Recent changes RSS feed

発心集

第四第9話(46) 武州入間河沈水の事

校訂本文

武蔵国、入間川のほとりに、大なる堤(つつみ)を築(つ)き、水を防ぎて、その内に田畠を作りつつ、在家多くむらがり居たる所ありけり。官首といふ男なん、そこに宗(むね)とある者にて、年ごろ住みける。

ある時、五月雨、日ごろになりて、水、いかめしう出でたりける。されど、いまだ年ごろ、この堤の切れたることなければ、「さりとも」と驚かず。かかるほどに、雨、いこぼすごとく降りて、おびたたしかりける夜中ばかり、にはかに雷(いかづち)のごとく、よに恐しく鳴りどよむ声あり。この官首と家に寝たる者ども、みな、驚き怪しみて、「こは何物の声ぞ」と恐れあへり。

官首、郎等を呼びて、「堤の切れぬると思ゆるぞ。出でて見よ」と言ふ。すなはち、引き開けて見るに、二三町ばかり白み渡りて、海の面(おもて)と異ならず。「こは、いかがせん」といふほどこそあれ、水ただ増さりに増さりて、天井まで付きぬ。官首が妻子(さいし)をはじめて、あるかぎり、天井に登りて、桁(けた)・梁(うつばり)に取り付きて叫ぶ。

この中に、官首と郎等とは、葺(ふ)き板をかき上げて、棟(むね)に登り居て、「いかさまにせん」と思ひめぐらすほどに、この家、ゆるゆるとゆるぎて、つひに柱の根、抜けぬ。堤ながら浮きて、湊(みなと)の方へ流れ行く。

その時、郎等男の言ふやう、「今はかうにこそ侍るめれ。海は近くなりぬ。湊に出でなば、この屋(や)は、みな波にうち砕かれぬべし。もしやと飛び入りて、泳ぎてこころみ給へ。かく広く流れ散りたる水なれば、おのづから浅き所も侍らん」と言ふを聞きて、幼き子・女房なんど、「われ捨てて、いづちへいまするぞ」とをめく声、最も悲しけれど、とてもかくても助くべき力なし。「我ら一人だに、もしや」と思ひて、郎等男と共に水へ飛び入るほどの心の内、生けるにもあらず。しばしは、二人、言ひ合はせつつ泳ぎ行けど、水は早くて、はては行末(ゆくすゑ)知らずなりぬ。

官首ただ一人、いづちともなく、行かるるにまかせて泳ぎ行く。力はすでに尽きなんとす。水はいづくを際(きは)とも見えず。「今ぞ溺れ死ぬる」と心細く悲しきままに、かこつかきには、仏神をぞ念じ奉りける。

「いかなる罪の報ひに、かかる目を見るらん」と思はぬことなく思ひ行くほどに、白波の中に、いささか黒みたる所の見ゆるを、「もし、地か」とて、からうじて泳ぎ着きて、見れば、流れ残りたる蘆(あし)の末葉なりけり。かばかりの浅りもなかりつ。「ここにて、しばし力休めん」と思ふ間に、次第にことごとくまとひ付くを、驚きてさぐれば、みな大蛇(おほぐちなは)なり。水に流れ行く蛇(くちなは)どもの、この蘆にわづかに流れかかりて、次第にくさりつらなりつつ、いくらともなくわだかまり居たりけるが、物の触るを悦びて巻き付くなりけり。むくつけなく、けうときこと、たとへん方なし。

空は、墨を塗りたらんやうにて、星一つも見えず。地は、さながら白波にて、いささかの浅りだになし。身には隙(ひま)なく蛇(くちなは)巻き付きて、身も重く、はたらくべき力もなし。「地獄の苦もかばかりにこそは」と、夢を見る心地して、心憂く悲しきことかぎりなし。

かかる間に、さるべき仏神(ぶつじん)の助けにや、思ひの外に浅き所にかきつきて、そこにて蛇(くちなは)をば、かたはしより取り放ちてげる。とばかり力休むるほどに、東白みぬれば、山をしるべにて、からうじて地に着きにけり。船求めて、まづ浜の方へ行きて見るに、すべて目を当てられず。波に打ち破られたる家ども、算をうち散らせるがごとし。汀(みぎは)にうち寄せられたる男女・馬牛のたぐひ、数も知らず。

その中に、官首が妻子(めこ)どもをはじめとして、わが家の者ども十七人、一人失せでありけり。泣く泣く家の方へ行きて、見れば、三十余町、白河原になりて、跡だになし。多かりし在家、貯へ置きたる物、朝夕呼びつかへし奴、一夜の中にほろび失せぬ。この郎等男一人、水心ある者にて、わづかに寿(いのち)生きて、明くる日尋ね来たりける。

かやうのことを聞きても、厭離の心をば発(おこ)すべし。これを人の上とて、「われ、かかることにあふまじ」とは、なにのゆゑにか、もて放(はな)るべき。身はあだに破れやすき身なり。世は苦しみを集めたる世なり。身はあやふけれども、いかでか海山を通はざらん。

「海賊、恐るべし」とて、すずろに宝を捨つべきにあらず。いはんや、つかへて罪をつくり、妻子(つまこ)のゆゑに身を滅ぼすにつけても、難にあふこと、数も知らず。害にあへるゆゑ、まちまちなり。

ただ、不退の国に生まれぬるばかりなん、もろもろの苦しみになん、あはざりける。

翻刻

  武州入間河沈水事
武蔵国入間河ノホトリニ大ナルツツミヲツキ。水ヲフセギ
テ其ノ内ニ田畠ヲ作リツツ。在家ヲヲクムラカリ居タル
処アリケリ。官首ト云男ナンソコニ宗トアル物ニテ年/n19l
ゴロスミケル。アル時五月雨日比ニナリテ。水イカメシウ
出タリケル。サレド未タ年比此堤ノ切タル事ナケレバ。
サリトモト驚カズ。カカル程ニ雨イコホス如クフリテ。ヲ
ビタタシカリケル。夜中バカリ俄ニイカヅチノ如ク。ヨニヲ
ソロシクナリトヨム声アリ。此官首ト家ニネタル者ドモ
皆驚キアヤシミテ。コハナニ物ノ声ゾトヲソレアヘリ。官
首郎等ヲヨビテ堤ノキレヌルト覚ユルゾ出テ見ヨト云
フ。即チヒキアケテ見ルニ。二三町バカリシラミワタリテ
海ノ面テトコトナラズ。コハイカカセント云程コソアレ。水
タダ増ニマサリテ。天井マデツキヌ。官首ガ妻子ヲ初/n20r
テ。アルカギリ天井ニノホリテ。ケタウツバリニ取付テサ
ケブ。コノ中ニ官首ト郎等トハ。フキ板ヲカキアケテ
ムネニノボリ居テイカサマニセント思メクラス程ニ
此家ユルユルトユルギテ。ツヰニハシラノ根ヌケヌ。堤ナ
カラウキテ湊ノ方ヘ流ユク其時郎等ヲトコノ云
ヤウ今ハカウニコソ侍ルメレ。海ハチカクナリヌ。湊ニ出
ナバ此ヤハ皆浪ニウチクダカレヌベシ若ヤト飛入テヲ
ヨギテ心ミ給ヘ。カク広ク流レチリタル水ナレバ自ラ浅
キ所モ侍ラント云ヲキキテ。ヲサナキ子女房ナンド
我ステテイヅチヘイマスルゾトヲメク声最悲ケレ/n20l
ド。トテモ角テモ助ベキ力ナシ。我等ヒトリタニ。モシ
ヤト思テ郎等男ト共ニ水ヘ飛入ル程ノ心ノウチ。イ
ケルニモアラス。シバシハフタリ云合セツツヲヨギ行ト水
ハ早クテ。ハテハ行末シラズナリヌ。官首タダヒトリイヅ
チトモ無ユカルルニマカセテヲヨキ行。力ハステニ尽ナ
ントス。水ハ何クヲキハトモ見エス。今ゾヲボレシヌルト
心ボソクカナシキママニ。カコツカキニハ仏神ヲゾ念ジ奉
リケル。イカナル罪ノムクヒニカカル目ヲ見ルラント思ハ
ヌ事ナク思ユク程ニ。白浪ノ中ニイササカクロミタル処
ノ見ユルヲ若地カトテカラウシテ。ヲヨギツキテ見/n21r
レハ流レ残タル。アシノ末葉ナリケリ。カハカリノアサリモ
無リツ。ココニテシバシ力ヤスメント思間ニ次第ニ悉ク
マトヒツクヲ驚テサクレバ皆大グチナワ也。水ニ流
レ行クチナワドモノ此蘆ニワヅカニ流レカカリテ。次
第ニクサリツラナリツツ。イクラトモナクワダカマリヰ
タリケルガ。物ノサハルヲ悦テマキツクナリケリ。ムクツ
ケナク。ケウトキ事タトヱン方ナシ。空ハスミヲヌリ
タランヤウニテ星一モ見エズ。地ハサナカラ白浪ニテ
イササカノアサリダニナシ。身ニハ隙ナク。クチナワマキツ
キテ身モ重クハタラクベキ力モナシ地獄ノ苦モカ/n21l
バカリニコソハト夢ヲ見ル心地シテ心ウクカナシキコ
ト限リナシ。カカル間ニサルヘキ仏神ノ助ニヤ思ノ外
ニ浅キ所ニカキツキテ。ソコニテクチナワヲバカタハ
シヨリ取放テゲル。トバカリ力ヤスムル程ニ東シラミ
ヌレバ。山ヲシルベニテ。カラウシテ地ニ著ニケリ。船求
テ先浜ノ方ヘ行テ見ルニ。スベテ目ヲアテラレス。浪
ニ打破ラレタル家ドモ算ヲ打散セルガ如シ。汀ニウチ
寄ラレタル男女馬牛ノ類数モ知ス。其中ニ官首カ
妻子ドモヲ初トシテ。我カ家ノ者トモ十七人ヒト
リ失テアリケリ。泣々家ノ方ヘ行テ見レバ三十余/n22r
町白河原ニナリテ跡ダニナシ。多リシ在家タクハヘ置
タル物。朝夕ヨビツカヘシ奴一夜ノ中ニホロビ失ヌ。此郎
等男ヒトリ水心アル者ニテワヅカニ寿イキテ明ル
日尋来タリケル。カヤウノ事ヲキキテモ厭離ノ心ヲ
ハ発スベシ。是ヲ人ノ上トテ我カカル事ニアフマジトハ
ナニノ故ニカモテ放ルベキ。身ハアダニ破ヤスキ身ナ
リ。世ハクルシミヲ集タル世ナリ。身ハアヤウケレドモ争
カ海山ヲカヨハザラン。海賊ヲソルベシトテ。スズロニ宝ヲ
スツベキニ非ス。況ヤツカヘテ罪ヲツクリ。妻子ノ故ニ身
ヲホロボスニツケテモ難ニアフ事数モ不知。害ニアヘル/n22l
故マチマチナリ。只不退ノ国ニ生レヌルバカリナン諸ノ苦
ミニナンアハサリケル/n23r
text/hosshinju/h_hosshinju4-09.txt · 最終更新: 2017/05/23 22:18 by Satoshi Nakagawa
CC Attribution-Share Alike 4.0 International
Recent changes RSS feed Driven by DokuWiki

yatanavi.org ©2004-2017 Satoshi Nakagawa