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発心集

第四第10話(47) 日吉社に詣づる僧、死人を取り奇しむ事

校訂本文

中ごろのことにや、こともなき法師の、世にありわびて、京より日吉の社1)へ百日参るありけり。

八十余日になりて、下向するさまに、大津といふ所を過ぎけるに、ある家の前に、若き女の、人目も知らず、さくりもあへず、よよと泣き立てるあり。

この僧、ことの気色を見るに、「何事とは知らねど、世の常の憂へにはあらず。きはまれることにこそ」と、いとほしく思えて、さし寄りて、「何事をか悲しむ」と問ふ。女の言ふやう、「御姿を見奉るに、物詣でし給ふ人にこそ。ことさらえなん聞こゆまじき」と言ふ。

「憚(はばか)るべきことなめり」とは推し量られながら、あはれみのあまり、ややねんごろに尋ぬれば、「そのことに侍り。わが母にて侍る者の、日ごろ悩ましつかまつりつるを、今朝、つひに空(むな)しくみなして侍るなり。さらぬ別れの習ひ、あはれに悲しきことはさるものにて、『いかにして、これを引き隠すわざをせん』と、さまざまめぐらせど、やもめなれば、申し合はすべき人もなし。わが身は女にて、力及び侍らず。隣里の人は、また、なほざりにこそ、『あはれ』と訪(とぶら)ひ侍れ、神のことしげきわたりなれば、まことには、いかがはし侍らん。とにかくに思ひ得る方なくて」なんど、言ひもやらず、さめざめと泣く。

僧、これを聞くに、「げに、さこそは思ふらめ」と、わりなくいとほしくて、やや久しくともに泣き立てり。心に思ふやう、「神は人をあはれみ給ふうゆゑに、濁れる世に跡を垂れ給へり。これを聞きながら、いかでか情けなく過ぎん。われ、かくほど深きあはれみを起せること覚えず。仏もかがみ給へ。神も許し給へ」と思ひて、「なわび給ひそ。われ、ともかく も引き隠さん。外に立てれば、人目も怪し」とて、這ひ入りぬ。女、泣く泣く悦ぶことかぎりなし。

かくて、日暮れぬれば、夜に隠して、便りよき所に移し送りつ。その後、いも寝られざりけるままに、つくづくと思ふやう、「さても、八十余日参りたりつるを、いたづらになして、休みなんこそ口惜しけれ。われ、このこと、名利のためにもせず。ただ参りて、神の御誓ひの様をも知らん。生れ死ぬる穢(けが)らひは、いはば仮の戒めにてこそあらめ」と、強く思ひて、暁、水浴(あ)みて、これよりまた、日吉へうち向きて参る。道すがら、さすがに胸うちさはぎ、そら恐しきことかぎりなし。

参りつきて見れば、二の宮の御前に、人、所もなく集まれり。ただ今、十禅師のかんなぎに憑(つ)き給ひて、さまざまのことをのたまふ折節なり。この僧、身のあやまりを思ひ知りて、近くはえ寄らず。もの隠れに遠く居て、かたのごとく念誦して、日を欠かぬことを喜びて、帰らんとするほどに、かんなぎ、はるかに見付けて、「あそこなる僧は」。心おろかなるやは。されど、のがるべき方なくて、わななくわななくさし出でたれば、ここら集れる人、いとあやしげに思へり。

近々と呼びよび寄せて、のたまふやうは、「僧の、よんべせしことを、明らかに見しぞ」とのたまへるに、身の毛よだちて、胸ふたがりて、生ける心地もせず。重ねてのたまふやう、「なんぢ、恐るることなかれ。『いしくするものかな』と見しぞ。われ、もとより神にあらず。あはれみの余りに、跡を垂れたり。人に信を発(おこ)させんがためなれば、物を忌むことも、また仮の方便なり。悟りあらん人は、おのづから知りぬべし。ただ、このこと人に語るな。愚かなる者は、なんぢがあはれみのすぐれたるにより、制する事をば知らず。みだりにこれを例として、わづかに発せる信も、また乱れなんとす。もろもろのこと、人によるべきゆゑなり」。こまやかに、うちささやきてのたまふ。

僧の心、ななめならず、あはれにかたじけなく思えて、涙を流しつつ出でにけり。その後、ことにふれて、利生と思ゆること多かりなんとぞ。

翻刻

  詣日吉社僧取奇死人事
中比ノ事ニヤ。事モナキ法師ノ世ニアリ侘テ京ヨリ
日吉ノ社ヘ百日マイルアリケリ。八十余日ニナリテ下
向スル様ニ大津ト云処ヲ過ケルニ。アル家ノマヘニ若
キ女ノ人目モ不知サクリモアヘス。ヨヨト泣立ルアリ。
此僧事ノ気色ヲ見ルニ何事トハシラネド。ヨノツネノ
ウレヘニハアラズ極マレル事ニコソト。イトヲ敷覚ヘテ
サシヨリテ何事ヲカ悲ムト問フ。女ノ云様御姿ヲ見/n23r
奉ルニ物詣シ給人ニコソ。コト更ヱナンキコユマジキト云
憚ルベキ事ナメリトハ推ハカラレナガラ。哀ミノアマリ
ヤヤ懇ニ尋ヌレバ。其事ニ侍リ。我母ニテ侍ル者ノ日
比ナヤマシ仕ツルヲ。今朝終ニ空クミナシテ侍ナリ。
サラヌ別ノナラヒ哀ニ悲キ事ハサル物ニテ。イカニシ
テ是ヲ引カクスワザヲセントサマザマメクラセト。ヤモメ
ナレバ申合ベキ人モナシ。我身ハ女ニテ力及ヒ侍ラズ。
トナリ里ノ人ハ又ナヲザリニコソ哀ト訪ヒ侍レ神ノ
事シゲキワタリナレバ誠ニハイカガハシ侍ラン。トニカク
ニ思ウル方無テナンド云モヤラズサメザメト泣僧コレ/n23l
ヲ聞ニケニサコソハ思ラメト。ワリナクイトヲシクテ。良
久クトモニ泣タテリ。心ニ思様神ハ人ヲ哀ミ給フ故ニ
濁ル世ニ跡ヲタレ給ヘリ。是ヲ聞ナガラ争カ無情ス
ギン。我カクホドフカキ哀ミヲ起セル事オボヘズ。仏モカカ
ミ給ヘ神モユルシ給ヘト思テ。ナ侘給ヒソ我トモカク
モ引カクサン。外ニタテレバ人目モアヤシトテ。ハヰ入ヌ。
女ナクナク悦事限ナシ。角テ日暮ヌレバ。夜ニカクシテ
便ヨキ処ニウツシ送リツ。其後イモネラレザリケルママ
ニ。ツクヅクト思様サテモ八十余日参リタリツルヲ徒ニ
ナシテ休ミナンコソ口惜ケレ。我此事名利ノ為ニモセ/n24r
ズ只マイリテ神ノ御チカヒノ様ヲモシラン。生レ死ヌル
ケガラヒハ。イハバカリノイマシメニテコソアラメト。ツヨク
思テ暁水アミテ是ヨリ又日吉ヘウチムキテマイル。
道スガラサスガニムネ打サハギ。ソラヲソロシキ事限ナ
シ。参リツキテ見レバ。二宮ノ御前ニ人所モナクアツマレ
リ。只今十禅師ノカンナギニツキ給ヒテ様々ノ事ヲノ
給フヲリフシナリ。此僧身ノアヤマリヲ思シリテ近クハ
ヱヨラズ。物ガクレニトヲクヰテ。カタノゴトク念誦シテ
日ヲカカヌ事ヲヨロコビテ帰ラントスル程ニ。カンナギハ
ルカニ見ツケテ。アソコナル僧ハ心ヲロカナルヤハ。サレドノガ/n24l
ルベキ方ナクテ。ワナナクワナナクサシ出タレバ。ココラ集レル人
イトアヤシゲニ思ヘリ。チカヂカトヨビヨセテノ給フ様ハ。
僧ノヨンベセシ事ヲアキラカニ見シゾトノ給ヘルニ。身ノ
ケヨ立テムネフタガリテイケル心地モセズ。重テノ給フ
様ナンヂヲソルル事ナカレ。イシクスルモノカナト見シゾ。我
モトヨリ神ニ非ス。アハレミノ余リニ跡ヲタレタリ。人ニ信
ヲオコサセンガ為ナレバ。物ヲイムコトモ又カリノ方便ナ
リ。サトリアラン人ハ。ヲノヅカラシリヌベシ。タダ此事人ニカ
タルナ愚ナル者ハナンヂカ憐ノスグレタルニヨリ制スル
事ヲバシラズ。ミダリニ是ヲ例トシテ。ワヅカニオコセル信/n25r
モ又ミダレナントス。モロモロノ事人ニヨルベキ故ナリコマヤカ
ニ打ササヤキテノ給フ。僧ノ心ナナメナラスアハレニカタ
ジケナク覚ヘテ涙ヲナガシツツ出ニケリ。其後コトニ
フレテ利生トオボユル事オホカリナントゾ

発心集第四
1)
日吉神社
text/hosshinju/h_hosshinju4-10.txt · 最終更新: 2017/05/24 11:19 by Satoshi Nakagawa
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