすみ、功を積み、証を得るまで、ことごとく前世の宿習によりて、好む所一つならざるゆゑなり。かの和須蜜多が男を近付け、祇陀太子の酒を耆み、天須菩提が過差を好み、面王比丘が無相ははなはだしかりし。みな戒律に背けるに似たれども、釈尊、これを悲しび給はざりしにて、心得べし。

弥陀の化儀もまた同じ。明らけく、衆生の宿執・志、ひきひき進み遅れたることを知ろし召して、広大の誓願を発(おこ)し給ふ。すなはち、極楽に九品を儲け、有智徳行を始めとし、十悪五逆に至るまでも、もらし給はず。念仏・読経をもととして、はかなき遊び・戯れまでも、みな人により廻向にしたがひて、ことごとく引摂(いんぜう)し給ふ。

しかるを、今、世の行者、互ひに他の行をし、智恵の浅深を争ふほどに、我執偏増にして、ややもすれば、仏教の趣きに背いて、ひとへなるべき西方の業の中に隔てをなし、なつかしかるべき同じ望みの中に竟趣を含む。このことの、愚心によしなく思え侍るなり。

大方、凡夫の習ひ、わが心なほ心にかなはず。いはんや、人の心をや。せんは、ただみづからはからひ、みづから勤め、無常の殺鬼の来たらざらんさきに、出離の業を励むべし。よしなく疑ふ者に逢ひて、あたら暇に論議を好むこと、よしなく思ゆるなり。

翻刻

  賀茂女持常住仏性四字往生事
中比賀茂女ト云歌ヨミ有。事ニ触テ名高人アリケリ。
賀茂保憲カ孫二条関白家ノ女房ナリ。後ニハ尼ニ
ナリテ名ヲバ妙トソ云ケル。深キ道心者ナリケレバ殊
ニ動ズル事ナシ。只世ノツネニハ常住仏性ト云四字ヲ
立居起臥ノコトクサニシケルガ。ツヰニ終リ思ノ如ク
ニテ往生ヲ遂タル由伝ニ見ヘタリ。是ハ涅槃経ノ肝
心ニテ目出度コトハリナレド。往生極楽ノツトメニハタ
ガヒテゾ侍ル。サレド宿習ニ随ヒ廻向ニヨル事ナレハ。
凡下ノ是非スベキニハアラサルナリ。又或伝記云昔/n12r
楊州ニ人アリテ云。常住ヲ聞ツル者ハ必悪道ニ落
ストイフ。独ノ居士コレヲ疑アザケリテ云。此涅槃経
ヲ皆悉聞タリトモ。重罪ヲツクリテハ遁ガタシ況ヤ
纔ニ二字ヲ耳ニ触タラン人ヲヤ。此事モチヒラレ
ズト云テ去ヌ。其後此居士命ヲハリテ閻王ノ前
ニメシスエラレタリケル時。閻羅人此事ヲ勘出ス。汝ハ
大乗誹謗ノ者也速ニ地獄ヘツカハスベシト定ム。居
士是ヲ聞テ云誹謗ノ罪ヲカウフランハ此経ユヘナルヘ
シ。然者又二字ヲ耳ニ触タル功徳ムナシカランヤト
云。其時空中ニ光アリ。光ノ中ニ声アリテ唱テ云若/n12l
信若不信纔聞常住字不堕悪即生不動国ト唱フ。
閻羅人是ヲ聞テ信仰シテ罪人ヲ許ストイヘリ。惣
シテハ法華モ涅槃モ信スルモ信ゼサルモ法ノ妙ナルハ
耳ニフレ口ニ唱有智無智ヲワカタズ皆浄土ノ業ト
ナレリ。喩ハ栴檀ハワツカニ触ドモ匂フカク釼ハ功能
ヲシラザレドモ物トシテ切ザル事ナキガ如シ。兼ハ又
和唐ノ伝記ノ如クハ。タトヒ行ヲロカナリトイヘドモ。
廻向甚深ナレバ皆其願ヲ遂。イハユル橋ヲワタシ。道ヲ
作船ニ棹サシ施ヲ行ジ。モロモロノ歓喜是ナリ。即衆生
ノ諸ノ行ハシメ耳ニ触シヨリ心ニススミ功ヲ積証ヲ得/n13r
マテ悉前世ノ宿習ニヨリテ好ム所ヒトツナラザル故
ナリ。彼和須蜜多ガ男ヲチカヅケ。祇陀太子ノ酒ヲ
耆ミ。天須菩提ガ過差ヲ好ミ。面王比丘ガ無相ハ甚シ
カリシ。皆戒律ニ背ケルニ似タレドモ。釈尊是ヲ悲給
ハザリシニテ心得ベシ。弥陀ノ化儀モ又同。アキラケク
衆生ノ宿執志シヒキヒキ進ミヲクレタル事ヲシロシメ
シテ。広大ノ誓願ヲオコシ給。即極楽ニ九品ヲ儲ケ
有智徳行ヲ始トシ。十悪五逆ニイタルマデモモラシ
給ハズ。念仏読経ヲモトトシテ。ハカナキ遊ビ戯マデモ
皆人ニヨリ廻向ニ随テ悉ク引摂シ給。シカルヲ今世ノ/n13l
行者互ニ他ノ行ヲシ。智恵ノ浅深ヲ諍フホドニ。我執
偏増ニシテ。ヤヤモスレバ仏教ノ趣ニソムイテ。ヒトヘナ
ルベキ西方ノ業ノ中ニ隔ヲナシ。ナツカシカルベキ同シ
望ノ中ニ竟趣ヲ含ム此事ノ愚心ニヨシナク覚ヘ
侍ナリ。大方凡夫ノ習我心ナヲ心ニカナハズ。況ヤ人
ノ心ヲヤ。詮ハ只ミヅカラハカラヒ。身ツカラツトメ無
常ノ殺鬼ノ来ラザランサキニ出離ノ業ヲハゲムベ
シ。ヨシナク疑者ニ逢テアタラ暇ニ論議ヲ好ム
事ヨシナク覚ルナリ/n14r
1)
藤原教通
2)
揚州
3)
閻魔王
text/hosshinju/h_hosshinju7-04.txt · 最終更新: 2017/07/21 01:34 by Satoshi Nakagawa
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