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text:hosshinju:h_hosshinju5-04

発心集

第五第4話(51) 亡妻現身、夫の家に帰り来たる事

校訂本文

中ごろ、片田舎に男ありけり。年ごろ、心ざし深くて、あひ具したりける妻、子を生みて後、重く煩ひければ、夫、添ひ居てあつかひけり。

限りなりける時、髪の暑げに乱れたりけるを、「結ひ付けん」とて、傍らに文のありけるを、片端(かたはし)を引破(や)りてなむ結びたりける。かくて、ほどなく息絶えにければ、泣く泣くとかくの沙汰などして、はかなく雲煙(くもけぶり)となしつ。

その後、あとのこと、ねんごろに営むにつけて、なぐさむ方もなく、恋ひしく、わりなく思ゆること尽きせず。「いかで今一度、ありしながらの姿を見ん」と涙にむせびつつ、明かし暮らす間に、ある時、夜いたう更けて、この女、寝所(ねどころ)へ来たりぬ。「夢か」と思へど、さすがに現(うつつ)なり。嬉しさに、まづ涙こぼれて、「さても、命尽きて、生を隔てつるにはあらずや。いかにして来たり給へるぞ」と問ふ。「しかなり。うつつにてかやうに帰り来ることは、ことはりもなく、ためしも聞かず。されど、今一度見まほしく思えたる心ざしの深きによりて、ありがたきことを、わりなくして来たれるなり」。そのほかの心の中、書き尽くすべからず。枕をかはすことあり。世につゆ変らず。

暁、起きて、出でざまに物を落したる気色(けしき)にて、寝所をここかしこさぐり求れど、何とも思ひ分かず。明けはてて後、跡を見るに、元結(もとゆひ)一つ落ちたり。取りて細かに見れば、限りなりし時、髪結たりし反故(ほんぐ)の破れにつゆも変らず。この元結は、さながら焼葬(はふ)りて、きとあるべきゆゑもなし。いとあやしく思えて、ありし破り残しの文のありけるに、継ぎて見るに、いささかもたがはず。その破れにてぞありける。

「これは近き世の不思議なり。さらに浮きたることにあらず」とて、澄憲法師の、人に語られ侍りしなり。

昔、小野篁の妹の失せて後、夜な夜なうつつに来たりけるは、もの言ふ声ばかりして、さだかには手に触るものなかりけるとぞ。

大方、心ざし深くなるによりて、不思議をあらはすこと、これらにて知りぬべし。凡夫の愚かなるだにしかり。いはんや、仏菩薩のたぐひは、「心をいたして『見ん』と願はば、その人の前にあらはれん」と誓ひ給へり。これを聞きながら、行ひあらはして見奉らぬは、わが心のとがなり。妻子を恋ふがごとく恋ひ奉り、名利を思ふがごとく行はば、あらはれ給はんこと、かたからず。心をいたすこともなくて、世の末なれば、ありがたし。「拙(つたな)き身なれば、かなはじ」など思ひて、退心をおこすは、ただ志の浅きよりおこることなり。

ある人いはく、「かげろふといふ虫あり。妻夫(めをと)の契り深きこと、もろもろの有情にすぐれたり。その証をあらはさんとす。時にこの虫、妻夫これを捕りて、銭二文に別々(べちべち)に干し付け、さて市に出だして、二の銭をあらぬ人に一つづつこれを売る。商人(あきひと)買ひ取りつれば、とかく伝はること数も知らず。しかあれども、その契り深きによりて、夕べには必ず元のごとく貫(つなぬ)かれて行き合ふ」と言へり。このゆゑに、銭の一つの名をば「蜻蚊(せいぶん)」と言ふとぞ。

虫の1)妹背(いもせ)の契り、記して用事なけれど、何につけても思ふべし。われら、深き志をいたして、「仏法に値遇し奉らん」と願はば、なじかは、かげろふの契り異ならん。たとひ業(ごふ)に引かれて、思はぬ道に入るとも、折々には必ずあらはれて、救ひ給ふべし。

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  亡妻現身帰来夫家事
中比カタ田舎ニ男有ケリ。年来ココロザシ深クテ相具シタ
リケル妻子ヲウミテ後オモク煩ケレハ。夫ソヒヰテアツカ
ヒケリ。限リナリケル時。カミノ暑ゲニミダレタリケルヲ。
ユヒツケントテ。カタハラニ文ノ有ケルヲ片端ヲ引ヤリテ
ナム結ヒタリケル。カクテ程ナクイキ絶ニケレバ泣々ト
カクノ沙汰ナドシテ。ハカナク雲烟トナシツ。其後跡ノ事
懇ニイトナムニツケテ。ナグサム方モナク恋シクワリナ/n11l
ク覚ユル事ツキセズ。イカデ今一度アリシナガラノ姿ヲ
見ト涙ニムセビツツ明シ暮ス間ニ。有時夜イタウ更テ。此
女寝所ヘ来リヌ。夢カト思ヘドサスガニ現ナリ。ウレシサ
ニ先涙コボレテサテモ命ツキテ生ヲヘダテツルニハアラ
ズヤ。如何シテ来リ給ヘルゾト問。シカナリウツツニテカ様ニ
帰クル事ハコトハリモナク。タメシモ聞ズ。サレド今一度ミ
マホシク覚ヘタル心サシノ深キニヨリテ難有事ヲワリ
ナクシテ来レル也。其外ノ心ノ中書ツクスベカラズ。枕ヲ
カハスコト有リ世ニ露カハラズ。暁ヲキテ出サマニ物ヲ
落シタルケシキニテ。寝所ヲ爰カシコサグリ求レド/n12r
何トモ思分ス。明ハテテ後跡ヲミルニモトユヒ一落タリ取
テコマカニ見レハ限リナリシ時カミ結タリシホングノヤ
レニ露モカハラズ此モトユヒハサナガラ焼ハフリテ。キト
有ベキ故モナシ。最アヤシク覚ヘテ在シヤリ残シノ文ノ
アリケルニツギテ見ルニ。イササカモ違ハズ其ヤレニテゾ有
ケル。是ハ近キ世ノ不思儀ナリ。更ニウキタル事ニ非ス
トテ澄憲法師ノ人ニカタラレ侍シナリ。昔小野篁ノイ
モウトノ失テ後ヨナヨナウツツニ来リケルハ物イフ声バ
カリシテ。サダカニハ手ニサハル物ナカリケルトゾ。大方心
ザシフカク成ニヨリテ不思儀ヲアラハス事コレラニテ/n12l
知ヌベシ。凡夫ノ愚ナルダニシカリ。況ヤ仏菩薩ノ類ハ心
ヲイタシテ見ント願ハバ其人ノ前ニアラハレント誓給ヘリ。
是ヲ聞ナカラ。行ヒ顕シテ見奉ラヌハ我心ノトガ也。妻
子ヲ恋ガ如ク恋タテマツリ。名利ヲ思ガゴトク行ハバ顕
レ給ハン事カタカラズ。心ヲイタス事モ無テ世ノ末ナレ
バアリガタシ。拙キ身ナレバ叶ハジナド思テ退心ヲオ
コスハ。只志ノ浅キヨリヲコル事也。或人云カゲロウト
イフ虫アリ。妻夫ノ契リ深キ事諸ノ有情ニスグレ
タリ。其証ヲアラハサントス。時ニコノ虫妻夫コレヲト
リテ銭二文ニベチベチニホシツケ。サテ市ニ出シテ二/n13r
ノ銭ヲアラヌ人ニ一ツヅツ是ヲウル。商人カヰトリツレ
バトカク伝ル事数モシラズ。シカアレドモ其チキリ深
ニヨリテ。夕ニハカナラズ元ノ如ツナヌカレテ行合ト
イヘリ。此故ニ銭ノ一ノ名ヲハ蜻蚊ト云トゾ。昔イモセ
ノ契シルシテ用事ナケレド何ニツケテモ思フベシ。我
等フカキ志ヲイタシテ仏法ニ値遇シ奉ラント願ハバ
ナジカハカケロウノ契リコトナラン。タトヒ業ニヒカレ
テ思ハヌ道ニ入トモ折々ニハ必ズアラハレテ。スクヒ
給フベシ/n13l
1)
底本「昔」。諸本により訂正。
text/hosshinju/h_hosshinju5-04.txt · 最終更新: 2017/06/02 22:14 by Satoshi Nakagawa