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発心集

第四第8話(45) 或る人、臨終言(ものい)はざる遺恨事 臨終を隠す事

校訂本文

年ころ、あひ知る人ありき。過ぎぬる建久のころ、重き病を受けたりける時、頼みたりける聖を呼びければ、行きて、ねんごろに身あつかひけり。

かくて、のどかにこの人のさまを見るに、病のありさま、いと心得ず。日にそへて弱り行くを、みづからは、「死ぬべし」とも思ひもよらず。あたりの女房なんど、まして、かけても思ひよらざりけり。

この人、いとけなき子あまたある中に、ことにかなしうなんする娘一人ありける。子どもの母は先立ちて隠れにしかば、それを深く歎きて、また、異人(ことひと)をも見ず。この娘の、かたがた、みなし子になれることをあはれみつつ、このほど、「聟取らん」とて、さまざまいとなみ、沙汰しければ、さやうのこと、病む病むもなほおこたらず。この聖、「いとあさましく、愚かにもあるかな」と見れど、なのめなるほどは、人を憚りて言ひ出でず。

十日ばかりありて、まめやかに重くなりぬる後、主(ぬし)もやうやう心細げに思ひ、人も「おのづからのこともや」なんど思へる気色を見て、聖、「憚りながら、有待の身は思はずなるものぞ。跡(あと)のことなど、かねて定め置き給へかし」など、言ひ出でたるに、「まことにさるべきこと」と言ふを聞きて、幼き子ども、あたりの人まで、さとうち泣く気色、いとはかなげなり。

「今夜はくらし。明日こそは」と、のどむるほどに、その夜より、ことに重くして、いたく苦しげなり。人々、驚きて、「処分のやうを申し合はせて、定め給へ。御跡ゆくへなくなりぬべし」と。聖、勧む。「まことに」とて、「いかやうにか侍るべき」と言へば、「あるべきやうは・・・」とて、苦しげなるを念じて、こまごまと一時ばかり言ひ続くれど、舌も垂りにけるにこそ、「何とも聞き分け侍らず」と言へば、「さらば、紙と筆とを賜へ。あらあら書き付けん」と言ふ。すなはち取らせたれど、手もわななきて、え書かず。わづかに書き付けたるは、たがはぬみみず書きなり。

すべき方なくて、姫君の乳母(めのと)、「日ごろ思し召したりける趣(おもむ)きは、しかじか」と言ふままに、はからひ書きて見ゆれど、頭(かしら)を振りて、「とく引き破(や)り給へ」と言へば、引き破りつ。すべて力及ばず。さすがに心はたがはぬにや。さまざま思ふことを、え言ひあらはさずなりぬるを、心憂く思へる気色、あはれに悲しきことかぎりなし。

夜の中ばかり、これほどの心あるやうに見えける、明けぬれば。ものも思えず。ことよろしきほどは、処分のこと紛れにけり。「今は」とて、念仏勧むれど、ゆひかひなきさまなり。

かくて、明くる日の巳の時ばかりに、おほきに驚ける気色にて、二度ばかりあめきて、やがて息絶えぬるは、もし、恐しき物なんどの目に見えけるにや。

このこと、遠きほどなれば、後に伝へ聞きて、今一度(ひとたび)あひ見ずなりぬることを、口惜しく思ひけるほどに、二十日ばかり過ぎて、かの人を夢に見る。滑(なべ)らかなる布衣(ほい)、常(つね)のさまに変らず、対面(たいめん)したることを悦べる気色ながら、ものをば言はず。かくして、たた向ひ居たりと思て覚めぬ。すなはち、うつつにその形あざやかなり。やうやう、ほど経るままに、薄墨になり行く。はてには、人の形ともなく、煙(けぶり)のやうに見えて、消え失せにき。その面影、今に忘れがたくなん侍る。

おほかた、人の死ぬるありさま、あはれに悲しきこと多かり。物の心知らん人は、常に終りを心にかけつつ、苦しみ少なくして、善知識に会はんことを、仏菩薩に祈り奉るべし。

もし、悪しき病を受けつれば、その苦痛に責められて、臨終思ふやうならず。終り正念ならねば、また一期の行ひもよしなく、善知識の勧めもかなはず。たとひもし、臨終正念なれども、善知識の教ふるなければ、またかひなし。生涯、ただ、「今を限り」と思ふに、恩愛の別れといひ、名利の余執といひ、見るもの聞くものにふれつつ、心肝をくだかずといふことなし。いつの心のひまにか、浄土を願はんとする。

然を念仏功積り1)、運心年深き人は、加被のゆゑに、終り正念にして、必ず善知識に会ふ。耳には誓願のほかのことを聞かず、口には称名のほかのことを言はず、最初引摂(いんぜう)を期すれば、妻子の別れもなぐさみぬ。五妙境界を思へば、穢土の執もあらず。すずろに進んで、つひに往生を遂ぐるなり。あるひは、「かねて死期を知り、心もとなく待つこと、国を出づべき人の、その日を望むがごとし」なんど言へり。

いかにいはんや、聖衆の来迎にあづかりて、楽の声を聞き、妙(たへ)なる香をかぎ、まさしく尊容を見奉る時、心の内の楽しみ、説き尽すべからず。かかれば、たとひ道心少なくとも。終りを恐れんためにも、いかが往生を願はざらん。

翻刻

  或人臨終不言遺恨事 臨終隠事
年比アヒ知人アリキ。過ヌル建久ノコロヲモキ病ヲ受
タリケル時。憑タリケル聖ヲヨビケレバ行テ念比ニ身
アツカヒケリ。カクテノドカニ此人ノサマヲ見ニ。病ノアリ
サマイト心得ズ。日ニソヘテヨハリ行ヲ自ラハ死ヌベシト
モ思モヨラズ。アタリノ女房ナンド。マシテカケテモ思
ヨラザリケリ。此人イトケナキ子アマタアル中ニ殊ニカ/n16l
ナシウナンスルムスメ独リアリケル。子共ノ母ハ先立テカ
クレニシカバ。其ヲフカクナゲキテ。又コト人ヲモ見ス此
ムスメノ旁ミナシ子ニナレル事ヲ哀ミツツ此程ムコトラ
ントテサマザマイトナミ沙汰シケレバ。サヤウノ事病ム病ム
モ猶ヲコタラズ此聖イトアサマシクヲロカニモ有哉ト
見レドナノメナル程ハ人ヲ憚テ云出ズ。十日ハカリア
リテマメヤカニ重クナリヌル後主モヤウヤウ心細ケニ思
ヒ人モヲノヅカラノ事モヤナント思ヘル気色ヲ見テ聖
憚ナガラ有待ノ身ハ思ハズナル物ゾ。跡ノ事ナド兼テ
定置給ヘカシナド云出タルニ誠ニサルベキ事ト云ヲ/n17r
聞テ。ヲサナキ子共アタリノ人マテ。サトウチナク気色
イトハカナゲナリ。今夜ハクラシ明日コソハト。ノドムル程
ニ其夜ヨリ殊ニ重クシテ。イタククルシゲナリ。人々驚
キテ処分ノヤウヲ申合テ定メ給ヘ御跡ユクヱナクナ
リヌベシト聖勧ム。誠ニトテ如何様ニカ侍ルベキト云ヘバ
アルベキヤウハトテ。クルシゲナルヲ念ジテ。コマゴマト一時
バカリ云ツヅクレド舌モタリニケルニコソ。何トモ聞分侍
ラズト云ヘバ。サラバ紙ト筆トヲ給ヘアラアラ書付ント云フ。
即トラセタレド。手モワナナキテヱカカズ。ワヅカニ書付
タルハ。タガハヌミミズガキナリ。スベキ方ナクテ。ヒメギミノ/n17l
メノト日比思召タリケル趣ハシカシカト云ママニ。ハカラヒ
書テ見ユレド。カシラヲフリテトクヒキヤリ給ヘト云
ヘバ。ヒキヤリツ。スベテ不及力サスガニ心ハタガハヌニヤ。サマ
サマ思フ事ヲヱ云アラハサズナリヌルヲ。心憂ク思ヘル
気色哀ニカナシキ事限ナシ。夜ノ中計是程ノ心アル
ヤウニ見ヘケル。明ヌレバ物モ覚ズ事ヨロシキ程ハ処分ノ
事紛レニケリ。今ハトテ念仏ススムレト云甲斐ナキ様
也。角テ明ル日ノ巳ノ時計ニ大ニ驚ケル気色ニテ二度
バカリアメキテ軈而息絶ヌルハ若ヲソロシキ物ナンド
ノ目ニ見ヘケルニヤ。此事トヲキ程ナレバ後ニ伝ヘ聞テ/n18r
今一度相見ズナリヌル事ヲ口惜ク思ケル程ニ。廿日バカリ
過テ彼人ヲ夢ニ見ル。ナヘラカナル布衣ツネノサマニカハラ
ズ。対面シタル事ヲ悦ベル気色ナカラ物ヲバイハス。カクシテ
タタ向居タリト思テサメヌ。即ウツツニソノ形アザヤカナリ。
ヤウヤウ程フルママニ。ウススミニナリ行。ハテニハ人ノ形トモナク
ケフリノヤウニ見ヘテ消ウセニキ。其面影今ニ忘カタク
ナン侍ル大方人ノ死ヌルアリサマ。アハレニカナシキ事ヲ
ホカリ。物ノ心シラン人ハツネニヲハリヲ心ニカケツツ苦ミ
スクナクシテ。善知識ニ合ン事ヲ仏菩薩ニ祈奉ルベ
シ。若アシキ病ヲウケツレバ。ソノ苦痛ニ責ラレテ臨終/n18l
思ヤウナラズ。ヲハリ正念ナラネバ又一期ノ行ヒモヨシ
ナク。善知識ノススメモカナハズ。設ヒ若臨終正念ナレ
ドモ善知識ノヲシフルナケレバ。又カイナシ生涯タダ
今ヲ限リト思ニ恩愛ノ別レト云名利ノ余執ト云。
見ル物キク物ニフレツツ心肝ヲクダカズト云事ナシ。
何ノ心ノヒマニカ。浄土ヲネガハントスル。然ヲ念仏切ツモリ
運心年フカキ人ハ加被ノ故ニヲハリ正念ニシテ必善知
識ニアフ。耳ニハ誓願ノ外ノ事ヲキカズ。口ニハ称名ノ外
事ヲイハズ。最初引摂ヲ期スレハ。妻子ノ別モナグサミヌ。
五妙キヤウ界ヲ思ヘバ。ヱドノ執モアラズ。ススロニ進/n19r
テツヰニ往生ヲトグル也。或ハ兼テ死期ヲシリ。心モトナ
ク待事国ヲ出ベキ人ノ其日ヲ望ガ如シナント云ヘリ
何況ヤ聖衆ノ来迎ニ預リテ楽ノ声ヲキキ妙ナル香
ヲカギ。マサシク尊容ヲ見奉ル時。心ノ内ノタノシミ説ツ
クスベカラズ。カカレバタトヒ道心スクナクトモ。ヲハリヲ恐
レン為ニモ。イカカ往生ヲ願ハザラン/n19l
1)
「功積り」は底本「切つもり」。諸本により訂正
text/hosshinju/h_hosshinju4-08.txt · 最終更新: 2017/05/23 00:31 by Satoshi Nakagawa
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