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発心集

第四第1話(38) 三昧座主の弟子、得法華経験の事

校訂本文

中ごろ、義叡1)といひて、ここかしこ、行ひ歩(あり)く修行者ありけり。熊野より大峰に入りて、御嶽へ出づる間に、道を踏みたがへて、十日余りがほど、すずろに嶮(けは)しき谷・峰を迷ひ歩きける。身疲れ、力尽きて、いととあやふく思えければ、心をいたして、本尊に祈り乞ふ。

その後、からうじて平らかなる所に行き出でたりけり。そこに一つの松原あり。林の中に一つの庵あり。近く歩みよりて、これを見るに、えもいはぬ、新しく作れる屋(いへ)あり。物の具飾り、みな玉のごとし。庭の砂子(すなご)、雪に異ならず。植木には花咲き、木の実結び、前栽(せんざい)には、さまざまの咲く花、色ことに妙(たへ)なり。義叡、これを見て、喜ぶことかぎりなし。

しばしうち休みつつ、この屋の内を見れば、聖、一人あり。齢(よはひ)、わづかに二十(はたち)ばかりにやと見ゆ。衣・袈裟、うるはしく着て、法華経読み奉る。この声、妙なること、たとへていはん方なし。一巻を読み終りて、経机の上に置けば、その経、人も手触れぬに、みづから巻き返されて、もとのごとくになる。かくしつつ、一の巻より八巻にいたるまで、巻くこと、前のごとし。一部読み終りて廻向礼拝す。

その後、立ち出でて、この人を見て、驚きあやしみていはく、「この所には、昔より人来ることなし。山の中にも深き山なれば、鳥の声だにも聞こえず。いかにして来たれるぞ」と言ふ。ことのありさま、始めより語る。すなはち、あはれみて、坊の内へ呼び入れつ。

とばかりありて、形えもいはずうつくしき童子、めでたき食ひ物を捧げて来たる。聖、この僧に勧むれば、これを食ひ終りぬ。味はひの妙(たへ)なること、人間の食にあらず2)。おほかた、ことにふれ、ものごとに不思議ならずといふことなし。

僧、聖に問ひていはく「この所に住みて、幾年(いくとせ)ばかりにかなり給へる。また、いかなることか侍る。何ごとも思す様なりや」と言ふ。聖のいはく、「ここに住み初めて後、八十余年になりぬ。われ、もとは叡山東塔の三昧座主の弟子にてなんありしが、しかあるを、いささかのことによりて、はしたなくさいなまれしかば、愚かなる心にて、かしこに迷ひ歩(あり)きて、定めたりし所もなかりき。よはひ衰へて後、この山に跡をとどめて、今はここにて終らんことを待つなり」と言ふ。

僧、いよいよ怪しく思えて、重ねて問ふ。「人、来たらぬよしのたまへど、めでたき童子、あまた見ゆ。これ、御偽りに似たり」。聖のいはく、「『天諸童子以為給仕3)』、何かは怪しからん」と言ふ。僧、また同じく、「よはひたけたるよしをのたまへど、御形(かたち)を見れば、若く盛りなり。これ、またおぼつかなし」。聖のいはく、「『得聞是経病即消滅不老不死4)』、さらに飾れることにあらず」。

かくて、ややほど経る間に、聖、この僧を勧めていはく、「とく帰り給へ」と言ふ。僧、歎きて言ふやう、「日ごろ迷ひ歩(あり)きつるほどに、身疲れ、力尽きて、たちまちに帰るべき心地もせず。いはんや、日、すでに傾きて夜に入なんとす。何のゆゑにか、聖、われをいとひ給へる」と言ふ。聖のいふやう、「いとふにはあらず。はるかに人間の気(け)を離れて、多くの年を経たるゆゑに、勧め聞こゆばかりなり。もし、今夜(こよひ)泊まらんとならば、身を動(うごか)さず、音を立てずして居たれ」と教ふ。僧、聖の教へのごとく、隠れつつ居たり。

やうやう夜更くるほどに、風、にはかに吹きて、常の気色にあらず。すなはち、さまざまの形したる、鬼神、諸の猛(たけ)き獣(けだもの)、数も知らず集まる。馬面(ばめん)なるもあり、牛に似たるもあり、また、鳥の頭(かしら)なるもあり。鹿の形なるもあり。おのおの、香花(かうげ)のごとく、果物のたぐひ、もろもろの飯食を捧げて、松の庭に高き机を立てて、その上に置きつつ、掌(たなごころ)を合はせて敬ひ拝みて、平(ひら)び居ぬ。

この中に、ある輩のいはく、「怪しきかな。常に似ず、人間の気(け)あり」。また、あるがいはく、「何人か、ここに来たらん」と言ふ。そののち、聖、発願して法華経を読む。

暁に及びて、廻向する時、このもろもろの輩(ともがら)、敬ひ拝して去りぬ。僧、問ひていはく、「この、さまざま形したる物、数も知らず、何のたぐひ、いづれの所より来たれるぞ」。聖のいはく、「『若人在空閑、我遣天竜王、夜叉鬼神等、為作聴法衆5)』、これなり」と云ふ。さまざまの不思議を見、聖の言葉を聞くに、貴く頼もしきことかぎりなし。

明けぬれば、「今は帰りなん」と思ひて、なほ、道にまどはんことを歎く。聖の、「しるべを付けて、送り申すべし」と言ひて、水瓶(みづがめ)を取りて、前に置く。そのの水瓶、踊り下りて、やうやう先に行く。

その瓶(かめ)の後(しり)に付きて行くままに、二時ばかりを経て、山の頂(いただき)に登りぬ。ここにて見下せば、麓(ふもと)に人里(ひとざと)あり。その時に、水瓶、空に昇りて、もとの所に飛び帰りにけり。

この人、里に行き出でて、このことをば語り伝へたりけるなり。記とて、かれこれに記し置ける文あれど、ことしげければ、覚ゆるばかりを書きたるなり。

翻刻

発心集第四               鴨長明撰
  三昧座主弟子得法華経験事
中比義叡ト云テ此彼ヲコナヒアリク修行者アリケリ
熊野ヨリ大峰ニ入テ。ミ嶽ヘ出ル間ニ道ヲフミタガヘテ十
日余リガ程ススロニ嶮キ谷峰ヲ迷ヒアリキケル。身ツカレ
力ツキテ。イトトアヤウク覚ヘケレバ心ヲ至テ本尊ニ祈
乞。其後カラウシテ平ラカナル処ニ行出タリケリ。ソコニ
一ノ松原アリ。林ノ中ニ一ノ菴アリ近ク歩ヨリテ是ヲ見
ニヱモイハヌ新ク作レル屋アリ。物具カザリ皆玉ノ如シ
庭ノスナゴ雪ニ不異植木ニハ花サキ木ノ実ムスビ前栽/n3l
ニハサマサマノサク花色コトニ妙也。義叡是ヲ見テ喜フ
事カギリナシ。シバシウチヤスミツツ此屋ノ内ヲ見ハ聖独
アリ齢ワヅカニ廿計ニヤト見ユ衣袈裟ウルハシク著テ
法華経ヨミ奉ル此声妙ナル事タトヘテ云ハン方ナシ。一
巻ヲヨミヲハリテ経ヅクエノ上ニ置バ其経人モ手フレヌニ。
ミヅカラマキカヘサレテ元ノ如クニナル。カクシツツ一ノ巻ヨリ
八巻ニイタルマテマク事前ノ如シ一部ヨミヲハリテ廻
向礼拝ス。ソノノチ立出テ此人ヲ見テ驚キ奇ミテ云此
所ニハ昔ヨリ人来ル事ナシ。山中ニモ深キ山ナレハ鳥ノ
声ダニモキコエス。イカニシテ来レルソト云。事ノ有様/n4r
始ヨリカタル。即アハレミテ坊ノ内ヘヨヒ入ツ。トバカリアリ
テ。カタチヱモイハズウツクシキ童子目出キクヰ物ヲ
捧テ来ル聖此僧ニススムレハ是ヲクヰヲハリヌ。味ノ妙ナ
ル事人間ノ食ニ大方事ニフレ物コトニ不思儀ナラズト
云事ナシ僧聖ニ問テ云ク此所ニスミテイクトセバカリ
ニカナリ給ヘル。又イカナル事カ侍ル何事モヲボス様ナ
リヤト云聖ノ云爰ニ栖ソメテ後八十余年ニナリヌ我
本ハ叡山東塔ノ三昧座主ノ弟子ニテナンアリシカ。然
アルヲイササカノ事ニヨリテ。ハシタナクサイナマレシカ
バ愚カナル心ニテカシコニ迷ヒアリキテ定タリシ所モ/n4l
ナカリキ。ヨハヒヲトロヘテ後此山ニ跡ヲトトメテ今ハ爰
ニテオハラン事ヲ待也ト云フ。僧イヨイヨアヤシク覚テ
重テ問フ人来ラヌ由ノ給ヘド目出童子アマタ見ユ。
是御偽ニ似タリ聖ノ云天諸童子以為給仕ナニカ
ハアヤシカラント云フ。僧又同クヨハヒタケタル由ヲノ給ヘ
ド御形ヲ見レハ若クサカリナリ。是又ヲボツカナシ聖
ノ云ク。得聞是経病即消滅不老不死。更ニカザレル事
ニ非ス。カクテヤヤ程フル間ニ聖此僧ヲススメテ云。トク
帰給ヱト云。僧歎テ云様日比迷アリキツルホドニ
身ツカレ力ツキテ忽ニ帰ベキ心地モセズ況ヤ日既傾/n5r
キテ夜ニ入ナントス。何ノ故ニカ聖我ヲイトヒ給ヘル
ト云フ。聖ノ云様イトフニハ非ス。遥ニ人間ノケヲ離テ
ヲヲクノ年ヲヘタル故ニ。ススメキコユバカリ也若今夜トマ
ラントナラバ身ヲ動サズ音ヲタテズシテヰタレトヲシ
フ。僧聖ノヲシヘノ如ク。カクレツツ居タリ。ヤウヤウ夜フクル
程ニ風俄ニ吹テ常ノ気色ニアラズ。即サマザマノ形シ
タル鬼神諸ノタケキケダモノ数モ不知集ル馬面ナ
ルモアリ。牛ニ似タルモアリ。又鳥ノカシラナルモアリ。鹿
ノ形ナルモアリ。各々香花ノ如ク。クダ物ノ類ヒ諸ノ飯
食ヲ捧テ松ノ庭ニ高キ机ヲ立テソノ上ニ置ツツ掌ヲ/n5l
合テ敬ヒヲカミテ。ヒラビヰヌ。此中ニ或ル輩ノ云アヤシ
キ哉常ニ似ズ人間ノケアリ。又或ガ云何人カ爰ニ来
ラント云フ。其後聖発願シテ法華経ヲヨム。暁ニ及テ
廻向スル時此諸ノ輩敬ヒ拝シテ去ヌ。僧問テ云此ノ様々
形シタル物数モ不知何ノ類ヒ何ノ所ヨリ来レルソ。聖ノ云
若人在空閑我遣天竜王夜叉鬼神等為作聴法衆
コレナリト云フ。サマザマノ不思儀ヲ見聖ノ詞ヲキクニ貴
クタノモシキ事限ナシ。明ヌレバ今ハ帰ナント思テ猶道ニ
マドハン事ヲナゲク。聖ノシルベヲ付テ送リ申ベシト云テ
水瓶ヲ取テ前ニ置ク其ノ水瓶。ヲドリヲリテ。ヤウヤウサキ/n6r
ニ行其カメノ後ニツキテ行ママニ。二時計ヲ経テ山ノ頂ニノ
ボリヌ爰ニテ見ヲロセバ麓ニ人里アリ。ソノ時ニ水瓶空ニ
ノボリテ本ノ処ニ飛帰ニケリ。此人里ニ行出テ此ノ事ヲバ
語リツタヘタリケル也。記トテ彼此ニシルシ置ケル文アレ
ド事繁ケレバ覚ルバカリヲ書タルナリ/n6l
1)
義睿とも
2)
底本「あらず」なし。諸本により補う。
3)
『法華経』安楽行品
4)
『法華経』薬王菩薩本事品
5)
『法華経』法師品
text/hosshinju/h_hosshinju4-01.txt · 最終更新: 2017/05/13 13:10 by Satoshi Nakagawa
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