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発心集

第五第15話(62) 正算僧都の母、子の為に志深き事

校訂本文

1)に、正算僧都といふ人ありけり。わが身、いみじく貧しくて、西塔の大林といふ所に住みけるころ、歳の暮れ、雪深く降りて、問ふ人もなく、ひたすら煙(けぶり)絶えたる時ありけり。京に母なる人あれど、たえだえしき様なれば、なかなか心苦しうて、「ことさら、このありさまをば聞かれじ」と思へりけるを、雪の中の心細さをや推し量りけん、もしまた、ことの便りにや漏れ聞こえけん、ねんごろなる消息あり。都だに跡たえたる雪の中に、雪深き峰の住居(すまひ)の心細さなど、常よりも細やかにて、いささかなる物を送りつかはされけり。

思ひ寄らざるほどに、いとありがたく、あはれに思ゆる中にも、この使ひの男の、いと寒げに、深き雪を分け来たるがいとほしければ、まづ火などたきて、この持ち来たる物して食はす。

今食はんとするほどに、箸うち立て、はらはらと涙を落して、食はずなりぬるを、いとあやしくて、ゆゑを問ふ。答へて言ふやう、「この奉り給へる物は、なほざりにて出来(でき)たる物にても侍らず。方々(はうはう)尋ねられつれどもかなはで、母御前の、みづから御ぐしの下を切りて、人に賜びて、その替りをわりなくして奉り給へるなり。ただ今、これを食べむとつかまつるに、かの御志の深きあはれさを思ひ出でて、下臈にては侍れど、いと悲しうて、胸ふたがりて、いかにも喉へ入り侍らぬなり」と言ふ。

これを聞きて、おろそかに思へんやは。やや久しく涙流しける。

すべて、あはれみの深きこと、母の思ひに過ぎたるはなし。愚なる鳥獣までも、その慈悲をば具したり。田舎の者の語り侍しは、「雉の子を生みて暖むる時、野火にあひぬれば、一たびは驚きて立ちぬれど、なほ捨てがたさのあまりにや、煙(けぶり)の中に返り入りて、つひに焼け死ぬるためし多かり」とぞ。

また、鶏の子を暖むる様は、誰も見ることぞかし。毛のへだたりたるをあかず思ふにや。みづから胸の毛を食ひ抜きて、膚(はだ)につけて、終日(ひめもす)これを暖む。もの食(は)まむために、おのづから立ち去りても、「かれが冷めぬほどに」と急ぎ帰り来るは、おぼろげの志とは見えず。

また、そのかみ、古郷わたりに、思の外に世を遁れたる人ありき。「ことのおこりは、鷹を好み飼ひける時、「その餌(え)に飼はむ」とて、犬を殺しけるに、はらみたる犬の腹の皮を射切りたるより、子の一つ二つこぼれ落ちけるを、走りて逃ぐる犬の、たちまちに立ち帰りて、その子をくはへて行かんとして、やがて倒れて、死にたりけるを見て、発心せり」とぞ。語り侍し。鳥獣の情けなきだに、子のためには、かく身にもかへてあはれみ深し。

いはんや、人の親の腹の内にやどるより、人となるまで、念々にあはれぶ志(こころざし)、たとひ、命を捨てて孝(かう)すとも、報ひ尽さんこと、かたくこそ。

翻刻

  正算僧都母為子志深事
山ニ正算僧都ト云人有ケリ。我カ身イミジク貧テ西/n32r
塔ノ大林ト云所ニ住ケル比歳ノ暮雪フカク降テ問人モ
ナクヒタスラ烟絶タル時アリケリ。京ニ母ナル人アレド。
タヱタヱシキ様ナレバ。中々心グルシウテ。コト更此アリサマヲ
ハキカレシト思ヘリケルヲ。雪ノ中ノ心ボソサヲヤ押ハカリ
ケン。若又事ノ便ニヤモレ聞ケン念比ナル消息アリ。都
タニ跡タヱタル雪ノ中ニ。雪深キ嶺ノスマヰノ心細サナド
常ヨリモ細ヤカニテ。イササカナル物ヲ送ツカハサレケリ。不
寄思程ニ最アリガタク哀ニ覚ユル中ニモ此使ノ男ノ
イト寒ゲニ深キ雪ヲ分来ルガイトヲシケレバ先火ナド
焼テ此持来ル物シテクハス。今クハントスル程ニ箸ウチ/n32l
立ハラハラト涙ヲ落テクハズナリヌルヲ。イトアヤシクテ
故ヲ問フ。答ヘテ云様コノタテマツリ給ヘル物ハ。ナヲザ
リニテ出来タル物ニテモ侍ラズ。方々尋ラレツレドモ叶
テ。母御前ノミヅカラ御グシノシタヲ切テ人ニタビテ其
替ヲワリナクシテ奉リ給ヘル也。只今是ヲタベムト仕ル
ニ彼御志ノ深キ哀サヲ思ヒ出テ下臈ニテハ侍レドイ
ト悲ウテ胸フタガリテ。イカニモ喉ヘ入リ侍ラヌナリ
ト云。是ヲ聞テヲロソカニ覚ヘンヤハ良久涙ナガシケル。
惣テ哀ミノ深キ事母ノ思ニスギタルハナシ。愚ナル鳥
獣マテモ其ノ慈悲ヲバ具シタリ。田舎ノ者ノ語リ侍シ/(名古屋大学本画像ナシ)
ハ雉ノ子ヲウミテアタタムル時。野火ニアヒヌレバ一タヒハ
驚テ立ヌレド猶ステガタサノ余ニヤ烟ノ中ニカヘリ入テ
終ニヤケシヌルタメシ多カリトゾ。又鶏ノ子ヲアタタ
ムル様ハ誰モ見ル事ゾカシ。毛ノヘタタリタルヲアカス
思フニヤ。ミヅカラ胸ノ毛ヲクヒヌキテ膚ニツケテ終
日是ヲアタタム。物ハマム為ニヲノヅカラ立去テモカレ
ガサメヌ程ニト急ギ帰クルハ。ヲボロケノ志トハ見ヘズ。
又ソノカミ古郷ワタリニ思ノ外ニ世ヲ遁レタル人ア
リキ。事ノヲコリハ鷹ヲコノミ飼ケル時ソノヱニカハ
ムトテ犬ヲ殺シケルニ胎タル犬ノハラノ皮ヲ射切タル/(名古屋大学本画像ナシ)
ヨリ子ノ一二コボレ落ケルヲ走テニグル犬ノ忽ニ立帰
テ。ソノ子ヲクハヘテ行ントシテ。ヤカテ倒レテ死ニタリケル
ヲ見テ発心セリトゾ語リ侍シ。鳥獣ノナサケナキダ
ニ子ノ為ニハ。カク身ニモカヘテ哀ミ深シ。イハンヤ人ノ親
ノ腹ノウチニヤドルヨリ人トナルマデ念々ニアハレフ志
タトヒ命ヲステテ孝ストモ報ツクサン事カタクコソ

発心集第五/n33r
1)
比叡山
text/hosshinju/h_hosshinju5-15.txt · 最終更新: 2017/06/17 01:59 by Satoshi Nakagawa
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